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鏡へ(アノ人の場合) 3

 目に染み入るような、柔らかいの光を放つ鏡。誰もが今はそれに目を奪われていた。麻奈は突然光りだした鏡の前で、逃げることも忘れて立ち尽くしてしまった。

 しかし、アノ人だけは鏡など目に入らないかのように、ゆるゆると階段を下り続けている。すぐ後ろに迫る濡れた音を聞きながら、それでも麻奈は鏡に写し出された光景から目を逸らすことが出来ない。


 そこには、目を丸くしている自分の他に、背の高い褐色の肌をした痩せた青年が映っていた。青年は目を瞑りながら、麻奈の後を追うようにのろのろと階段を下りてくる。その頬は痛々しいほどこけていて、目の下にはべったりと隈が張り付いている。肩まで伸びる強い癖のある灰緑色の髪と、垂れ下がった目元が特徴的な青年だ。


 麻奈は振り返らずにはいられなかった。そこには肉色のゼリーのような塊が、ふるふると自分を追って揺れているのが見える。麻奈は確信した。この鏡に映る青年はアノ人の本当の姿なのだと。


「何をしているっ」


 踊り場から動こうとしない麻奈に気が付いて、ユエが吹き抜けの柵から飛び降りようと身を乗り出した。しかしその跳躍を邪魔するように、再びジュリアンの手がユエの肩を掴んでそれを止めた。いつの間に現れていたのか、ジュリアンがユエの背後に立っていた。


「今度は何だ!」


「しっ、見て下さい。鏡の様子がおかしいです」


 ジュリアンの指差した先では大鏡が点滅を繰り返していた。

 その光を受けながら、麻奈は目の前に迫るアノ人を静かに見つめていた。ゆっくりと近づいてくる醜悪な肉の塊。その姿に少し嫌悪感が沸いたが、麻奈は逃げるのを止めてぶよぶよとした塊に手を差し伸べた。


 心は静かだった。さっきまではあんなに怖がっていたのに、どうしてそんな気になったのか自分でも不思議なくらいだ。鏡に写った青年の姿が脳裏に焼きついて離れないからかもしれない。

 麻奈の見間違いでなければ、青年は固く閉じた瞳から大粒の涙を流しながら階段を下りていた。それは幼い子供が親を求める様子に似ていて、麻奈の胸はぎゅっと締め付けられた。

 麻奈は今初めて、アノ人を『人』としてみる事が出来た。

 麻奈が逃げない事を知ると、アノ人は麻奈に覆い被さる様にその身を預けてきた。手を広げてそれを受け止めるが、アノ人の重さに麻奈の体がぐらりと後ろに傾いた。


「馬鹿が。潰されるぞっ」


 ユエが叫ぶのと、ジュリアンが手摺を乗り越えて宙に身を躍らせるのはほぼ同時だった。麻奈とアノ人は大鏡に向かってゆっくりと後ろに倒れ込んでいく。

 麻奈が頭から鏡に激突するその瞬間、大鏡は一際眩い光を放ち、その体内に二人をとぷりと飲み込んだ。鏡面を波立たせながら二人を吸い込んだ鏡は、すぐにまた元の冷たく景色を反射するだけの鏡に戻ってしまった。


「馬鹿なっ」


 ジュリアンが軽い音を立てて階段に着地した時には、二人の姿は踊り場のどこにもなかった。ジュリアンは直ぐに鏡に走り寄り、その表面に触れてみた。しかし、その手は固い表面を撫でるばかりで中に入る事は出来ない。


「どうなってるんだ。あいつらは外へ出たのか」


 ユエも階段を下りて来て、鏡に手を伸ばす。


「いいえ、そういう訳ではないようです」


 ジュリアンが鏡のある一点を指差した。


「あそこに麻奈とアノ人が倒れているのが見えます」


 そこには気を失って倒れている麻奈と、麻奈に折り重なる様にうつ伏せに倒れている青年が写っていた。


「嘘だろ――。あの姿、元に戻っていやがる」


 そう呟くユエの唇が、僅かに震えている事をジュリアンは視界の端で捉えた。しかし、今はそんな事はどうでもいい。ジュリアンはそれを無視して、ジュリアンは鏡の中に倒れている二人に意識を戻した。二人共ぴくりとも動かない。こんな事態はジュリアンの想定外だった。


「麻奈、聞こえますか? 返事をして下さい」


 ジュリアンは苛立ち紛れに鏡を叩いた。しかし、冷たい鏡面は何の変化もない。その硬い鏡の感触は、まるで彼を拒んでいるようだ。ジュリアンは見ていることしか出来ずに鏡を叩き続ける。









 麻奈は目を薄く開けた。呻きに似た声をあげながら、上半身をゆっくりと起こす。

 頭が痛い。麻奈は後頭部を抑えながら、きょろきょろと忙しなく視線を動かした。見覚えのない場所にいるのを確認して、麻奈は慌てた。此処は一体どこなのだろう。

 辺りは薄暗くて、目ぼしい物は何も見当たらない。

 床に手が触れた。それは、学校特有の冷たいタイルの感触ではなく、ふわふわとしたあまり手ごたえのない物で、麻奈は余計に首を捻った。こんな感じの場所をいつか歩いた事があるような気がしたが、あれは一体どこだったろう。


 辺りは薄暗いが、真っ暗ではないのは幸いだった。

 少し離れたところに、緑色の光と青く輝く光の玉がぼんやりと浮かんで見える。その僅かな光が麻奈の辺りにまで仄かに届いているのだ。


 その時、麻奈は自分の太ももに頭を乗せて、圧し掛かるように倒れている青年を見つけて驚いた。

 この人は誰だろう。一体いつからこの体制だったのかと考えたが、自分の太ももに触れる青年の髪の感触がくすぐったくて、その頭をそっと持ち上げて床に下ろした。

 どこかで見たことがあるような気がするが、何か大事な事が頭から抜け落ちてしまったかのように思い出せない。


 此処がどこなのかはよく分らないが、何れにせよ、おかしなところには違いないようだ。麻奈はふぅ、とため息を吐いていた。


 鏡の外では、ジュリアンが鏡を叩きながら麻奈へ声をかけ続けていた。しかし、その声は虚しく鏡の表面を滑るだけで、それが中へと届くことはない。


「くそっ」


 珍しく苛々したジュリアンの声と共に、彼の拳が一際大きい音が立てる。


「荒れるな。見苦しい」


 ユエが鏡から視線を逸らさずに、冷ややかな声で嗜めた。


「見ているしかないってことだ。俺も、お前も」


 ジュリアンは悔しそうに唇を歪めて、鏡を食い入るように見つめた。それしか出来ないことが、彼にはやけにもどかしく感じられた。







 二人の男に凝視されているとも知らずに、麻奈は何度目かのため息を吐いた。

 こんなにため息ばかり吐いていては、幸せが根こそぎなくなってしまいそうな気がする。この先不幸続きの人生など、考えただけでも憂鬱になってきた。最も、こんな奇妙な場所に連れてこられた事自体、十分に不幸なことだと思い至って、またため息を吐いてしまった。


 麻奈は痛む後頭部を摩りながら、とりあえず何が起きたのかを整理することにした。

 確か、階段を下りたところでアノ人に追いつかれた事までは覚えている。問題はその後だ。


「えっと、アノ人と一緒に鏡に倒れこんで。それから――」


 麻奈はようやく、ぼんやりとだが事態が飲み込めてきた。

 此処は恐らく鏡の中なのだ。アノ人の体重に負けて、二人でもつれるようにして鏡に倒れこんでしまった事を思い出す。この後頭部は、恐らくその時にぶつけたのだろう。

 そう考えて、麻奈はほっと胸を撫で下ろした。鏡が二人を飲み込んでくれなかったら、麻奈はアノ人に押しつぶされて、割れた鏡で今頃血だらけになっているはずだ。


 鏡の中なのだと認めてしまうと、以前通ったものと何となく雰囲気が同じような気がしてくる。あの時よりは足場の不安定さは無いものの、暗闇の中にぽつりと浮かぶ星のような光は確かに鏡の中にそっくりだった。ただ、あの時は無数に輝く光があったのに対し、今はそれが二つだけになっているのはどういうわけだろう。


 光が弱いために、闇の色が濃くなったよう気がして、麻奈は急に不安になった。

いつも読んでいただきましてありがとうございます。

やっと本来のアノ人の姿が出てきました。次回、彼の名前が出てきます。

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