ビシャードのトラウマ 8
ビシャードは歩く。どこに向かっているのかは自分でも分からない。
アナンに会えた事は幸運だった。ビシャードは彼の首を絞めてしまった瞬間、心に決めた事があった。
「これ以上醜態をさらす前に、自分の始末は自分でつけよう」
生まれを選ぶ事は出来なかったが、終りだけは自分で選ぶ事ができる。ビシャードは死に場所を求めてふらふらと歩き続ける。
ビシャードは、以前先王に言い放った言葉を思い出した。自分だけは自分を諦めない。そう言ったのは僅か一ヶ月前のことだった。今もその気持ちに変わりは無い。ただ、もう疲れたのだ。
「余は自分に出来る事をした。それで駄目なら……悔いはない」
ビシャードはいつの間にか、神殿の建てられている庭に出ていた。背の低い草が生い茂る庭の一角に、煉瓦造りの赤い建物が一際目立つ。彼は誘われるようにそこに近付いて、戸口の前に立っていた。
「神殿か」
中には誰もいない。しんと静まり返った空気と祭壇。御神体として奉られている人の背丈ほどもある鏡が、夕日を浴びてキラキラと光っていた。
「最後に懺悔か――らしくもないな」
自らの命を絶つには、この場所は神聖すぎる。 ビシャードは踵を返して神殿を出て行った。しかし、数歩も歩かないうちにビシャードは歩みを止める事になる。
「な、何だっ」
突然後ろの神殿の中から光が溢れ出て、ビシャードは振り向いた。
「これは、一体」
彼は吸い寄せられるように祭壇へと近付いた。御神体の鏡が、点滅しながら強い光を放っている。こんな御神体を見るのは初めてのことだった。
ビシャードが手を触れようとした瞬間、御神体から光が消え失せてしまい、辺りはまた紅い影が支配する静かな神殿に戻っていた。
「夢を見ていたのか」
今の光の名残も無く、冷ややかに佇む御神体を見ながら、ビシャードは夢を見たのではないかと不安になった。立ったまま夢を見るようでは自分もずいぶん焼きが回ったものだと頭の片隅で考えていた。
その時、酷く場違いなのんびりした声がかけられた。
「あの、ちょっと伺いますが――」
声のした方を振り向いてみると、男が一人御神体の影から顔を出した。
「貴方、酷く絶望していますね」
奇妙な男はつかつかと歩いて、ビシャードの前に立った。ぴたりと体に張り付くような奇妙な服を着た男は、ビシャードに軽く会釈をした。その拍子に、男の首に巻かれた見事な銀細工のネックレスが澄んだ音を響かせる。
「貴方を迎えに来ましたよ」
整った顔にふわりと笑顔を浮かべる。
「そなたは……一体いつの間に?」
さっきまでは誰もいなかった筈だ。まさか、死を考えていた自分に差し向けられた死神だろうか。 今の自分に迎えが来るならば、それしか考えられない。しかし、柔らかな印象のこの男はあまり死神にふさわしくないような気がする。寧ろ――。
ビシャードは祭壇の巨大な鏡を見た。そこには、気の毒な程に痩せて陰のある男が、暗い瞳を向けているのが見える。自分のほうがよほど死神のようではないかと思い、つい笑ってしまった。
そんなビシャードの様子に構う事無く、 男は微笑みながらビシャードに恭しく手を差し出した。
「突然で不躾ですが、私と一緒に来てもらえますか。貴方の助けが必要なのです」
「余の?」
ビシャードの喉の奥から低い笑い声が漏れた。そんなビシャードを不思議そうに見ていた男の手を彼は猛然と払いのけた。
「余の事を知らないらしいな、奇妙な男よ。今はそなたを咎めはしない。だが、今後は言動に気を付けろっ」
ビシャードは高飛車に、しかし自嘲気味に男に言い放った。
「余はこの国の王だ。そなたは一体何者だ」
男は一瞬目を見開いたが、直ぐに柔和な笑みを浮かべた。
「――それは失礼を致しました。私はジュリアン田中と申します」
慇懃に受け答えるが、ジュリアンの頭はピクリとも動かない。頭を下げる事もなく、目線を合わせたままのジュリアンを見て、ビシャードは不快な気持ちが沸き上がる。気に入らない。この男の洗練されたしぐさに隠された本心は、恐らく他人を馬鹿にしている。
「さて、陛下。さきほどお願い申し上げた通り、私は貴方を迎えに参りました」
丁寧な言葉とは裏腹に、ジュリアンはビシャードの手首を掴むとそのまま引きずるように祭壇へと歩き出した。
「貴様、無礼であろう」
ビシャードは手を振り払おうとするが、ジュリアンの手はビシャードの手首に食い込んで全くびくともしない。ビシャードは自分の非力さを浮き彫りにされたようで、ジュリアンに更に嫌悪感を募らせた。
ジュリアンは男を一人引きずっているとは思えない歩みで、祭壇へと歩いて行く。
「離さぬかっ」
情けなく引きずられたまま、ビシャードは懐に入れた護身用の小刀をすらりと抜いた。ジュリアンの喉元にそれをぴたりと当てると、彼の歩みがようやく止まった。ジュリアンは振り返って眉間に皺を寄せる。しかし、掴んでいる手首はそのままだった。
「危ない物はしまって下さい。私は貴方を此処から救ってあげたいだけです」
ビシャードは小刀を構えたまま動かない。
「絶望しているのでしょう? 何もかも捨てて、逃げ出してしまいたいのでしょう」
ジュリアンは声を落として、囁くようにビシャードの耳に顔を寄せた。
「私なら、貴方を此処から連れだしてあげられます。自殺するよりも、その方がずっと良いと思いますよ」
ビシャードの瞳が僅に揺らいだのを、ジュリアンは見逃さなかった。一瞬のうちにビシャードの小刀をかいくぐると、単身祭壇を駆け上がった。
そして、目の前の巨大な鏡に躊躇う事なく片手を伸ばすと、指先が鏡の中に沈んでいった。固いはずのその表面にはゆらゆらとさざ波が広がっている。ジュリアンはどんどん腕を入れてゆき、遂には肘まで鏡の中にとぷりと沈んだ。
「さぁ、行きましょう」
ジュリアンはビシャードを振り返り、手を伸ばす。
「そなたは……本当に死神か」
「まさか、違いますよ」
ビシャードには、彼がまるで獲物を捕えた悪魔のようにニンマリと笑ったように見えた。しかし、瞬き一つする間に彼の表情は真剣なものへと変わっていた。
「選んで下さい。私と共に行くか、此処に残るのか」
「無理矢理にでも引きずっていくのではないのか」
「いいえ。貴方はきっと、私と共に行く事を選んでくれます」
そう言って、ジュリアンはより一層手を差し出した。ビシャードはその手に誘われるように、ふらりと一歩踏み出してしまった。そして、はっとしてその足を慌てて元に戻した。
ジュリアンの言葉は、ビシャードにとってとても魅力的に響く。危うく、この胡散臭い男の手を取ってしまいそうになってしまった。
ビシャードはジュリアンを睨みつけたまま、思案した。この男に付いて行くのが危険な事だと、もちろん分かっている。しかし、自分の命すら絶とうとしていたところだ。もう失う物は何も無いように思える。
ビシャードは急に晴れやかな気持ちになった。
「全てを捨てて、一からやり直すのも悪くないかもしれないな」
ビシャードは、今度は自分の意思でしっかりと歩みを進めた。 目の前に差し出された手を強く握る。
「どこに行くのか知らぬが、宜しく頼むぞ死神」
ジュリアンは笑った。
「だから、私は死神ではありません。もっとも、疫病神かもしれませんけどね――」
そう言って白い歯を見せるジュリアンの顔は、ビシャードの脳裏にいつまでも鮮やかに焼き付いていた。
いつも読んでくださってありがとうございます。
今回でビシャードの回想も終わりです。
それでは、また。