芽生えた気持ち 2
麻奈はだんだんと間隔の狭くなっていくビシャードの不機嫌な眉間を見ていた。そこには幾筋もの皺が寄っていて、このままではいつか眉毛が繋がってしまうのではないかと心配になるほどだった。
そんな顔でじっと見られていると、麻奈は訳も分らずに不安な気持ちになってしまう。一体どうして彼はこんなに不機嫌になってしまったのだろう。喧嘩を仲裁したことがまずかったのかと、麻奈は心の中でこっそり考えた。
「ところで、二人には聞いておきたい事があるんですが」
「死神に話す事などない」
ビシャードはジュリアンに噛み付くような勢いで、ぴしゃりと言い放つ。
怒りを露にしたビシャードの恫喝に、麻奈は体を震わせた。怒気を含んだ男性の声は、自分に向けられていなくても恐ろしく感じてしまう。
ジュリアンは小さく息を吐いた。
「ビシャード、もう少し冷静になって下さい。貴方は勘違いをしているんですよ。貴方を此処に連れて来たのは確かに私ですが、あんな姿にしたのは私ではありません。それに、大きな声を出すのはやめてください。麻奈が怖がっています」
ジュリアンはやれやれと大仰に肩をすくめてみせると、麻奈の肩を抱くようにして自分の元へ引き寄せた。そして怯える子供をあやすように、縮こまっている麻奈の肩をトントンと叩いた。
それを見て、ビシャードの顔色が目に見えて変わった。彼にとってその仕草は、とてもとても特別なものだった。
「彼女に触れるな」
ビシャードは、ジュリアンからもぎ取るようにして麻奈の手を引くと、その細い体で包むように後ろに隠した。誰にも見せない、触れさせたくない。ビシャードの瞳はそう告げていた。
そんな彼の行動は、お気に入りのぬいぐるみを取られまいとする幼い子供のようだ。
過剰な反応を示すビシャードに驚いて、麻奈は彼の顔を下からのぞき見た。 ビシャードの泣き出しそうな顔に気が付いた麻奈は、慌ててごしごしと彼の目元を擦った。王様がこんなに容易く涙を零すのはまずいのではないかと思う反面、そんなビシャードを見ると放っておけなくなってしまう。
「どうしたんですか、陛下」
「ミナカミは余を厭わしく思うのか」
ビシャードはほとんど消え入りそうな声でそう言うと、堪えられなくなったように下を向いてしまった。長い睫毛が伏せられて、そこから小さな雫が押し出される。麻奈はそっと彼の頬に伝う涙を拭った。彼はまるで、とても壊れやすいガラス細工のようだ。
「貴方を嫌ったりしませんよ。言ったじゃありませんか、私は陛下と友達になりたいんです」
「――そうか」
良かったと呟いて、ビシャードは胸に手を当てそのまま目を閉じた。何かを噛み締めるようなその表情は、さっきよりも穏やかになっていた。
「そろそろいいですか」
わざとらしい咳払いをひとつして、ジュリアンが二人の注意を集めた。
「先ず聞きたいのは、二人が鏡の中に入る直前のことです。麻奈には以前話したと思いますが、この鏡は常時中に入る事は出来ません。それが出来るのは、新しい住人を迎えに行く時だけでした」
麻奈とビシャードは顔を見合わせる。
「しかし、さっき貴方たちは鏡に入る事が出来た。それはなぜなのかを知りたいのです。鏡に入る時に、何か気が付いた事はありませんでしたか」
どんな小さな事でもいいです、とジュリアンは付け加える。
ビシャードは沈黙のまま首を振った。それは当然だと誰もが思う。彼はその時、視覚も聴覚も失っていたのだ。
「そう言えば」
少し遠慮がちに口を開いたのは麻奈だった。麻奈には、一つ不思議に思う事があった。
「あの時、突然大鏡が緑色に点滅した時、鏡に映った陛下が人の姿をして泣いているように見えたの。その時、目の前にいた陛下はその……違う姿形をしていたのに。それを見て、この人は悪意を持って私を追い掛けてたんじゃないんだ、って気付いたの」
ジュリアンはふむ、と頷いて大鏡の表面に指を這わせた。彼の指輪が鏡にぶつかり、カチリと固い音を立てる。ジュリアンは鏡面をゆっくりと撫でたが、彼の指が鏡の中に沈む事はなかった。
「それは不思議ですね。私には普通の鏡に見えていました。では、鏡が光る前に何か気が付いた事はありませんか」
鏡越しにジュリアンは問掛けるが、二人はふるふると首を振った。
ジュリアンはそうですか、とため息をついてから、名残惜しそうに鏡面を撫でてから手を離した。結局なぜ鏡に入ることが出来たのかは謎のままだ。
ジュリアンは残念そうに大きく息を吐き出した。
「仕方ない、これ以上此処にいても調べようがないですね。今はほら、この通りただの鏡に戻ってしまいました。今は一度解散しましょうか。みんな少々汚れていますし」
ジュリアンは上着の襟元を掴みながら肩をすくめる。 麻奈もビシャードも顔を合わせて頷いた。二人とも、もちろんその意見に異論はない。麻奈とビシャードは汚れているどころではないのだ。
実は、麻奈はさっきからシャワーを浴びたいのを必至に我慢していた。むせかえる血の臭いには慣れてしまったが、ベタベタと粘つく粘液が、顔と言わず髪と言わず全身に付いているのを我慢するのは相当辛いものがある。おまけに、ビシャードの返り血のお陰で麻奈の服も真っ赤に染まっていた。
それにしても、と麻奈は思う。ビシャードはこんなに出血していたのかと改めて確認して、麻奈はそっと身震いした。ビシャードがあのまま返らぬ人になっていたかもしれないと思うとゾッとする。
「それでは、詳しい話はまた後で。ビシャードはそうですねぇ、とりあえず私の部屋の浴室を貸しましょう」
「断る」
ジュリアンがビシャードに投げ掛けた言葉は、瞬時にして彼に突き返された。
「死神の招待など受けぬ。余はミナカミと共に行動することにしよう」
ジュリアンは困ったな、という顔で顎を撫でる。
「うーん……でも女性が風呂を使っている間、部屋で待っているだなんてハレンチだと思いませんか」
ぐっと言葉に詰まるビシャード。 麻奈としても、それはあまり歓迎出来ないなと密かに思った。その意を表すためにこくこくと頷くと、ビシャードは肩を落として残念そうにため息を吐いた。
「では、お前の部屋で世話になろう」
ジュリアンは、歓迎しますよ。と笑ったが、ビシャードはとても嫌そうな顔をしていた。