ビシャードのトラウマ 1
その光のあまりの眩しさに、閉じた目の奥ですら白く光って見える。麻奈は今、自分が目を開けているのか閉じているのかさえも分からなくなってしまった。
ようやく光が弱まってきたのを感じて、恐る恐る目を開けてみた。目も開けられないような眩しさは収まったが、その代わりに黄色い太陽の光を感じて麻奈は再び目を細めた。
外に居ることに戸惑いを感じながらも、麻奈はどこかでこの奇妙な出来事を受け流していた。此処では奇妙な事が起こるのが普通なのだ。いちいち騒ぎ立てるのは疲れるだけだと、今は身を持って学習したのだ。そう思って、麻奈は複雑な心地になった。隣のビシャードを見てみると、彼は眩しそうに目を細めながら、絶句していた。それが正しい反応だ。
目の前には、大きな葉の生い茂る木々が二列規則正しく並べられている。その中央には白い石を切り出して作られた、馬鹿みたいに広い道が続いている。道の両脇には柔らかな芝生が広がっていて、花壇には原色の花が咲き誇っている。そこは恐ろしく広い庭園だった。
城壁でぐるりと囲われているその美しい庭に、麻奈とビシャードはまるで降って湧いたかのように突然現れてしまったのだった。
白く輝く道の先には、巨大な銀色の宮殿が建っている。横に広がる低い造りになっていて、屋根の形が丸みを帯びている。
太陽の光を跳ね返して輝くそれは、まさにおとぎ話に出てくるような白亜の城だ。どこかエキゾチックな風貌だったが、幻の様に美しい宮殿を目にして、麻奈は白昼夢を見ているような錯覚を起こしていた。
もしかして夢なのかもしれない。しかし、強い日差しがじりじりと肌を焼く感覚や、むっとする草いきれ。湿度の高い粘つく空気。その全てが妙にリアルに感じられる。
感嘆のため息を吐いてうっとりと宮殿を眺める麻奈を尻目に、ビシャードは暗い瞳で宮殿を一瞥する。
「一体、此処はどこなんでしょう――」
どうしてこんな事になったのか、無駄だと思っても考えずにはいられない。半ば投げやりな麻奈の呟きに、ビシャードが静かに答えをくれた。
「此処は――余の宮殿だ」
「え」
隣にいるシャードを仰ぎ見ると、彼は固い表情で宮殿を見つめていた。その表情は暗く、何かを必死に耐えているように唇を震わせている。
「そうなんですか? じゃあ、陛下は帰って来れたんですね」
喜んでいる様子も見せず、ただ立ち尽くすビシャードを不思議に思いながらも、麻奈は弾んだ声をあげた。しかし、ビシャードはいつまでもこの場から動こうとしない。
「あの、帰らないんですか?」
ビシャードはちらりと麻奈を見ると、神経質そうな眉を動かして頷いた。帰らない、彼はそう言っているのだ。
「どうしてですか! 折角戻って来れたのに」
麻奈は声を荒げた。こんなチャンスはもうないかもしれないのだ。
麻奈やジュリアンが必死に探しても、出口を未だに見つけることが出来ないのに、せっかくの脱出の機会を彼は不意にしようとしている。麻奈にはそれが我慢できなかった。
「陛下は知らないかもしれないですけど、さっきまで私達はある所に閉じ込められていたんです。今帰らなかったら、もう二度と帰れないかもしれないんですよ!」
ビシャードはそれには答えずに、冷えた視線を道の先に注ぐと、踵を返して歩き出した。麻奈は少し迷ったが、結局付いていく事にした。
足早に歩くビシャードを追いかける。少し歩いただけでキャミソールがみるみる湿ってゆくのが分かった。気温だけではなく、湿度も高いせいで妙に肌がべたつく。噴き出る汗も気持ち悪かった。
強すぎる日差しが麻奈の肌を焼いているのが分る。その刺激は痛いくらいに強くて、暑さのせいで麻奈の顔はたちまち真っ赤になってしまった。最早、吸い込む空気まで熱く感じて、かなり息苦しい。
「熱い所なんですね。陛下の国は」
「あぁ」
浮かない顔をしながら歩くビシャードを、麻奈は不思議に思った。彼の国に帰ってきたのに、嬉しそうな様子は微塵もない。むしろ鬱々とした様子の彼は、酷く焦りながら宮殿から遠ざかろうとしている。
宮殿を背にして、黄色い日差しを反射する真っ白な道を進むと、静かな水面を湛えた池が見えてきた。
水連に似た白い花が浮ぶ大きな池を見ていると、少し涼しくなったように感じられる。
ビシャードは、それさえも目に入らないというように白い道を逸れて、短く刈られた芝生の絨毯を横切り始めた。綺麗に手入れされている植え込みに足を踏み入れ、がさがさと掻き分け進む。
「ど、どこに行くんですか」
綺麗にカットされている植え込みを荒らしているようで、麻奈はつい咎めるような口調になっていた。
「此処から出るんだ。こっちに抜け道がある」
「でも、帰らないと心配している人達がいるんじゃないですか」
「心配など……。しっ! 誰か来る」
ビシャードは麻奈に向かって手招きをすると、素早く植え込みの影に身を潜めた。それに習って麻奈も彼の隣に隠れたが、何故ビシャードがこそこそするのかが分らずに首を捻る。
彼はこの宮殿の王なのだ。城の主が人目を避けるのは、どう考えても変だった。恐らく、それは彼が帰りたがらない理由が関係しているのだろう。
そのとき、道の向こうから蹄の音が聞こえてきた。二人は息を潜めて様子を窺う。
植え込みの隙間から覗いてみると、ゆったりと馬を歩かせる親子を先頭に、馬に乗る一団がやって来るのが見えた。
鹿毛の大きな馬に毅然と乗る父親の後ろを、まだ頼りない手綱捌きで栗毛色の馬を操る少年がついて行く。遠目にも、親子は少し下がり気味の目元や、うねるような癖の強い髪がとてもよく似ていた。
少年はまだほんの子供で、あどけない顔に真剣な表情を浮かべて、馬を操る手に力を込めている。
「父上、待ってください」
少年の馬は落ち着かない様子で頭を忙しなく廻らせては、ふらふらと道草をしながら進んでいる。
「まだ体が固い、力を抜きなさい。お前の緊張が馬に伝わってしまうぞ」
父親は息子を振り返って鋭く指摘した。しかし、目じりには皺が寄っていて、その表情は穏やかで自愛に満ちている。
「はい。父上」
少年は深く息を吸うと、肩の力を抜いて姿勢を正した。
「そうだ、初めてにしては上出来だ。もっと上手くなったら、今度は狩りに連れて行ってやろう」
「本当ですか! きっとですよ」
ふっくらとした頬を上気させて、少年は嬉しそうに顔を綻ばす。
「ああ。余も時間を作って、またお前の練習を見てやろう」
「ありがとうございます! 一生懸命頑張ります」
父親は満足そうに口ひげを撫でながら少年を見ていた。
「お前はいずれ、この国を継がねばならぬ身だ。何事にも力を入れ、良く学びなさい」
「はい。父上!」
父親は一層笑みを強くすると、少年の馬が自分の横まで来るのを待っていた。そして、二人並んで麻奈達の前を通り過ぎて行った。その後ろを、少し離れて数人の兵士達が頬を緩めながら通り過ぎて行く。みんな一様に、あの親子の様子を見るのが嬉しくて堪らないというような表情をしていた。
彼らの様子を草の陰で見ていた麻奈は、仲の良い親子の様子を微笑ましく思っていた。馬を一生懸命制御しようとする、少年の真剣な顔が可愛らしかった。それを見る父親の顔も緩んでいたのがまた一層微笑ましい。
しかし気になるのは、あの親子の姿だ。灰緑色のうねるような癖毛、それに目じりの下がり具合。それは、隣に座り込んでいるビシャードに良く似ているような気がする。おまけに、あの父親は「国を継がなければならない身」だと少年に言っていた。それはつまり、あの父親が今の王様ということになる。
この国の王はビシャードのはずだ。どちらかが嘘を吐いているということだろうか。
麻奈はビシャードに声をかけようとして、目を丸くしてしまった。ビシャードは顔を苦しそうに歪めながら、親子が去っていった先を見てギリギリと爪を噛んでいた。その指先から、じわりと赤いものが滲んで見える。
「陛下、血が……」
暗い瞳で爪を噛むビシャードの指先からは、たらたらと血が滴っている。かなり深くまで噛んでいるのだろう。しかし、それでも彼は爪を噛むのを止めなかった。もしかしたら、痛みを感じていないのかもしれない。それほど、彼は暗い瞳をしながら親子の後ろ姿を追っていた。
「駄目ですよ」
麻奈は思わずビシャードの手を口元から引き剥がした。
その指先を見ると、半分以上も爪が噛み切られていて、爪が剥がされた所から、ピンク色の肉が見えていた。
「あぁ、痛そう」
麻奈は何か血を拭うものが無いかとポケットを探った。その間にも、ビシャードの指からは血が流れ出し、白い石畳に赤い小さな斑点を作った。
どうしてこんなに、と言いかけて麻奈は顔を上げたが、ビシャードの顔を見て言葉に詰まってしまった。
顔をくしゃりと歪めて、ビシャードの視線は未だ親子の背中を追っている。その口元は、小刻みに震えていて、彼が今にも泣き出してしまうのではないかと麻奈は不安になった。
「……とりあえず、止血をしましょう」
麻奈はパンツに入っていたポケットティッシュをビシャードの指に押し当て、上から握り込んで強く圧迫した。
そこまでされて、ビシャードはようやく麻奈の存在を思い出したらしい。何とも居心地悪そうに手当てされる自分の手元を眺めた。
「――もう、いい」
「じっとしていて下さい。もう少し圧迫していないと血が止まりませんよ」
「いい」
「でも――」
「余のことなど放って置けばいい!」
ビシャードは先程までの泣き出しそうな顔を引っ込めて、厳しい顔で麻奈の手を振り払った。
麻奈は気を悪くして、抗議の目を向けた。ビシャードは手を庇いながらぷいと横を向いてしまった。 そんな彼の行動は、まるで子供のようだ。さっきまでは人恋しいと言って麻奈を離さなかったのに、どんな心境の変化なのか、今度は途端に邪険にする。麻奈は仕方なく、彼の手当てを諦めた。
この気性の浮き沈みは、もしかしなくてもさっきの親子が関係しているのだろう。しかし、今は麻奈もそれを聞く気にはなれなかった。これ以上ビシャードの機嫌が悪くなっては困るのだ。
「これから、どうするんですか? 何処か行く当てでもあるんですか」
「当ては無い。無いが、此処から直ぐにでも離れたい」
ビシャードは植え込みから立ち上がると、足早に歩き始めた。何かに急きたてられるように歩く姿に麻奈は奇妙な思いを抱いたが、置いて行かれるのはまずいと彼を追いかけた。
「待ってください、陛下。どうしてそんなに此処から出たいんですか? 陛下の宮殿なんでしょう?」
ビシャードは振り向かない。
麻奈がため息を吐きながらビシャードを追い駆けていると、目の前の景色が奇妙に歪んで見えたような気がした。気のせいかと思って目を擦ってみても、それは依然変わらない。むしろ、薄い紗膜がかかったように目の前の景色が霞みがかってきて、どんどん現実味が薄れていくように見える。
麻奈は目を見開いて回りを見回す。自分を中心にして、辺りの景色がどんどん希薄になっていく。麻奈は焦った。また奇妙な事が起きるのだろうか。