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ビシャードのトラウマ 7

 現在と過去、二人のビシャードが部屋を出て行ってしまった。一人で部屋に残されてしまった麻奈は、途方に暮れていた。これから自分は一体どうしたらいいのだろう。帰るために何をしたらいいのかさっぱり解らない。

 

 麻奈はひっそりと横たわっている棺を見つめた。全ての間違いは、彼とビシャードの母親がしでかしたことから始まったのだ。そう思うと、そのふたりにとても腹が立った。彼らに翻弄されてしまったビシャードも王も、気の毒で可哀想でならなかった。


「やっぱり一人で帰るわけにはいかない。陛下も一緒に連れて行かないと」


麻奈は棺をちらりと見た。手をあわせる気にもなれなくて、そのまま部屋を飛び出してビシャードを追いかけていった。







 ビシャードは石造りの廊下をふらふらと歩いていた。麻奈と別れた後、彼は足が赴くままに歩き続けていた。

 辺りには誰の姿もない。此処は司祭と王族しか立ち入ることが出来ない、神殿と宮殿とを繋ぐ道だった。日が翳った今の時間、祈りを捧げる者は誰もいない。太陽の神を祭るこの神殿には、暗くなってから入るのはタブーとされているのだ。


 ビシャードは大きくふらついて壁に手をついた。ガタリと大きな音がして、足もとにあった置物が倒れる。神獣を象ったそれは、大きな鼻をした毛の長い聖なる動物の形をした置物だった。神殿への道を守護する門番として、それらはこの廊下に点々と置かれている。ビシャードはそれの一体を台座ごと蹴とばしてしまったらしい。置物と言えども、聖なる獣。本来ならば、それは神をも恐れぬ所業だった。

  しかしビシャードはそれに一蔑もする事なく、足を引きずりながら歩いて行く。なぜか足が重たくてたまらなくなっていた。しかし、ビシャードはそんなことも気にならないようにひたすら歩き続ける。今の彼は、何も構う気になれないのだった。


 ビシャードは 先程まで見ていた、懐かしくも心がえぐられるような場面のことを思い返していた。 一番辛い思い出を客観的に眺めるのは、思ったよりも苦痛だった。何より、当時はかなり動揺していたせいで聞き逃していた父の言葉を、もう一度一言一句はっきりと聞かされたのだ。

  麻奈の手前、ビシャードは取り乱したりはしなかったが、自分の心のどこかがズタズタになっていくような気がした。


「あぁ、何て重たい足だ」


 ビシャードは足にまとわり付く裾を払いながら進んだ。いっそのこと、この重たい体を捨ててしまおうかとも考える。そうすれば、もう何もかも感じなくてすむのだ。


「あの時と同じか――」


 ビシャードは、奇妙な男が迎えに来た時のことをふと思い出した。そのときも、紅い夕日が地平線に隠れる寸前の、薄暗い夕暮れ時だった。

 段々と重くなる足を引きずりながら、ビシャードは過去に思いを馳せていた。








 王を窓から突き飛ばした後、ビシャードは王の生死を確認させた。流石に、それを自分の目で確認する余裕は彼にはなかった。

 結果、二階から突き落とされても王は死んではいなかった。大怪我を負ったが、辛うじて一命だけは取り留めていたのだ。その報告を聞いて、ビシャードは密かにその後の方針を練った。どうすれば自分に疑いがかかることなく、王位を引き継げるか――。王が執務を取れない以上、いくらでもやりようがあるはずだ。彼は密かにそう思った。


 まず、ビシャードは王を宮殿の中央から遠ざけさせ、宮殿の奥深くの離れに閉じ込めた。療養と言う名の監禁だ。王の意識が戻ることは難しいとのことだったが、念には念をいれて、今ビシャードが動かせる兵を離れに配置させた。警備と称して、完全に王を閉じ込めるつもりだった。


 それからビシャードは、今回の騒動は王が乱心したために起きた事だと噂を流した。

 王が中央から離れている間に、その噂はアッという間に広まり、翌日には宮殿の下働きのものにさえ知れ渡っていた。

 全てはビシャードの思惑通りに進んだ。 後は王が乱心したという証拠を掻き集め、それを臣下の前に示す事で、自分が先王を突き落とした疑いを晴らす事が出来るだろう。

 ビシャードは、あのとき錯乱した王が自分に斬りかかり、その事を悔いて自ら身を投げたのだと繰り返し訴えた。しかし証人がいない。ビシャードの発言に、ほとんどの臣たちは懐疑的だった。

 

 その後、ビシャードの言葉を信じざるを得ない証拠が出てきた。先王が出したジェミール暗殺の勅命を受けた将を、ビシャードが探し出してきたのだ。勅命の書を出す事によって、だんだんとビシャードを支持する者が増えていった。

 これで王を退陣させ、ビシャードが戴冠する準備が整った。ビシャードは、華やかで時間のかかる戴冠式を、ジェミールの喪に伏すべきであると主張して省いた。彼は少しでも早く王位に就きたかったのだ。王の意識が戻らないうちに。

 幸いその申し出はすんなりと通り、ビシャードは望んだとおり、玉座に収まる事が出来た。それは王が宮殿を離れてから、僅か七日の出来事だった。


 ビシャードは予定通り玉座に座ると、長い息を吐き出していた。ここまでこぎつけるのに、とても長かったように感じていた。父が座っていた椅子に座る。たったそれだけのことなのに――。

 しかし、まだ気を抜く事は出来ない。とても危険な綱渡りは無事成功したが、まだ気がかりが一つだけ残っているのだ。

 今回の出来事で、ビシャードには明確に説明出来ない事がある。それは、先王がなぜジェミールを暗殺しようとしたのかだった。それを話せば、王の血を引かない自分が王位に就くことが出来なくなってしまう。何があっても、絶対にそれを公にする事はできないのだ。


 理由の解らない物事は疑われ易いものだと、彼は良く心得ていた。ビシャードは、そこを突かれた時の返答を考えていたのだが、彼の予想に反してジェミール暗殺の理由は深く追求されることはなかった。先王とその弟の不仲はほとんどの者が承知していた事で、今更どうこういうものでは無かったらしい。


 こうしてビシャードは、穏便にそして速やかに王位を得る事が出来た。

 自分の本当の人生は、ここから始まるのだとビシャードは信じた。未来をこんなに楽しみに思ったのは、幼い頃以来のことだった。

 その時のビシャードはとても満足していた。自分の力で望んでいた全てを手に入れたのだ。今まで疎ましく思われているだけの存在だった自分に、全ての者が頭を下げる。それは一種の快感でさえあった。


 しかし、そんな生活は長くは続かなかった。万全を期したつもりでも、ビシャードを疑う声は静かに、そして小波のように広がっていった。


「先の事件は、やはりどこかがおかしい」


「ビシャード陛下が先王を亡きものにしようとしたのではないのか」


「誰も現場を目撃していないんだ、いくらでもビシャード陛下の良いようにでっち上げられるさ」


「しかし、先王が出した勅命があるぞ。印が押されているのだから、確かに先王御自身が出された物に違いない。先王が御乱心なされた立派な証拠ではないかっ」


「いや、御乱心なされて勅命を出したのではないのかもしれぬ。例えば――ジェミール様が謀反を企てていたとか」


「それならば、何故密かに勅命を出す必要がある? 堂々と出せばよいではないかっ」


「戦中に味方を処罰すれば、それだけで士気が下がる事もある。ましてや、前線で戦っておられたジェミール様ならば尚更だろう」


「真相がどちらにせよ、ビシャード陛下の戴冠には府に落ちない点が他にも色々ある」


「確かに、本来ならば吉日を選んで舞台を整えるのが普通だが、ビシャード陛下はやたら焦っていたように感じられたな」


「まさか、ビシャード陛下が全て仕組んだ事だと? ジェミール様暗殺の勅命を出すように、先王に進言したとでも言いたいのか」


「先王の御乱心よりは、有り得る話ではないか」


「――やはりこの国の王にふさわしいのはアナン殿下しかいない」


 噂はいつしか、ビシャードを中心に激しい渦を巻き始め、水面下でビシャードを非難し始めた。だが、誰も直接ビシャードに疑問を問う事はしなかった。表面上は何事もないかのように振舞いながら、誰もが執務以外の時にはいつも遠巻きに疑いの眼差しを彼に注いでいた。そして、目が合うとそそくさと逃げていくのだ。ビシャードは一人、玉座に座りながら項垂れる日が続いた。


 いつしか、ビシャードは食事も喉を通らなくなり、またやせ細っていった。王位を継承してからたった一ヶ月でこの有り様。詰めが甘かったのかと、後悔する毎日が続いていた。

 水面下で噂されるだけでは、逆らう者を片っ端から処分することも出来ない。過去の暴君のようにそれをしても良かったが、人心が離れていくだけだということを彼は良く分かっていた。  


 結局、憧れて止まなかった椅子に座っても、彼は一人きりだった。 いつしか、彼の周囲にはまた物騒な空気が忍び寄っていた。

 外を歩けば矢が飛んで来る事など茶飯事に戻っていた。ビシャードは今までの経験から、命を守る術は嫌というほど知っている。毒にも耐久性がある。

 しかし、ビシャードの精神は徐々に病んでいった。誰が敵か味方かも解らない中で命を狙われ、臣達は彼を認めずに顔を背ける。もう限界だった。


 ビシャードはフラフラと玉座から降りると、頼りない足取りで歩き出していた。眠れない日々を過ごしていた彼の目の下には更に濃くなった隈が張り付いていた。彼はもう、正常な判断すら出来なくなっていたとは、自分でも気がついていなかった。


「まず余の噂をする者に処罰を与え、出所を調べよう。それから、以後この話をする者が出ないように、そ奴を見せしめに処刑しなければならない。そして次は――」


 歩きながら今後の事を考える。それは酷く面倒で頭が痛くなる事だった。彼は知らずため息が癖になっていた。


「疲れたな」


 その時のビシャードに行く宛などはなかった。ただこの息苦しさから逃れる為に、此処から逃げ出したいと考えていた。


「陛下」


 廊下に差し掛かった所で、弟のアナンがビシャードに声をかけてきた。いつもなら、ビシャードの声がかかるまで話しかけることのない控えめな弟だったが、その時はアナンの方から声をかけていた。

 いつもよりも体調が悪いように見えたせいだろうか。ビシャードはつまらないものでも見るかのように、出来の良い弟にちらりと目を向けた。


「陛下、如何致しました?――兄上?」


 ビシャードは返事をすることもなく、アナンから視線をそらしてそのまま通り過ぎようとした。鬱陶しい。ビシャードは弟と比べられる度に、劣等感を募らせ、いつも彼を疎ましく思っていた。だが、ビシャードも馬鹿ではない。表立ってその感情を表したのは初めてのことだった。今は無性にこの弟が憎いと思った。

 

 いつもの兄らしからぬ様子に、アナンは不振そうに首を傾げた。

 彼はこの二歳違いの兄をとても慕っていた。アナンにとってビシャードは、細い体を真っ直ぐに伸ばして、常に高みを見つめている人だった。たった独りで、いかなる障害にも立ち向かう姿にアナンはいつも憧れの瞳を向けていたのだった。


「兄上、如何なさいました」


 アナンは通り過ぎようとするビシャードの正面に回り込むと、彼と正面から対峙した。 無礼を承知でその細い肩を掴んで顔を覗き込むと、ビシャードの線がゆるゆると上がった。彼は充血した瞳で、弟の顔を見ていた。


「兄上。一体どうなさったんですか」


 ビシャードは、自分よりも精悍な弟の顔に、突然拳を叩き込んだ。ゴッという鈍い音がしてアナンはその場に膝を付いた。 床に赤い雫がポタポタと落ちる。


「あぁ、アナン……。アナンっ」


 痛みに顔を歪めて、アナンが鼻を押さえながら顔をあげると、ビシャードが口許を引きつらせながら見下ろしていた。生唾を飲み下すのもぎこちなく、アナンの喉がゴクリと鳴った。


「余の弟――」


 ビシャードの骨ばった指には血が付いていた。それがアナンの首に回される。優しく、ゆっくりと。


「余の代わりに、出来の良いお前が王になれれば良かったのになぁ。この国の者はみんなそう望んでいる」


 アナンの太い首に指を這わせたビシャードは、その硬くたくましい感触にすら嫉妬していた。自分の欲しい物を全て持っている弟。


「何を仰います、今は兄上が王なのです。下らない噂など捨ておけば良いのです」


 アナンの真っ直ぐな視線を受けて、ビシャードの指に力が入った。


「流石だ。やはりお前は言う事が違うな。余よりずっと王の器ではないか」


「兄上――」


「余はお前が羨ましいぞ。誰からも王にと望まれるお前が」


 ビシャードの手にグッと力が加わった。


「っ兄上……」

 

 きりきりと絞まる気道にアナンの声が掠れた。その声にはっとしたビシャードは、彼の首から手を離した。一体、自分は今何をしてしまったのだろうか。

 ビシャードは、咳き込んでいるアナンの鼻血を自分の服の袖でそっと拭った。その顔には後悔の色がありありと滲んでいる。


「――すまないアナン。余は、少し疲れたのかもしれぬ」


 別人のように穏やかな顔付きになったビシャードに、アナンは安堵よりも胸騒ぎがした。


「悪かったな、許せ」


「いえ――大した事ではありません」

 

 ビシャードはアナンに手を貸して彼を立たせてから、その筋肉に覆われた肩をポンと叩くと、そのまま歩きだした。


「陛下、私は陛下こそが王に相応しいと思っています」


 弟の声をビシャードは背中で受けた。

 アナンは、兄の細い背中を見ると、殴られた怒りよりも悲しさが沸き上がっていた。きっと彼は誰も信じてはいないのだ。心を許していないのだ。

 続く刺客のせいだろうか、その背中はまた一段と痩せて見えた。ビシャードの後ろ姿を見送るアナンの胸騒ぎはいつまでも止まる事は無かった。


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