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ビシャードのトラウマ 4

 二人は乳白色の柱の列を横切って、巨大で陰鬱な廊下を歩いていた。その途中、何人かの人たちとすれ違ったが、誰も麻奈とビシャードに注意を払う者はいなかった。


「とりあえず、外へ出るにはどっちに行けば良いですか」


「そうだな、右の廊下へ。その方が正面から出るよりも近道だ」


 二人が歩きかけたその途端、周りの存在がまたしてもあいまいに輪郭を溶かしていく。ゆらゆらと揺らいで見える景色がどこかへと流れ去り、麻奈たちはその渦の中にただただ立ち尽くしていた。


 また場面が変わるのか、と半ば諦めのような気持ちで麻奈は辺りの様子を見つめていた。

 まるで風に吹き飛ばされる砂のように、少しずつ移ろう風景。その後ろから新しい景色が顔を出す様子は、何度見ても幻想的だと麻奈は思う。

 しかし、この不可思議で美しい景色とは裏腹に、麻奈はなぜか胸騒ぎがしていた。だんだんとビシャードの過去に何が起きたのか、核心へ迫ってきている気がするのだ。

 どうしてビシャードの過去を見せられているのかは分からないが、この現象には何者かの悪意すら感じる。ビシャードの触れられたくない過去をわざわざ選んでいるように思えるのだ。

 

 すっかり景色が入れ替わると、そこは夕闇が忍び寄る茜色の小さな部屋になっていた。どこからか、据えた様な臭いが漂ってきて、麻奈は顔をしかめて小さく鼻を鳴らした。

 大きな人の背丈ほどもある窓は開け放たれていて、見覚えのある男がその前に立っているのが見えた。 少し影になっていたが、窓の前に立つのは、ビシャードの父親の姿だった。


 しかし、これがあの堂々としていた彼の父だろうか。薄くなった髪は白くなり、顔の皮膚はたるんでくすんだ色をしている。刻まれた深い皴と落ち窪んだ目は、彼に十分な老いを感じさせた。何より、肩を丸めて佇む様子は、ただの寂しい老人のようだ。


 彼はじっと動かずに、足元に置かれている巨大な白木で出来た箱を見つめていた。ふと、何気ない動きで腰から下げている湾曲した刀に手をかける。剣と鞘のこすれるザラザラという音がして、彼はそれをゆっくりと引き抜いた。


 麻奈は息をのんだ。夕日を受けて鈍く光るそれは、禍々しい茜色に染まって見えた。

 ビシャードの父は足元に置かれている箱に顔を寄せると、そっと手を置いた。まるで慈しむように表面を軽く撫でている。しかし、その顔は強張ったままだった。

 

 それは奇妙な箱だった。大きくて細長く、蓋には小さな覗き穴のような物がある。麻奈の位置からは中を覗くことは叶わなかったが、隣にいるビシャードが緊張したように震えたのを見て、楽しい物が入っているわけではないのだと察した。


 中身は気になるが、それよりもびりびりと痛いほどに張り詰めているビシャードの方が気にかかる。

 今の彼は、声をかけるのさえも躊躇ってしまう。

 そこへ、バタンと大きな音を立てて、一人の青年が飛び込んできた。


「父上、叔父上がご帰還されたというのは本当ですかっ」


 廊下を駆けてきたのだろう。息を弾ませて、嬉しそうに頬を上気させているのは過去のビシャードだった。部屋に飛び込んできた彼は、顔色が悪く不健康そうではあるけれど、背の高い青年に成長していた。

 今のビシャードとあまり変わりのないその姿は、恐らくこれがごく最近の出来事であるのだと推測出来る。


「このたびの勝ち(いくさ)のお祝いに伺ったのですが――叔父上はどこに」


 部屋に父親しかいないことにビシャードが戸惑った様子を見せていると、王は剣を握ったまま、駆け込んできた息子をちらりと振り返って立ち上がった。そして、無言で足元の箱の蓋をスライドさせて顎で示した。覗いてみろ、ということらしい。


 箱の蓋が僅かに開いた途端、中からザアッという音がして、大量の白い粉が床に零れ落ちた。麻奈はその隙間から、白い粉に埋もれている何かがちらりと見えた気がした。目を凝らしてそれが何なのか確かめようとしたその時、隣にいるビシャードの手が伸びてきて麻奈の目を片手で覆った。それは酷く冷たい手だった。


「陛下?」


 据えた臭いが強くなった気がした。


「見ないほうがいい」


 その言葉で、麻奈は箱の中に何が入っているのかがやっと分った。

 話の流れからして、それは恐らく――


「叔父上の亡骸だ」


 麻奈の視界を柔らかく塞ぎながら話すビシャードの声は、少し震えていた。

 箱の中に大量に入っていた白い粉末は、遺体の腐敗を防ぐ為の塩だったのだ。

 麻奈は、自分の目に張り付いている優しい手に、自らの手を重ねた。ひんやりと冷たい彼の手を目元から外して、そのまま指先をちょんと握る。 ビシャードは一瞬驚いたような顔をして麻奈を見下ろしている。麻奈はその瞳に軽く頷いて、目の前の出来事を一緒に見守ろうと思った。


 過去のビシャードは、目を見開いて叔父の亡骸を見つめていた。驚いた顔で固まるその顔は、人形のように生気が感じられない。

 王は、とても緩慢な動きで剣先を棺に向けていった。


「理解したかビシャード。ジェミールは、そこだ」


 棺を覗く過去のビシャードの唇が震えた。隈に縁取られたその瞳から、涙が盛り上がって溢れ出す。


「今度の戦は、死傷者はほとんど出なかったと報告がありました――。それなのに、なぜ叔父上が」


 叔父が亡くなった事を否定して欲しくて、ビシャードは縋るような視線を王に向けたが、彼は手にしている剣を弄んで視線を逸らすばかりだった。

 悲しみに濡れたビシャードの瞳が、急に大きく見開かれた。はっとしたその表情は、何かに気づいたように見える。


「父上、貴方は此処で何をしていたのですか? 死者に労いの言葉をかけるのに、そのような剣は必要ないはず」


「――労うだと?」


 この時初めて王の顔に表情が浮かんだ。


「余に奴を労えというのか! この裏切り者の弟にっ」


 今まで能面のように無表情な顔をしていた王の頬に赤みが差した。


「この男が死んだのは当然の報いだ。余が労う必要など全くないっ」


 興奮して口から泡を飛ばしながら怒鳴る王の目が、爛々と薄闇に輝いた。


「できるものならば、余のこの手で殺してやりたかった」


 忌々しそうに塩の中で眠る男を見下す。


「首だけにして帰還させるはずが、手違いで五体満足で帰ってくるとは――」


 ぞっとする声色で、王は棺桶の中の遺体の首元を凝視している。

 麻奈は体に震えが走った。彼が手にした剣で何をしようとしていたのか想像できてしまったのだ。そんなことがまかり通る国。これがビシャードの世界なのだと、麻奈はこの時呆然と理解した。


「父上、まさか――戦に紛れて叔父上を打つよう命令を出したのですかっ」


 王は動かない。無言は肯定だった。

 ビシャードの顔色が変わる。


「なぜ」


 ビシャードは震えていた。怒りと悲しみが混ざり合って、内側から抑えきれない感情が噴出しているようだった。


「なぜ? それは余が聞きたいものだ。どうして二人は余を裏切ったのかっ」


「二人?」


「そう。お前の母と、ジェミールだ。ちょうど良い機会だ。お前にも関係のある話なのだから、聞かせてやろう」


 いつもと様子の違う父親を睨みながら、ビシャードは話の先を待った。怒りを何とか体の中へと押し止め、血走った王の目をまっすぐに見つめる。

 なぜかは分らないが、この話は聞かねばならないと彼は思った。叔父の死を追及するのはその後だ、と。


「17年前、スジャナは病で死ぬ直前に、余に一つの秘密を告白した。今にしてみると、聞かなければ良かったといつも思う」


 ゴクリ。鳴ったのは誰の喉だったのだろう。


「お前の母は病に倒れ、自分にはもう僅かな時間さえも残されていないと知っていた。そして床に臥せながら、余に話さなければならない事があると言ったのだ。掠れた声で、もう動かぬはずの体を起こし、額を床に付けるほど深く頭を下げて」


 父親は軽く息を吐いた。


「スジャナは言ったよ。私は許されない罪を犯しました。ビシャードの父親は貴方ではありません。と……」


 誰も動けなかった。王の声だけが紅い夕日の差し込む中、静かに響いていた。


「余は初めは信じなかった。お前は余によく似ていた。その容姿も、才も。しかし、スジャナは首を振った」


 王はその時のことを思い出しているのか、遠い目をしている。


「彼女は易を立てた。その結果、お前は余の子供ではないと出たという。――もう察しは付くだろう? お前の父親は、ジェミールだ」


 王は足元の弟をじっと見つめた。その顔は、いっそ穏やかとも言える表情だったが、剣を握る彼の手は小刻みに震えていた。


「なぜスジャナはこの事を余に告げたのだろうな。自分の子供ではなくても、今までと変わりなくビシャードを育ててくれるはずだと、余に期待したのだろうか――それとも、罪を負いきれなくなって、許しが欲しかっただけなのか」


 王は目元を片手で覆った。


「だが、余はそのような心の広い男ではないのだ。許さない。許せない。17年経った今でさえもっ」


「父上」


「この告白さえなければ、お前が余の子供ではない事は永遠に気づかなかっただろう。お前は余に生き写しだった。あのときまで、優秀だったお前は余の自慢の息子だった。しかし、血が繋がっていないと分った瞬間、お前を酷く憎らしく思った」


 王はビシャードを睨みつけるように見つめると、剣先を突きつけた。


「二人の罪の象徴であるお前も許すことは出来ない。あの時、余は愛しい妻と最愛の息子、最も信頼する弟を同時に失ったのだ」


 涙を流す王の瞳は、もうビシャードを見てはいなかった。ビシャードに突きつけられた剣先がぶるぶると震える。


「それからは、お前も知っているだろう。余はジェミールを遠ざけた。不義理を理由に処刑する事は出来なかったのだ。それをしてしまえば、余は妻を寝取られた王という烙印を押されるのだからな。奴を国の果ての警備にあて、顔を見ることも無ければこの怒りもいつかは収まるだろうと思っていた。しかし、心の奥ではやり場のない怒りはいつまで経っても燻り続けた」


「それで、それで叔父上を殺したのですか」


 王は口角を片方だけ持ち上げた。


「そうだ」


「どうして――。17年間耐えたではありませんか。なぜ今になってこんな事を」


 王はふん、と鼻を鳴らした。


「この男が、今度の戦を終えたら何をしようとしていたか知っているか? 妻を娶ろうとしていたのだ。余から妻を奪っておいて、自分だけ幸せになろうだんて――。許せぬ。余と同じように、この男は孤独に打ちひしがれていなければならないのに。だから余は、密かにジェミールを打つように勅命を出したのだ」


 王は突然ふっと力を抜いて笑い出した。


「長かった。あと一つ、事を終えればそれで全ての憂いが片付く」


 ゴクリ。今度は自分の喉が大きく鳴ったのを、麻奈ははっきりと聞いた。それと同時に、隣に立つビシャードの息遣いが、途端に早くなるのを感じた。


いつも読んでくださってありがとうございます。

ビシャードの母が立てた易ですが、実は非常に曖昧なものです。まさしく当たるも八卦当たらぬも八卦……。しかし、この国では易を盲目的に信じています。真相は闇の中です。

DNA鑑定でもすれば分りそうですが、そういった技術はこの国ではありません。少しだけ補足でした。

それでは、また次回。


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