芽生えた気持ち 3
「それじゃあ、また後でね」
麻奈は手を振って二人と別れた。その足取りは、心なしか嬉しそうに跳ねているように見える。
「いつの時代も、女性は風呂が好きですね」
麻奈の後姿を見送って、 ジュリアンは呆れたように呟く。
「さて、麻奈も行ってしまった事ですし――私に言いたい事があるのでしょう。今なら遠慮無くどうぞ」
ジュリアンはビシャードに向き直ると、彼を正面から見据えて両腕を組んだ。対するビシャードは前屈みにジュリアンを見下ろして苦い顔をしている。
「聞きたい事がある」
ジュリアンは少しだけ身を反らせて、威圧するように顔を近づけてくるビシャードから距離を取った。血だらけの男に迫られるのはぞっとしないな、と心の中で密かに毒づいたが、そんなことは顔には出さずに、ジュリアンはにこやかに身振りだけで先を促した。
「此処は一体何だ」
「残念ながら、私にも良く分かりません」
困った顔で首を傾けてみせた。このとき、ジュリアンは決して顔には出さなかったが、内心ビシャードにとてもイラついていた。こうやって見下ろされているのは正直かなり気に入らなかった。
はぐらかされたような答えが返ってきたために、ビシャードの眉が不機嫌に寄った。納得いかないと顔に描いてある。分かりやすい男だ、とジュリアンは人好きする仮面の下でせせら笑った。
「本当に詳しい事は解らないんです。私はかなり長い間此処に居ますが、この場所について詳しい事はほとんど知りません。私も貴方と同じように、此処に連れて来られた身なんです」
ふんとビシャードは鼻を鳴らす。彼の鋭い眼差しは、明らかにジュリアンの言葉を信用してはいないようだ。
「そんな事よりも、なぜ元の姿に戻れたのかと聞かないんですか」
ジュリアンの頭一つ分高い位置から、ビシャードの剣呑な視線が降ってくる。
「お前に答えられるのか」
「私の推測で良ければ、ですが。そもそも、此処に呼ばれる人間にはどんな共通点があると思いますか」
さあな、とビシャードはそっけなく答える。内容がどうでもいいというよりも、ジュリアンと話をするのが嫌で堪らないらしい。
「私が知る限りでは、共通点は負の感情なんです。挫折感や後悔や絶望。そういったマイナスの感情を持っている者がこの場所に強く呼ばれる傾向があります」
「ネガティブな者ほど選ばれるのか。成程、余は適任だな」
再び鼻を鳴らして、ビシャードは血に染まってしまった服に手を当てた。
「そう、貴方は誰よりも強い負の感情を持っていた。だから此処に降り立った直後、いきなり姿が変わったのだと思います。体が変化していくスピードは感情に比例すると私は考えています」
「成程。お前も少なからず絶望や後悔をしているというわけか」
ビシャードはジュリアンの足を指差した。完全に消えた足先を見て彼は唇の端を持ち上げる。
「いい気味だ。余の苦しみの何分の一かでも味わうが良い」
そんなビシャードの様子を見ながら、ジュリアンは肩をすくめた。 随分嫌われたものだ。しかし、ビシャードに嫌われようが好かれようが、別にどちらでも構わないと思い直した。
「此処にいる限り、体が変形する事は免れません。遅いか早いかの差異はありますが、例外は今までありませんでした。ただ一人を除いて――」
ジュリアンは、意味ありげにそう言うと、冴えざえと辺りの景色を映し出している大鏡に目をやった。この鏡を自在に使いこなすことが出来れば、此処から出ることも夢ではないはずだ。
ビシャードは睨みつけるように厳しい目を向けてくる。そんな視線を笑って受けながら、ジュリアンは自分の考えを目の前の男に話す。
「そう、麻奈です。彼女は我われとどこかが違う」
「個人差があると、さっきお前が言ったではないか」
「それは進行度合いの話です。此処に少しでも留まれば、誰でも多少の影響を受けてしまいます。麻奈は此処に着いてからもう随分時間が経ちました。それは、体が既に変化し初めてもいいぐらいの時間です」
「変化していても、お前に話すとは限らないだろう」
「いいえ。彼女なら必ず私に相談するはずです」
ビシャードはその言葉にむっとした顔をする。
「ミナカミと、余が元の姿に戻れた原因と何の関係があるのだ」
「麻奈には、もしかすると特別な何かがあるのかもしれません。あの時貴方の中にある負の感情を、彼女が取り除いてくれたおかげで、貴方は元の姿に戻ることが出来た――そうは思いませんか」
ジュリアンは、トンとビシャードの胸に人指し指をつき立てた。
「今でも、死にたいと思っていますか」
ビシャードは眉を寄せた。彼は難しい問題を突きつけられたように口元をへの字に曲げている。そして視線を少しさ迷わせた後、ゆるゆると首を振った。
「いや、今はそうは思わない。余はミナカミともっと話をしたい。彼女ともっと一緒に時を過ごしたい」
ビシャードはゆっくりと、自らが出した答えを租借するように口に出した。
「今はもう、死にたいとは思っていない」
ジュリアンは、そうでしょう。と笑う。
「私の仮説が正しいのならば、麻奈はきっと……特別なんです」
ジュリアンの口元は自然と綻んでいた。脱出の糸口がはっきりと見えてきた。
ジュリアンは気の遠くなるような長い間、この場所でずっと過ごしていた。もう此処から出る事は叶わないのかもしれないと半諦めかけていたところに、麻奈という一陣の光が差し込んできたのだ。
ジュリアンは、感慨深そうに胸に手を当てているビシャードをちらりと見た。そして思う。もしも、この男を元の姿に戻したのが麻奈だったなら……。その時は、決して誰にも渡さない。彼女は自分のものだ。このいかれた場所から脱出する為の、俺だけのモノ……。
「さて、私達も体を洗いに行きましょうか」
返事を待たずにジュリアンが歩き始めると、後ろからビシャードが大人しく付いてくる足音が聞こえてくる。
ジュリアンはビシャードに見えないように、そっと拳を握りしめる。その胸の内には激しい独占欲がぐるぐると渦巻いていた。
リーズガルドは木工室の札がかけられている部屋の中で、薄く瞳を開けた。何も見えない。 自らカーテンを締めきっているせいで、彼の部屋には暗い闇が沈殿している。 しかし、彼はこの闇の中で一つの光景を見ていたのだった。ジュリアンとビシャードの二人の姿を。
今や彼の目は無数に存在している。蔦植物という新しい目を使う時には、本来の彼の目を封じていた方が、より鮮明に見る事が出来ると気が付いたのは、いつの頃だったか。
外の騒ぎを聞き付けたリーズガルドは、新しい目と耳を使って螺旋階段で何が起きたのかを全て把握していた。
「元の姿に戻った」
ジュリアンの後に付いて階段を上るビシャードの姿を見ても、彼にはとてもそのことが信じられなかった。
「元の姿に戻った奴なんて、初めてだ」
リーズガルドは、自分が震えている事に気が付いた。
「元に戻れる……オレも戻りたい。もうこんな体は嫌だ! 出来るなら今すぐにでも!」
もう随分前に諦めていたはずの思いが、もう一度沸き上がる。鏡に映る自分の姿を見るたびに、彼は目を逸らしてきた。こんな化け物じみた姿は耐えられないと、何度涙を流しただろう。
「でも、まだ駄目だ」
両手で顔を覆うと、いつの間にか流れていた涙でリーズガルドの掌は暖かく濡れた。
「アイツを此処から見付けだすまでは、今のままの方が都合がいい」
この姿を嫌悪しながらも、その恩恵にあやからなければ自分の望みは叶わないのだと彼は知っていた。それがリーズガルドを苦しめる。此処から早く出たいのに、今はまだ出たくない。
リーズガルドはまた目を閉じた。部屋には、カサカサという彼の葉の音だけがいつまでも響いていた。