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芽生えた気持ち 1

 鏡を潜り抜ける冷たい感触が、麻奈の体を通り過ぎていく。目を開けると、麻奈は寂れた色合いの踊場に降り立っていた。

 やっと戻ってきた。麻奈はジュリアンとユエの顔を見た途端、膝から床に崩れ落ちていた。安堵と不安で震える手をジュリアンへと伸ばしたが、その手にはビシャードの血がべったりと付いているのが見えた。麻奈の心臓はまたぎゅっと苦しくなった。


「ジュリアン……」


「分かっています」


 麻奈の言葉を手で制して、ジュリアンが頷いた。彼の目は、ユエによって床に下ろされたビシャードに注がれている。


「何があったのか私たちにも分かっています。この鏡に全て映っていました。恐らくビシャードの傷は内蔵まで達しているのでしょう。応急手当てをしようにも、此処には絆創膏程度の物しかありません」


「そんな。じゃあ、せめて痛み止めを――」


「焼け石に水です」


「まだ息はあるぞ」 


 ユエはビシャードの傷の具合を確かめていた。幾重にも重なる衣服を捲くり上げて、赤く染まった腹を露にする。その途端、ユエの顔が急に強張った。そしてゆっくりと首を横に振る。


「駄目だ。この傷じゃあ、まず助からない」


 麻奈は唇を噛み締めた。


「それでも、薬があれば少し楽になるかもしれない。私取って来る」


 そう言うなり、麻奈は階段を駆け上がって行った。


「私の寝室の、ローテーブルの上にあります」


 ジュリアンの声が背中に当たる。麻奈は真っ直ぐジュリアンの部屋へと向かった。

 以前、彼の部屋で塗ってもらった痛み止めの薬を思い出した。あれは塗るタイプの物だったが、今のビシャードにも使える痛み止めがあるだろうかと、ふと思う。


 麻奈は三階のジュリアンの部屋に入ると、真っ直ぐに隣の部屋の扉を開けた。


「見たこと無いけど、確かこっちが寝室のは……ず」


 部屋の中を見て、麻奈は絶句してしまった。確にそこは寝室だった。大きなベッドも、ジュリアンの言っていたローテーブルもある。ただし、それらは全て焼け焦げて真っ黒い煤色をしていた。


「これって、火事」


 部屋の真ん中にある大きなベッドも、炎に巻かれたまま放って置かれたのだろう。ベッドマットのスプリングがむき出しになっていて、ベッドのフレームも溶けてしまっている。歪んで傾いているベッドは、真っ黒い部屋の中で一際不気味な存在感を放っていた。

 そんな部屋の中で、新品同様に白く光る救急箱はまるで異質な物のようだ。麻奈は恐る恐る部屋の中を歩いていく。

 火災の熱のせいで割れてしまっている窓からは、針山のような電信柱の大群が見える。いつもは不吉に見える黄昏の風景も、ここよりはいくらかましなような気がした。


「ジュリアンって、こんな所で寝てるの」


 麻奈は気味が悪くなって、救急箱を掴むと一目散に部屋を飛び出した。気になることは色々あるが、今はビシャードの方が先だった。

 麻奈は、来た道を戻りながら、ジュリアンの部屋について詮索するのは後にしようと思った。


 麻奈は自分にしては素晴らしく早いスピードで、みんなの待つ螺旋階段へと急いだ。

 麻奈が階段を降りていくと、何やら階下が騒がしい。怒鳴るような激しい声が聞こえてきて、麻奈は踊り場を覗き込んでみた。ビシャードが立ち上がって、ジュリアンと揉み合っている様子が見える。さっきまでその場にいたはずのユエの姿は既に消えていた。

 良く見ると、揉み合っていると言うよりは、ビシャードが一方的にジュリアンに詰め寄っているように見える。


「大変っ」


 麻奈は青ざめた。瀕死の状態のビシャードが立ち上がったりしては、本当に死んでしまう。


「ジュリアン、一体どうしたの」


 麻奈が慌てて声を掛けると、ジュリアンは困り顔で僅かに肩を上げた。


「あぁ、おかえりなさい。どうしたも何も――」


「黙れ、お前のせいで余がどんな思いをしたかっ」


 ビシャードが血まみれの手でジュリアンの胸ぐらを掴んだ。 長身なビシャードがジュリアンを威圧するように見下ろしている。それを見て麻奈は今度こそ真っ青になった。


「陛下、そんなに動いたら傷に障ります」


「止めるな」


「いいえ。陛下は酷い怪我をしてるんですよ」


 麻奈はジュリアンとビシャードの間に無理矢理割って入った。


「安静にしていないと、本当に死んじゃいますっ」


 涙目になりながら、麻奈は必死にビシャードの袖に縋り付いた。ビシャードはそんな麻奈を見て、ジュリアンの胸ぐらをしぶしぶ離した。


「彼の傷は今しがた治りましたよ」


 ジュリアンは苦笑しながら、自由になった襟元を正した。血が付いてしまったのが気になるのだろう。しきりに擦ってはため息を吐いている。


「本当? 本当に治ったんですか」


 麻奈はビシャードをまじまじと見つめる。彼の服は相変わらず真っ赤に染まっていたが、良く見ると痩せこけた頬にいくらか赤みが戻っていた。少しだけ顔色が良くなったようだ。

 目に涙を一杯貯めている麻奈に見上げられて、ビシャードは表情を弛めて頷いた。


「もう大事無い。ミナカミには心配をかけたな」


 ビシャードは安心させるように、麻奈の肩にぽんと手を乗せた。その途端、麻奈の肩の力がすっと抜けていった。今まで不安と緊張で張り詰めていた気持ちが、やっと全てほぐれていくようだ。


「良かった」


 麻奈はビシャードの袖を握り締めたまま、彼の薄い胸に額を寄せた。ビシャードが小さく身じろぎするのが分った。

 ビシャードが動いて、しゃべっている。麻奈はそれだけで嬉しかった。


「ミナカミ……」


 ビシャードは、自分にぴたりとくっついている麻奈に手を伸ばした。どうするつもりもない、彼はただ麻奈に触れたいと思ったのだ。そのまま両手で引き寄せようとしたが、ビシャードが触れるよりも早く、ジュリアンが麻奈を自分の元へと引っ張った。

 突然後ろに引かれて怪訝そうな顔をしながらも、麻奈はおとなしくジュリアンの腕に従った。どこからともなく小さな舌打ちの音が上がった。

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