鏡へ(アノ人の場合) 4
遠くに見える光を呆然と見ながら、麻奈はしばらくその場に立ち尽くしていた。一体どうしたら、廃校に戻る事が出来るのだろうか。そう考えて、麻奈は少し奇妙な気分になった。さっきまでは、その廃校から出ることばかりを考えていたというのに。
此処にジュリアンがいてくれたら、と思わずにはいられない。アノ人と二人きりでこんな所に閉じ込められているのは心細くて不安になる。それに、アノ人がまた襲ってこないとも限らないのだ。
今のうちに一人で出口を探すべきか迷ったが、この青年を一人で置いていくのも嫌だった。
その時、床に倒れているアノ人が僅かに身じろぎをした気がして、麻奈は一瞬ぎくりと身を引いた。しかし、苦しそうな声が聞こえてきて、麻奈は彼を刺激しないようにそっと側にしゃがみ込んだ。
床に散らばる灰緑色の髪を避けながら、彼の側に膝を付いて青年の顔を覗き込んだ。顔の半分を覆っている癖のある髪をそっと退けてみると、褐色の神経質そうな細い顔見えた。長い睫と、とがった顎。少し垂れた目元には小さな泣きぼくろが二つ並んでいる。
目鼻立ちは整っているので美青年と言えなくもないのだが、こけた頬と目の下に張り付く隈が、彼を異様なまでに不健康に見せている。クリーム色の布を肩から巻きつけたような服を着ていて、額には宝石をあしらった装飾品を付けている。その服装と褐色の肌を見ると、アノ人は暑い国の出身なのかもしれない。
今の彼はどう見ても、ただの優男にしか見えない。本当に彼が恐ろしかったアノ人なのかと疑いたくなるほどだった。しかし、その目元に薄っすらと残る涙の跡を見つけて、やはり鏡で見た彼の姿は見間違いではないのだと麻奈は確信した。
彼は安らかとは言いがたいが、規則正しい呼吸を繰り返している。気を失っているだけのようで、麻奈は少しほっとした。彼は一体、何処の誰なのだろうか。
「う……」
突然、くぐもった声が足元から上がり、アノ人が緩慢な動きで起き上がった。麻奈は慌てて、彼の額に当てていた手を素早く引いた。
その時、麻奈はあの人の覚醒に気を取られていて、遥か遠くで揺れている緑色の光がじわりと近づいて来た事に気が付かなかった。
あの人は朦朧としながら額に手を置いて、瞬きを何度も繰り返していた。目の焦点が合っていないのか、アノ人は麻奈が側にいることにも気付かずに、だるそうに首を振っている。
「大丈夫ですか」
何度目かの瞬きの後、麻奈は少しだけ距離を置いてアノ人に声をかけた。
突然かけられた声に、アノ人は怯えてびくっと体を引いたが、麻奈と視線が合うや否や、逆に身を乗り出してきた。
「見える。見えるぞ!」
「あ、あの。大丈夫ですか」
彼があまりに顔を近づけて来たので、今度は麻奈が怯えて身を引いた。その手をアノ人が素早く掴み、渾身の力を込めるように強く握りしめた。
「あぁ! 耳も聞こえる。ついに我が身の呪いが解けた」
アノ人は興奮しているのか、麻奈を掴む手に更に力を入れる。両手がきりきりと握り潰される痛みに、麻奈はたまらず悲鳴を上げた。慌てて男の手を振り払おうとしたが、アノ人は麻奈の手を離そうとはせずに、逆にぐいと引き寄せて麻奈の瞳を覗き込むように顔を近づけた。
鼻と鼻が触れそうなほどの距離で、少し垂れ目のターコイズブルーの瞳が瞬いている。彼の恐ろしく長い睫が伏せられるのを見て、麻奈は焦って顔を引いた。こんな体勢で目を閉じるなんて、思い当たる事は一つしかない。
アノ人は目を閉じたまま、麻奈の後を追うように更に顔を近づけてくる。これ以上顔が近付くのは非常にまずい。
麻奈は咄嗟に顔を背けた。しかし、アノ人は麻奈の唇を通り過ぎると、その肩にぽてっと頭を預けてきた。そのまま彼は大きく息を吸い込むと、満足そうにため息を吐いた。それは、麻奈の香りを確かめるような深呼吸だった。
彼の息が首筋にかかり、麻奈はくすぐったさに身を竦めたくなったが、今はじっとそれを我慢した。彼の出方が分らない以上、下手に刺激したくはない。
アノ人は目を開くと、麻奈を真っ直ぐに正面から見つめた。
痛いほど強く握られていた手がそっと解かれて、麻奈は慌てて手を引っ込める。一体何だったのかと非難を込めた目でアノ人を睨むと、彼の真摯な視線にぶつかった。
「この香り……やっと見付けた。余の体を優しく叩き、撫で擦ってくれたのはそなただったのか」
「え」
あの人は感極まったように麻奈をぎゅっと抱きしめると、その背中をとんとんと軽く叩いた。
「ありがとう。そなたのお陰で余がどれだけ救われたか――。目も見えず、耳も聞こえない世界を一人で漂うのは、言葉に出来ぬほど孤独であった。そんな中、そなたが労わりを込めて触れてくれたことが、どんなに余の心を慰めてくれたか! あれからずっとそなたを探していた。どれほど礼を言っても言い足りぬ」
「まさか――目と耳が、不自由だったんですか」
「あぁ。しかし、今はようやくその呪いも解けた。そなたの顔も声も良く分るぞ」
麻奈の背中に回された手に、ぐっと力が込められた。
「そなたの香りだけを頼りに、ずっと探していたのだ。余はどうしても、もう一度そなたに会いたかった」
熱を含んだようなその言葉を、麻奈はどこか呆然と聞いていた。やはりこの青年がアノ人だったのだと確信する。それと同時に、麻奈は気まずい思いを味わっていた。
あの時、麻奈がアノ人を撫でたりしたのは決して優しさからではない。彼に捕まり、そのまま食べられてしまうような気がしたので、必死に気を逸らしたいが為の行動だったのだ。そんな自分本位の行動を、こんなに喜んでくれていたと知って、麻奈は心の中で彼に謝った。
「お礼なんて――」
麻奈はそんなことを言われるようなことをした覚えはないのだ。
麻奈は抱きしめられたまま項垂れた。この不幸な青年の身の上など、考えたこともなかった自分がとても恥ずかしい。せめて、今は彼の好きなように、安心できるように支えてあげよう。そう考えて、麻奈も彼の背中にそっと手を回した。彼が落ち着くまで、抱きしめてあげよう。それが、今の麻奈に出来る贖罪だった。
しかし、待てど暮らせど、あの人の抱擁から解放される気配が無い。
「あの、そろそろいいでしょうか」
「人恋しいのだ。もうしばらく良いだろう。――そうだ、まだ名前を聞いていなかったな」
「水上麻奈です」
「ミナカミ? 聞きなれぬ名前だな。余はムスリム国4代目国王、ビシャード・アル・ムスリムだ」
「え、王様ですか」
麻奈は驚きのあまり、両手を突っ張ってビシャードから離れた。
ビシャードは不満げな顔で腕を伸ばすと、麻奈を再び抱えなおした。
「そうだ」
麻奈は驚きの余り固まってしまった。さっきから何か一人称がおかしいと思っていたが、まさか王様だったとは――。
あまりに驚きすぎて、ビシャードの為すがままになっている事に麻奈は気が付いていない。これ幸いと、ビシャードは麻奈の首筋に顔を埋めて深く息を吸う。
「ミナカミは良い香りがするな。他の奴等とは違う。余を打ち据え、水をかけた奴等とは」
正に同じ事を、自分もしようとしたとは言えず、麻奈の気持ちは罪悪感で更に重たくなった。
「ところで、此処は何処だ。余は、突然現れた奇妙な姿の男と共に鏡の中に入ったはずだが、此処がそうなのか」
「此処は、多分違うと思います」
ビシャードの手を何とか振り払い、麻奈は立ち上がる。
「さっきまでは違う所に居たんです。でも気が付いたら此処に二人で倒れていて。私も上手く説明できないんですけど――」
そう言って首を傾げたその時、麻奈は自分の影がいつの間にか足元に長く伸びている事に気が付いた。さっきまでほとんど真っ暗で、影など全くなかったはずだ。それなのに、今は薄ぼんやりとした緑色の光に包まれている。
「あれは何だ。こっちへ近づいてくるぞ」
ビシャードの指差す先には、ぎらぎらした緑色の光を撒き散らす巨大な光があった。それはゆらゆらと揺れながら、二人に向かって近付いて来る。
「何、これ……」
それは熱も無く、音も立てずに二人の回りをゆっくりと浮遊している。光の球は、まるで意思でもあるかのように、じりじりとにじり寄ってくる。麻奈が息を飲んで後ずさると、心なしか光の球のスピードが速まった気がした。
「走るぞ」
ビシャードが麻奈に耳打ちすると、すぐさま走り出した。麻奈も続いて走り出す。後ろを振り向かなくても、音も無く近寄っていたそれが自分達を追って加速したのが分かった。
「早いっ」
麻奈のすぐ前に伸びる影が次第に色濃く短くなってくる。気が付くと、それは手を伸ばせば触れられる距離まで近づいていた。
「駄目、追いつかれるっ」
「くっ。一体何なのだ此処は」
麻奈は走りながら、巨大な発光体がビシャードの背に引き寄せられるように近づくのを見ていた。そして、彼の背に光の球がすっと触れた次の瞬間、一層眩い光が溢れて目の前が突然真っ白になった。
読んで下さってありがとうございます。
アノ人についての反響を頂いて、驚くと同時にとても嬉しかったです!ありがとうございました。
彼はこんな感じですが、どうでしょう?ご期待に添えたでしょうか?