ビシャードのトラウマ 2
辺りの景色が、まるで砂が崩れ落ちるようにサラサラと音を立てて流れてゆく。その光景はとても幻想的だ。現実とは思えないほどに――。
麻奈はもう何が何だか分らずに、ただ目を丸くしてこの奇妙な光景を見守っていた。よく見ると崩れ落ちる景色の後ろから、新しい風景が顔を出している。それは、世界の薄皮が一枚剥がれ落ち、そこから全く違う世界が覗いているように見えた。
麻奈の少し前を歩いていたビシャードも、足を止めて警戒するように辺りを見ていた。
綺麗に手入れされた庭園は、瞬く間にその姿を変えてしまい、気が付くと二人は丸い形の大きな広場に立っていた。
何百人、もしかしたら何千人という人々が広場いっぱいに集まり、静かにそこに座っている。大勢の人々がすし詰め状態になっているせいか、かなり広い空間にも拘らず、この場所には広々とした印象がまるで感じられない。おまけに、全員微動だにせずに膝を付いて前を向いている。その姿はとても不気味なもののように麻奈には見えた。
辺りは水を打った様に静かだった。これだけ沢山の人々が集まっているのに、この場所を支配しているのはある種の静寂だけだ。
麻奈は慌ててその場にしゃがみ込む。皆が正座している所で、ぽつりと立ったままでいるのは非常に目立っているような気がしたのだ。幸い誰にも咎められる事も無く、人々は前を見たまま動かない。
麻奈はビシャードを見た。彼は人々と同じように前を向いたままその場に立ち尽くしている。その背中は途方も無く目立ち、同じぐらい孤独に見えた。
声を掛けようとしたが、この静かな静寂を破る勇気は麻奈には無い。
その代わりに、麻奈はそろそろと顔を上げて辺りを観察してみた。この場にいる人々は、同じように白い服を着て悲しそうな顔をしている。その姿は、まるで祈りを捧げているかのようだ。
この特殊な空気は、何かに似ている気がした。それはもしかして――
「お葬式」
作法は違えど、その独特の雰囲気は少なからず覚えのあるものだった。
麻奈は子供の頃に参列した祖父の式を思い出した。とても悲しくて、静けさの中に皆のすすり泣く声が良く響いたように記憶している。そういえば、つい何年か前にも葬式に参列したような気がする。あれはいつの事だったか――。
「これは、死者を送る儀式だ」
麻奈のぽつりと漏らした呟きに、ビシャードがぼそぼそと呟いた。
やっぱりと思いながら、首を捻る。ただの葬式にしては、どうも参列者が多すぎる。
「誰のですか」
抑えた声で聞く。それでも、この静かな空間では麻奈の声は響いてしまった。
彼はそれには答えずに、眉間に深い皺を寄せながら皆と同じ場所へと視線を送る。
そこには白い花で飾られた御輿のような物があり、それが静かに進み始めた。広場の人々が、一斉に立ち上がった。誰もがそれに親愛と悲しみの視線を送り、嗚咽を押し殺している。
あれが恐らく棺なのだろう。
棺の隣には、さっき馬に乗っていた親子が並んで歩いているのが見えた。馬上で幸せそうに笑っていた親子は見る影も無く、特に父親の憔悴しきった顔には目も当てられない有様だ。彼らの後ろを追いかけるように、二人の幼い男の子たちが歩いていた。二人とも癖のある髪をしているので、一目で少年の兄弟だと分かる。
棺が人々を掻き分けて進み、麻奈のすぐ傍を通り過ぎる。その時、目元を赤く腫らしたさっきの少年の小さな呟きが聞こえた。
「母上……」
麻奈は胸が痛くなった。亡くなったのは少年の母親なのだ。
彼の後を、まだ年端も行かない幼い子供達がちょこちょこと歩く。彼らは何が起こったのか分からないのだろう。不思議そうな顔をしながら父親と兄に置いていかれないように一生懸命付いて行く。
こんなに小さな子供達を残して逝くなんて、母親もさぞかし心残りだっただろう。
なんて悲しい光景だろうと麻奈は思った。鼻の奥がつんと痛んで、麻奈は急いで鼻を啜った。
その時、麻奈は涙で滲む視界の端で、再び辺りの景色が流れ落ちていくのを捉えた。たちまち景色が移り変わってゆく。
このおかしな現象は一体何なのだろうか――。麻奈は目じりの涙を拭ってから、この奇妙な光景を見極めようと目を凝らした。
気がつくと、二人は静かな部屋の中にいた。
石造りの薄暗い部屋で、机の上には小さなランプが置かれている。ランプの中には、油を染み込ませた芯が立ててあり、それが橙色の炎を上げて静かに燃えていた。
風通しも悪く蒸し暑い所だ。
「何、これ」
麻奈が見ている先には、内側から木を打ちつけて開かなくしてある窓があった。
唯一窓として機能しているのは、一段高い所にある明り取りの小さな窓だけで、その他の窓は全て木の板が打ち付けてある。この部屋を見て、ビシャードが静かに息を呑んだ。麻奈はそれには気づかずに、部屋の中を歩き回っていた。
「なんだか、殺風景だけど誰かの部屋みたいですね」
麻奈は寝台の上に積み重ねてある衣服を手に取った。肩から巻き付けるだけのこの国の服は、男物なのか女物なのか全く判断出来ない。
そのとき、突然扉が勢い良く開いて、中学生ぐらいの少年がふらつく足取りで部屋に入って来た。俯いたその顔は影になっていて麻奈からはよく見えなかったが、うねるような灰緑色の髪をしたその少年を、どこかで見たことがあるような気がした。
「あ、えっと――勝手に入ってすみません」
麻奈がしどろもどろで頭を下げた。しかし、少年は二人には目もくれずに部屋を横切ると、明り取りの小さな窓を閉めた。部屋はさらに暗くなり、対流しなくなった生暖かい空気が急に澱んでくるような気がした。
「あの、何で無視?」
麻奈は不思議そうな顔で少年の目の前にひらひらと手をかざした。
「我々が見えていないのかもしれない」
ビシャードは少年を瞬きもせずに見つめている。その声は何故か緊張しているように感じられた。
少年は懐に手を突っ込むと、蝋燭と鞘に納まったナイフ取り出した。机の上のランプの炎で蝋燭に明かりを灯すと、ドサリと床に足を投げ出して座った。
寝台にもたれかかって苦しげに長い息を吐き出すと、蝋を床に垂らして蝋燭をそこに固定した。さっき取り出した小ぶりのナイフを鞘から出して、蝋燭の隣に添える。
ゆらゆらと揺れる頼りない明かりに照らし出された少年の頬に、汗が一粒光っている。
彼は恐る恐る左腕を持ち上げて肩口から袖部分を掴むと、それを一気に引き裂いた。
「あ」
麻奈が驚きの声を上げる。
ゆったりとした服の影に隠れて見えなかった少年の腕には、柄の短い矢が刺さっていた。毒でも塗ってあったのか、傷の周りが紫色に変色している。
「酷い」
麻奈は無意識に口元に手を当てて呟いた。
少年は破り取った服の袖を細く食いちぎり、矢傷よりも少し上の部分を片手と口を使って器用に縛った。残りの布は丸めて口の中に押し込み、矢羽を掴んで一度鼻から大きく息を吐き出した。彼はしばらく目を閉じていたが、決心したように息を吸い込むと、矢羽を掴んで引っ張った。
「ぐぅっ!」
苦しげな声が少年の口から漏れた。
麻奈は堪らず、ギュッと目を瞑った。とても見ていられない。
少年は目に涙を浮かべながら矢を引き抜いてゆく。少年の力では、矢尻を一気に引き抜くことは出来ないようで、矢尻がゆっくりと姿を現してくる。その間も、少年の呻き声は途切れることなく続いている。麻奈は耳も塞ぎたくなった。
少しの間を置いて、床に何かが落ちる硬い音を聞いて、麻奈はそろそろと目を開いた。
少年は自分の傷口に口を付けて、何度も何度もその血を吐き出していた。やはり毒が塗ってあったらしい。
まだ幼さを残した顔に苦痛の色をにじませている様子は、とても苦しそうだ。麻奈はまた目を閉じて、横に居るビシャードに縋り付いた。
少年は口元を一度拭うと、今度はナイフを蝋燭の火にかざした。ジジジ……というナイフが熱せられる音だけが聞こえる。
刺さった矢は、矢尻が小さかったおかげで傷自体は深くないようだ。しかし、少年の腕からはとめどなく血が流れてくる。
少年は肩を大きく上下させながら荒い息を繰り返した。今度は、震える手で熱したナイフを傷口に宛がい、肉を焼いて止血をした。幾分荒い方法だが、少年の行動に迷いは無かった。
少年は声にならない悲鳴を上げる。
その間、麻奈はひたすら目をきつく瞑っていた。耳に届いてくるのは、少年の荒い息遣いと時折漏れるすすり泣き、そして肉の焼ける臭いが鼻の奥を刺激していた。麻奈にはそれが恐ろしくて、ビシャードの服に必死に顔を埋めていた。