ビシャードのトラウマ 11
麻奈は勢い良く鏡に向かって手を突き出した。冷たい鏡面の感触が指先に伝わり、それが一気に肘まで登ってきた。ゆらゆらと波立つ鏡面に右腕が抵抗なく入っていく。
「やった」
麻奈はビシャードの手を引いて、ゆっくりと冷たい鏡の中へと入っていった。 恐らく傷が痛むのだろう、ビシャードの歩みはとても遅く、時々立ち止まってしまう。麻奈は彼を支えながら、その歩調に合わせて慎重に鏡を潜り抜けた。
「此処を通れば大丈夫ですよ」
願うようにそう呟いてみたが、その願いは簡単には叶いそうになかった。
鏡の中は薄暗く、どちらに進めばいいのかまるで分らない。早く廃校に戻りたいのに、進む道を完全に見失ってしまったのだ。
麻奈は焦った。ビシャードは、あとどのくらいもつのだろうか。もしかしたら、もう――。そんな不吉な想像ばかりが頭をよぎる。
薄闇の中をゆるゆると二人は進んでいく。以前追いかけられた巨大な発光体は今は見当たらない。その代わりのように、 遥か遠くの方に青っぽい光が遠慮がちに揺れているのが見えた。
麻奈は不思議な思いでそれを眺めた。なぜだろう、それを見ていると懐かしい色のような気がしてくる。
麻奈が一瞬足を止めたそのとき、ビシャードと繋いでいた手がぐっと引かれた。振り返ると、いつの間にかビシャードは人の形を取り戻していた。 麻奈は喜んだのも束の間、彼の様子を見て唇を噛み締めた。
ビシャードの顔は精気のない土気色をしていた。おまけに服は血塗れで真っ赤に染まり、特に腹の辺りは血を吸って重たそうに垂れ下がっていた。ビシャードが歩くたびに、ポタリポタリと血が滴る音が聞こえてくる。
麻奈は辛くなってそこから目を剃らした。彼には、もう僅かな時間しか残されていないように見える。こうして歩いていることがほとんど奇跡なのだと感じた。
さっきまでのビシャードは、人間離れしていたせいで溢れ出る体液にもあまり実感が無かった。しかし赤い血を見てしまった途端、麻奈は生理的に込みあげてくるものがある。死は彼のほんの鼻先まで近付いているのだ。ビシャードは膝に力が入らないらしく、崩れ落ちそうになるのを懸命に我慢していた。
この人を死なせたくない。そう思って、 麻奈は竦む足を賢明に奮い起たせ、ビシャードの脇の下に頭を滑り込ませて彼を支えた。
「大丈夫ですか。私に掴まって下さい」
「なぜ止めた」
自殺の事を言っているのだろうかと思い、麻奈はじっとビシャードを見上げた。彼は今にも泣き出しそうな顔をしている。そういう表情をすると、更に目尻が下がってますます頼りない印象になる。そんなビシャードを見ると、麻奈も泣いてしまいそうだ。
「ごめんなさい」
「どうして楽にさせてくれない」
「ごめんなさい」
ビシャードの口から空気が漏れるような音がした。
「……もう、余に触れても平気なのか」
涙が麻奈の頬を伝っていた。あのとき、密かにビシャードの手を離そうとしていたことを彼は知っていたのだ。ビシャードに触れていたくないという麻奈の気持ちまで、彼はちゃんと見透かしていたのだった。
「平気です」
麻奈はビシャードの赤く濡れた脇腹に頬を寄せた。冷たい感触が頬に伝わる。
ビシャードは長いため息を一つ吐くと、目を閉じた。
「そうか」
ビシャードの顎がこつんと麻奈の頭に触れる。彼の声はほんの小さな呟きだったが、麻奈はその答えだけで胸が熱くなった。麻奈はこのとき、本当にビシャードと向き合えた気がしていた。
「もし嫌じゃなければ、今度陛下の国の話をもっと聞かせてください」
麻奈が顔を上げると、ビシャードの体がぐらりと斜めに傾いた。麻奈は咄嗟に彼を支えるが、その重さに耐えかねて一緒に地面に倒れこんでしまう。
「陛下っ」
ビシャードは目を閉じたまま動かない。浅い呼吸を繰り返していたはずの口から、ごぼりと血が溢れてビシャードの細い顎を伝っていった。
「駄目――駄目です陛下」
ビシャードの腕を取って、麻奈は必死に彼を立たせようとした。このまま此処にいたら死んでしまう。歩かなければ。麻奈の頭の中にはそれしか浮かばなかった。
「戻らなきゃ。絶対、戻らなくちゃいけないのに……」
麻奈はビシャードの痩せこけた頬に触れてみた。柔らかいのに、とても冷たい。
涙が堰を切ったように溢れ出してくる。まるで良くできた人形のようなビシャードの姿が、たちまち滲んで見えなくなった。
まだ諦めては駄目だと思う反面、麻奈は虚脱感に囚われてしまい、その場にしゃがみ込んで動けなくなっていた。もう、立ち上がる気力すら残ってはいない。
涙で何も見えなくなった麻奈の目に、眩しい光が一筋差し込んできた。ゆるゆると顔を上げると、その光は四角い形になって目の前をふんわりと漂っている。
「なんだろう」
近付いてみると、巨大な四角い光の中に見知った人影が見える。麻奈の顔が輝いた。
「ジュリアン、ユエ」
四角く切り取られた光の中で、二人は口を動かしながら鏡を叩いている。声は聞こえないが、麻奈は懐かしい顔を見て涙を拭った。
麻奈はビシャードの両腕を持ち上げると、強い光を放つ鏡まで引きずって行った。さっきまでの無力感はどこかに消えうせていた。麻奈は自分を叱りたくなった。なぜ諦めようとしてしまったのだろうか。彼の命を救えるのは、この場では自分しかいなかったのに。
麻奈は重たいビシャードの体を引きずりながら、懸命に歩いた。思うように進まないのがとてももどかしい。
痩せていてもビシャードは長身な成人男性だ。麻奈は渾身の力でビシャードを引っ張りながら、鏡に背中から身を浸した。すっかり馴染みになった冷たい感触を背中に感じて、麻奈は達成感のため息と共に目を閉じた。
ビシャードの命が間に合えばいい。ただそれだけが心配だった。