ビシャードのトラウマ 6
全てを見ていた麻奈は、瞬きもせずに震えていた。目の前で何が起こったのか理解出来ずに、ただ呆然としていることしか出来ない。
王が落ちた。ビシャードが、突き落としたのだ。
その場面ばかりが頭の中で繰り返し繰り返し再現され、その度に麻奈の胸はぎゅっと掴まれたように苦しくなった。
恐る恐る隣に立つビシャードを見上げると、彼はじっと麻奈を見ていた。何かを期待するような、それでいて突き放すような視線。それを見て、麻奈は繋いでいた手を離してしまいたい衝動に駆られた。彼の手を握っていたくない、そう思ったのだ。
麻奈はその感情のままに、ビシャードの手を離そうとした。しかし、その前にビシャードが逆に強く麻奈の手を握りしめた。
汗でじっとりと湿った二人の掌は、べたべたとした感触をしていた。
「わざと突き落としたんですか」
麻奈の口は勝手に動いていた。
「――正当防衛だ」
麻奈はビシャードのこわばった顔を見つめた。彼の答えには素直に頷けない。確かに先に仕掛けたのは王だった。ビシャードは彼から自分の命を守らなければならなかったのは認める。しかし、ここまでする必要があったのだろうか。
ビシャードは自分の意思で、自分が王になるために一番大きな障害を排除したのだ。それが、父親と呼んで慕っていた人だったとしても――。
麻奈は、窓の外を見下ろしている過去のビシャードに目を向けた。激しく息を乱しているその横顔は、夕陽の陰になっていて見えない。彼がどんな顔をしているのか、見えなくて良かったと麻奈は思った。
「確かに、正当防衛でした。でも――」
「言うなっ!」
鋭い叱咤を受けて、麻奈は震え上がった。その剣幕に押されて、無意識に一歩後ろへ下がる。
「余はこうしなければならなかったんだ。こうしなければ、余は父上に殺されていた」
繋いでいる手が痛いほど握られる。
「余は王になりたかった。力を得て、皆に認められたかった。誰かに必要だと言って欲しかったんだっ 」
ビシャードはすがるような目で麻奈を見つめる。
「余が生きる道は、こうするより他は無かった」
「陛下……」
項垂れながらビシャードは何度も呟く。まるで自分にいい聞かせるように。そして、彼はきっと誰かにそれを肯定してもらいたかったのだろう。たとえ、それがこの国に全く関係のない麻奈の言葉でも良いほど、彼は追い詰められているのだ。
しかしそれが分かっていても、今の麻奈にはそれを言ってあげられる余裕は無かった。目の前で人が殺された衝撃に囚われて、まだ震えが収まらなかった。
ビシャードの身の上は気の毒だと思う。彼が言うように、生き残る道はこれしかなかったのかもしれない。しかし、それと今湧き上がってくる感情とは別物なのだ。
ビシャードは人を殺した。どうしてもその事実だけが際立ってしまう。
麻奈は今、ビシャードをとても恐ろしいと思った。
ふたりの間に長い沈黙が横たわった。ビシャードの手からだんだんと力が抜けていき、ずるりと麻奈の手がそこから滑り落ちた。
まるでそれが合図だったかのように、ビシャードがゆるゆると顔を上げる。怯える麻奈を見つめて、彼の口の端が僅かに歪む。
「ミナカミ……そなたも、余を受け入れてはくれないのか」
そう言うが早いか、骨ばったビシャードの手が麻奈の胸ぐらを掴んで、ぐいと強く引き寄せた。
「余が恐ろしいのか」
ビシャードは長身な体を折り畳むように麻奈に顔を近付けた。吐息がかかるほどに近い彼の顔に、悔しそうな色が滲む。あまりに突然の出来事に、麻奈は声も出ない。
何も答え無い麻奈に苛立ったのか、ビシャードが奥歯を噛み締める音が間近で聞こえた。
「見ずしらずの者だったが、そなたなら心を許しても良いかと思っていた。孤独だった余を、損得関係なく救ってくれたお前なら……。だが、結局お前も城の奴らと同じだ。余を受け入れない。認めてはくれないのだろう」
「そんな――」
麻奈の視界がみるみるぼやけていった。
「泣くほど怖いか? はは……嫌われたものだ」
麻奈は言葉に詰まった。ビシャードが怖いのは事実だったが、彼を傷つけたいわけではないのだ。何かを言わなくてはと焦るけれど、今はしゃくりあげる声しか出てこない。
ビシャードが乾いた笑いを浮かべる。
「やはり、誰かに心を許す事が間違っていたのだ」
麻奈を見つめるターコイズ色の瞳には、最早何の感情も浮かんでいない。
「誰も余を必要としないのなら、余はもう誰も必要としない」
ビシャードは麻奈の胸ぐらを掴んでいた手を離すと、ゆっくりと歪な笑みを浮かべる。その左目から、すっと涙が一筋溢れて目元のホクロを濡らしていった。
「お前も、もう――要らない」
ビシャードは麻奈の胸をドンと突き飛ばした。麻奈は後ろに数歩、たたらを踏んで床に倒れ込んだ。
涙でぼやける視界の中で、ビシャードが裾を翻して部屋を出て行く様子を、麻奈はただぼんやりと見送っていた。
バタンと扉が閉まる音が響く。それはビシャードの拒絶の音のように聞こえた。扉を見つめながら、自分の肩を力任せに抱き締めた。こんな所、もう嫌だ。
麻奈はそのまま身を縮めて目を閉じる。懐かしい顔を脳裏に浮かべながら、かたかたと震える体を鎮めようと両腕に力を込める。
「酷いよ。あんなのただの八つ当たりじゃない。――怖いよ、ジュリアン。早く此処から出たいよ」
ジュリアンがこの場にいたら、きっと優しく微笑んで麻奈を甘やかしてくれるに違いない。麻奈はきつくきつく目を瞑った。夕日も目の前に置かれている棺も、過去のビシャードさえも見たくないと思った。
ビシャードは、一体自分に何を望んでいたのだろうか。貴方の行動は仕方なかったのだと認めてあげればよかったのか。そもそも、お互いの事を良く知りもしないで、勝手に理想を押し付けるなんて迷惑でしかない。
しかし、瞼の裏に浮かんでくるのは、ビシャードの傷付いた顔だった。
「陛下、泣いてた」
誰も必要無い、その言葉が麻奈の胸にざらついて残る。廃校で出会ったピンク色の肉塊を思い出し、麻奈は突然理解した。だからビシャードはあのような姿になったのだと。
誰も見えず、誰の声も聞こえない。みんなから避けられ、一人きりの世界で生きる。それは『誰も要らない』と言った彼が望んだものそのものだった。それと同時に、彼が一番恐れていたもの。
「ジュリアンが言ってたのは、こういう事だったのね」
その時、今まで窓辺に呆然と佇んでいた過去のビシャードが振り向いた。そして、そのまま真っ直ぐ麻奈の方に向かって歩いて来る。麻奈は緊張しながら息を潜めた。彼に自分が見えるはずはないと分っていても、自然と鼓動が早くなる。
ビシャードの首から鎖骨にかけて赤い筋が走っている。そこからじんわりと血が滲んでいるのが見えたが、大した出血もなく傷も深くないようだ。さっき王に斬られた傷だろう、見る限り命に別状はないようなので、麻奈はほっと胸をなでおろした。
過去のビシャードは麻奈の横をすり抜けると、ドアを開けて廊下へ顔を出した。
「誰か―。誰かいないかっ」
その声を聞き付けて、数人の足音がバタバタと近付いて来た。
「どうかなさいましたか」
駆け付けてきたのは、簡素だが甲冑を付けた衛士のような男たちだった。彼らは、ビシャードの傷を見るなり驚き、一瞬にして緊張を走らせた。
「ビシャード殿下、その傷は」
「かすり傷だ。それよりもたった今、王がご乱心なされてここから階下に飛び下りた」
衛士たちは一瞬言葉に詰まり、互いに顔を見合わせた。そして、すぐさまバルコニーに駆け寄り、たちまち絶句してしまった。 固まったままの彼らにビシャードは鋭く指示をだす。
「早く行け! まだ息があるかもしれない」
一同がはっと我に返り、足音荒く部屋を出ていった。彼らのその青い顔を見ると、王の怪我が致命傷に達しているのだと想像出来る。
麻奈は立ち上がって、ふらふらと吸い寄せられるように窓辺に歩み寄っていった。深い意味などなく、みんなと同じように下を覗き込んでみようと思ったのだ。
石畳の上に王が倒れていた。それを見てから、麻奈はたちまち後悔した。喉の奥に苦いものが競りあがってくるのを、口元に手を当てて何とか堪える。
王の右足は本来曲がらない方向に曲がり、石畳にはどす黒い血だまりが広がっている。麻奈は鼻まで両手で覆って、えづくのだけは何とか我慢した。大量の血の匂いが此処まで臭ってくるようだ。
麻奈が何とか呼吸を整えていたその時、後ろからビシャードの弱々しい声が聞こえてきた。
頭だけを残した夕日の頼りない明かりの中、過去のビシャードはひっそりと置かれている棺の前に膝まずいていた。
「叔父上……。いや、貴方が私の父上でしたね」
彼は、棺の半分ほどずり落ちている蓋をそっとずらして、震える指でそっと遺体の頬に触れた。麻奈はこの時、初めて棺の中の遺体の顔を見た。
亡くなってから、かなりの日にちが経っているのだろう。その顔はかなり黒く変色していたが、ビシャードに良く似た垂れた目と、二つ並ぶホクロが見て取れた。
「貴方は知っていたのですか? 私が息子だと」
ビシャードの瞳から涙が溢れ出る。
「どうして……どうしてこんな事に――」
ぎりぎりと唇を噛み締める。
「どうして母を愛したのですか。貴方が道を外れなければ、こんな事にはならなかったのにっ」
ビシャードは必死に嗚咽を噛み殺す。その度に彼の肩は小刻に震えた。やりきれない悲しみは、彼の中には到底納まりきれないのだろう。
麻奈は、彼の後ろでそっと涙を拭いた。
ビシャードはそれからしばらく経った後、服の端で涙を拭ってから、今度はしっかりした足取りで部屋の外へと歩いて行った。 部屋を後にする際に、彼は棺へ一瞬だけ視線を送ったが、すぐに前を向いてそのまま出て行った。