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ビシャードのトラウマ 9

 耳が痛くなるほど静かな廊下。

 ビシャードはそこで、いつの間にか立ち止まっていたらしい。足元には、相変わらず愛らしい姿の聖獣を象った置物が転がっていた。

 暫しの白昼夢から醒めた後、彼の胸には苦い思いだけが広がっていた。過去の出来事を思い出すたびに、愚かな自分が浮彫りになるようだ。


「あの男に付いて行った結果が、この有り様か」


 自分の人生から逃げた先でビシャードを待っていたのは、本当の孤独だった。

 鏡をくぐり抜けた途端、ビシャードは視力と聴力、そして言葉を失った。自分がどこにいるのか、どんな状態なのかも分からずに、助けを求めてただ彷徨っていた日々を思い出す。

 並外れた嗅覚を頼りに、人の気配を探って近付いてみたが、そのたびに冷水を浴びせられる始末。

惨めで孤独だった。いつ終わるとも無いそんな生活は、もう何も失うものは無いと思っていたビシャードから、たった一つだけ残っていた人としての誇りを根刮ぎ奪っていったのだった。


 そんな中で出会った甘い香りのする少女。手を伸ばしてすがり付いたその体は、柔らかな弾力でビシャードを癒してくれた。震えながらも優しく撫でてくれたあの手の感触は彼にとってただ一つの光だった。

 その柔らかな手に出会ってから、ビシャードは必至に彼女を探していた。


「ミナカミ。やっと見付けた余の光――。そなたには、ただ側に居て欲しかった」


 ビシャードは徐々に重たくなってくる足を引きずりながら、また歩き始めた。まるで見えない砂袋を足に括りつけているような重さだ。

 ビシャードは視界にも違和感を感じて、目を細めて廊下の前方を見据えた。廊下の先がまるで見えなかった。虫に食われたかのように、黒い斑点模様が幾つも出来ていた、だんだんとそれが広がっている。


「あぁ、遂に目も使い物にならなくなったか」


 ビシャードは目を閉じる。やがてまた目が見えなくなるのだろうか。そんな恐怖にも似た思いが頭をよぎったが、それでも彼は歩みだけは止めなかった。

 まだ耳は聞こえている。まだ若干の猶予は残されているのだと思って、ビシャードは手探りで歩みを進めた。


「せめて、最後は自分の意思で終わりたい――」


 いつしか、彼の足元にはドロリと粘ついた液体が滴り落ちていた。それが、ビシャードが歩く度にナメクジが這った後のようにぬらぬらと光る道を作っていた。








「此処は、一体何処なの」


 麻奈は肩で息をしながら、周りを見渡した。ビシャードを追ってはみたものの、彼がどっちに行ったか検討も付かなかった。

 誰かに聞いてみようにも、誰も麻奈の事が見えていないので話しかけてもみんな素通りしてしまう。困り果てて、直感お頼りに走り回ってはみたものの、そんなに都合良く麻奈の勘は働かないらしい。その結果、麻奈はただ迷子になっただけだった。

 どこまで行っても代わり映えのしない光景に疲れ果て、ついついその場にへたり込んだ。


「誰か、過去じゃない今のビシャード陛下見ませんでしたかっ」


 返事など初めから期待しない、完全な独り言だった。しかし――


「見たよ」


 実にあっさりした返事が後ろから聞こえてきて、麻奈は飛びあがるほど驚いた。 振り向くと、少女が一人立っている。


 柔らかな栗色の巻き毛に、鼻に散ったそばかす。くるくると良く動く鳶色の瞳が可愛らしい少女だった。きっと小学校高学年ぐらいといった年頃だろう。


「あたし見たよ」


 少女は何でもないことのように麻奈を見上げているが、麻奈は口を開けたまま返事を返す事が出来なかった。この場所で、麻奈のことが見える人がいるなどとは思ってもいなかったのだ。

 よく見ると少女はこの国の服とは異なる服装をしていた。白いブラウスのような前合わせの上着に、膝上丈のふんわりとしたスカート。どちらかと言えば麻奈の世界の服に近いように思う。    


 しかし、麻奈は眉を寄せた。彼女の服がとても汚れているのだ。 あちこち破れたり、乾いた泥のような汚れがたくさんこびり付いている。さっきまで泥遊びでもしていたような格好の小女は小さく後ろで手を組んで、真っ直ぐに麻奈を見つめている。麻奈の頭にもしかして、という言葉が閃いた。


「あ、あなたも此処に迷い込んじゃったの」


「はぁ? 迷子はあなたの方でしょう」


 少女は可愛らしい鼻をつんと上向きに反らせながら、小馬鹿にしたような眼差しを麻奈に向けた。

 可愛くない。一瞬喉まで出かかったその言葉を、麻奈は何とか飲み込んだ。この生意気な感じは誰かを思い起こさせる。


「ねぇ、そんなアホみたいな顔しないでよ。それより、人を探してるんでしょ? 私見たよ」


「本当っ。それどこで見たの? どっちに行ったの? 本当に陛下だった?」


「頭悪い質問しないでよ、鬱陶しいなぁ。灰緑色の癖毛で痩せた人でしょう。さっきあそこに向かって行くのを見たわ」


 少女のほっそりした指が窓を示した。その先には赤いドーム状の建物が見える。

 丘のような小高い緑の庭に、突如そびえる巨大な建物。それは夕日を背負って、暗く物悲しい陰をべっとりと張り付かせていた。

 麻奈は窓から身を乗り出して、外を眺めた。もしかしたら、まだビシャードがその辺りにいるかもしれない。


「急いだ方がいいよ。彼、また戻りかけてる」


「どういう事」


 麻奈の質問を全く無視して、少女は廊下を指差した。


「こっちの廊下を行くと、その突き当たりに階段があるわ。そこから下の階に行ける。外に出たら、後はあの巨大な建物目指して行けばいいよ。すごく簡単だわ、馬鹿でも行ける」


 いちいち釈に触る言い方に麻奈は少しムッとする。

 少女はそんな事は気にも止めずに、麻奈に示した道とは別の方向へすたすたと歩き出していた。別れの言葉も何もない。その素っ気無い小さな背中に、麻奈は慌てて声をかけた。


「ちょっと待ってよ、あなたどこ行くの」


 少女は面倒くさそうな顔をして振り返えった。小さくため息を吐いている様子が、何とも生意気で可愛らしい。


「早く行って。彼、もう殆んど変わってしまってるんだから」


 それだけ言うと、少女はまた背を向けて歩き出した。

 麻奈は何となく、それ以上彼女を呼び止め辛くなってしまい、仕方なく少女の背中を見送っていた。すると少女の輪郭がうっすらと白くなり、まるで辺りに溶けるように消えてしまった。

 その光景を見ていた麻奈は、再びあんぐりと口を開いたまま、驚きのあまり幾度も瞬きを繰り返した。しかし、いくら目を凝らしてみてもそこには少女の影すら見付からない。


「今のって」


 時間差で這上がって来た悪寒に、麻奈はぶるぶると震えた。まさかと思うけれど、それしか思い当たらない。


「幽霊」


 口に出してしまってから麻奈は非常に後悔した。これではまるで幽霊の存在を認めてしまったかのようだ。麻奈は霊現象断固否定派だった。

 更に背中を駆け巡る悪寒を払い除けるため、少女に教えられた道へと走りだす。

 後回し、先送り、良く分らないことはそれに限る。廃校に来てから、麻奈は受け流すのがずいぶんと上手くなったような気がしていた。


「見てない、見てない! 私何にも見てないもん!」

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