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ビシャードのトラウマ 10

この話には残酷な表現が含まれています。ご注意ください。

 麻奈は教えられた階段を一目散に駆け降りて、天井の高い廊下を見つけた。これが赤いドームがある庭へと続く廊下だろう。

 廊下の両端には、なぜか可愛らしい動物の置物が一定の間隔で並べられているのが目についた。 麻奈はつい好奇心から、その小さな置物を手に取ってみる。


「コアラ? 何でこんな所にこんなにたくさん」


 大きな鼻につぶらな瞳。陶器で出来ているような硬い感触の置物だがそれはコアラそっくりに見えた。置物をそっと元に戻して、麻奈はコアラもどきが居並ぶ可愛らしい廊下を進んだ。 ふと、一匹のコアラもどきがうつ伏せに倒れているのを見付けて側にしゃがみ込む。


「可愛そうに。誰がやったんだろ」


 苦しそうに倒れている置物を台座に立たせてやり、麻奈はコアラもどきの頭をよしよしと撫でた。麻奈は知らない。この国では、この置物は手を触れることも躊躇ってしまうほどの神聖な獣なのだと。


「これで良し。それにしても可愛いなぁこれ、一匹もらって帰りたいな」


 麻奈は両脇に並ぶ置物を眺めながら歩く。一匹一匹、表情や仕草が違うようで見ているだけでも面白い。此処をビシャードも通ったのだろうかと考えながら、麻奈は廊下の突き当たりの扉の前まで歩いた。

 ビシャードを傷つけるつもりはなかったのだと、彼にきちんと謝罪ができたら、この可愛らしい置物の事について聞いてみたいと思った。しかし、全身で麻奈を拒絶したビシャードを思うと、麻奈はまた涙が出てきそうになる。


 暗い気持ちを追い払うように、麻奈は目の前の巨大な扉に手をかけようとして、はっと息を飲んだ。

 扉が濡れている。扉の取っ手には粘着性の雫が滴っていて、良く見ると床にも水溜りが出来ていた。まるで何か濡れた物を引きずっていったような跡が扉の外へと続いているのを見て、麻奈の気持ちはざわついた。とても嫌な予感がする。

 あの名前も知らぬ少女は何と言っていただろう。戻りかけている。確かそう言っていたのではないか。

 粘つく床の汚れを見ながら、嫌な予感はほぼ確信に変わっていた。


 麻奈はほとんど体当たりするように扉を抜けると、ドーム状の建物目がけて全力で走りだした。あの粘つく水溜りには覚えがある。ほんのりピンク色をしたそれは――。麻奈はこれ以上考えたくなかった。


 黄昏の中をひたすら走った。すぐに息切れしてしまい、スピードは見る間に落ちていったが、出せる力の全てで走り続けた。

 麻奈が建物の入り口に辿り着いた頃には、太陽はとっくに沈んでいて、ひんやりとした風が辺りの草花を揺らしていた。


 渇いて張り付いてしまった喉で何とか唾液を飲み下し、少しだけ息を整えてからドームの扉を開けて中を覗いた。中は暗い。熱も光も、太陽と共に地平線の向こうへ去ってしまったようだ。


「陛下! 中にいますかっ」


 恐る恐る中へと足を踏み入れる。頼りなく響く足音を聞きながら、麻奈はビシャードを探した。だんだんと暗闇に目が慣れてくると、中の様子が見えてくる。

 だだっぴろい部屋の奥に低い階段があり、その上に鎮座するように巨大な丸い形の鏡が置かれている。麻奈には、祭壇に大きな鏡を祀っているように見えた。その背後の壁にはステンドグラスのような色とりどりの窓ガラスがはめ込まれていて、光が当たったらさぞかし綺麗なのだろうと思った。


 綺麗で厳かな空間だが、麻奈の目は祭壇の鏡に向けられていた。それを見た瞬間、麻奈は神社を思い出した。神社に祀られている御神体は大抵鏡が多い。故郷との以外な共通点を見つけて、麻奈は不思議な心地でそれを眺めた。

 その時、静かな部屋に微かな息遣いのような音が響いた。


「陛下ですか」


 麻奈は中央に描かれた道のような線をゆっくりと歩いた。祭壇以外にはほとんど何もない部屋だ。隠れているとしたら、場所は一つしかない。


「陛下」


 思ったとおり、祭壇の陰に隠れるようにしてうずくまる人影を見付けた。(いや)、それはもはや人影とは言えなかった。


「そんな、また戻ってる……」


 麻奈の呟きは、高い天井に吸い込まれていった。祭壇の裏側で、ふるふると冗談のように揺れているのは、ピンク色の巨大な塊だった。一歩間違えば美味しそうにすら見えるそれは、間違いなくあのビシャードなのだ。麻奈は驚きと緊張のあまり、止めてしまっていた呼吸を意識して繰り返した。

 前にビシャードが言った言葉を思い出す。耳も聞こえず、目も見えない。声をかけても返事がないのは当然だった。

 それにしても、先ほどからビシャードは小刻にプルプルと揺れているのが麻奈には気にかかる。


「陛下、どうかしましたか」


 何となく彼が背中を向けているような気がして、小さく震える肩越しにそっと覗き込んでみた。


「っひ」

 

 喉の奥から引き攣れたような息が漏れた。

 ビシャードの触手のようになってしまった腕には、小ぶりのナイフが握りられていて、彼はそれを自分の腹の辺りに突き刺していた。何度も何度も。その度にビシャードの体は小刻に震え、ふるふるとゼリー状の体も揺れるのだった。突き刺した腹からナイフを抜くと、ドロリとした粘液がどっと溢れ出す。


「だ、駄目……やめて。やめて下さい!」


 麻奈は夢中でビシャードのナイフを取り上げようと飛び付いた。しかし、彼の手はぬるぬると滑ってなかなかナイフを取り上げられない。


「陛下、離して! 手を離して下さいってば」


 ビシャードと揉合ううちに、麻奈はまた頭から足元まで粘液にまみれてしまった。

 いつか、廃校でビシャードに抱えられた時よりも粘液の量が多いような気がする。もしかすると、これはビシャードの血液なのかもしれないと思い、麻奈は心臓が痛いほど激しく跳ね上がった。


「駄目、陛下! 早くそれを離してください」


 ビシャードはナイフを握り絞めたまま、麻奈を引きずりながら尚も自らの腹にそれを押し込もうとする。麻奈は夢中でビシャードのぬめる腕に噛みついた。グッという呻き声を漏らして、やっとナイフが床に落ちる。


「何で! 何でこんな酷い事するんですかっ」


 麻奈は泣きながらビシャードにしがみついていた。ビシャードの腹部の傷を手で押さえるが、ピンク色の粘液はとめどなく溢れてくる。


「どうしよう。どうしたらいいの? このままじゃ――」


 麻奈はビシャードにしがみつく事しか出来ない。 涙が溢れてもう前が見えなかった。ビシャードの体液で上着が温かく濡れていくのを感じながら、麻奈は無力な自分に歯噛みしていた。


「陛下、死んじゃ駄目ですよ。私……私、貴方に謝りに来たんです。怖がってごめんなさいって。もう、平気だから一緒に帰りましょうって」


 後はもう声にならなかった。麻奈はビシャードのぶよぶよした体に手を回して、ゆっくりと撫でた。ビシャードの腕がそれに答えるように、震えながら麻奈に巻き付く。背中をのろのろと擦るビシャードの腕が嬉しかった。


「許してくれるんですか」


 この拙く背中を撫でる手を失うのかと思うと、麻奈はやりきれない気持ちになる。


「陛下。陛下ぁ……。もっと貴方と話をしておけば良かった。そうしたら、貴方の事を少しでも分かる事が出来たかもしれないのに」


 ビシャードには届いていないかもしれないが、麻奈は話し続ける。そして、なるべく彼の体を優しく撫で続けた。自分のせいだ。麻奈の心の中はその思いで溢れていた。きっと自分が彼を突き放したせいで最後の一歩を踏み出させたのだ。


「死なないで下さい。貴方と――もっと友達みたくなりたいんです」


 麻奈は粘つくビシャードの胸に頬を寄せた。


トクトクトク……。

早いリズムで彼の心臓の鼓動が聞こえる。まだ動いているのに――。そう思ってから、麻奈は勢い良く顔を上げた。


「まだ助かるかもしれない」


 素早くビシャードの腕の中から抜け出すと、彼の手を掴んで力一杯引っ張った。


「陛下来て下さい。廃校に戻れば、肉体の時間が戻るんです。この傷も無かった事になるかもしれない」


 麻奈はビシャードの腕をなおも引っ張るが、彼のぬるぬるした手は直ぐにすっぽ抜けてしまう。


「立って。出口はきっと鏡なんです。あの大きな鏡まで行けば助かるかもしれない」 


 引いて駄目ならと、麻奈はビシャードの後ろに回ってその体を押してみた。柔らかいビシャードの体に手がめり込んでいく。そして、その重たい体がゆっくりと動き始めた。


「陛下も歩いて下さい。私一人じゃ、階段は無理です」


 ビシャードは押されるまま動こうとしない。彼には麻奈の言葉は届かないのだろう。それでも、麻奈は必死に話しかけながらビシャードを押した。耳が聞こえなくても、何かが届くかもしれない。


「陛下お願いします。貴方を死なせたくないの」


 ビシャードは動かない。


「お願いだから動いてよぉ!」

 

 麻奈の必死の叫びが聞こえたのかいないのか、ビシャードは自ら階段を昇り始めた。どうやら、麻奈の意思だけは伝わったようだ。麻奈はほっと息を吐いて、その背中を押し続けた。少しでも彼の歩みを助けたいと思った。

 

 階段をたった数段昇るだけの道のりが、今の二人には果てしなく遠く感じられる。

 やっと鏡の前に辿り着いた頃には、麻奈はゼィゼイと肩で息をしていた。巨大な丸い鏡には、桃色の粘液でどろどろになった麻奈と、小刻みに震えている巨大なゼリーが映っている。


「行きましょう」


 麻奈はビシャードの手を取った。

 この鏡が出口だという確信は無い。宛てが外れてしまえばビシャードはこのまま死ぬだろう。麻奈は祈るような気持ちで鏡に向かって手をつきだした。

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