鏡へ(アノ人の場合) 2
はぁはぁ。自分の荒い呼吸だけが響く廊下を、麻奈は何度も躓きそうになりながら必死で走った。すぐ後ろには、アノ人の触手が粘ついた音をさせながら麻奈を追いかけてどこまでも伸びてくる。
体力の無い麻奈は、もう既に息が上がっていた。後ろを振り返る余裕は無いけれど、背後から聞こえるビチャリビチャリという濡れた音が、アノ人が離れずに自分を追ってくる事を告げている。
廊下の先には、麻奈が初めて此処に来た時に降り立った螺旋階段が見えている。
階段を下りれば、アノ人の追い駆けてくる速度が少しでも遅くなるだろうか。それとも、上ったほうが良いのか。とにかく、この真っ直ぐな廊下をいつまでも走っているのはとても危険だと麻奈は考えていた。重たい足を懸命に動かして、麻奈は階段を上ろうか下りようか迷っていた。
何となく上った方が良いような気がして、階段を一段上がった途端、麻奈の足に粘々した生温かい物が巻きついた。
ぬるぬるとしたその感触が麻奈にさきほどの恐怖を呼び起こさせた。たちまち両足に巻きついてきたそれは、強い力で麻奈の足を引っ張り始める。麻奈はそのまま廊下に引き倒されてしまい、危うく顔面を階段にぶつけそうになった。
その時、早く起き上がらろうと焦る麻奈を目掛けて、触手の波がうねりながら押し寄せてきた。
「ひっ!」
避ける間も無く、淡い肉色の触手に足が絡め取られて、たちまち身動きが取れなくなった。それでも、麻奈は前だけを見て、触手から逃れようと必死にもがいた。
生暖かい感触が鳩尾まで上がってくる。そのおぞましさにぎゅっと目を瞑って、麻奈はひたすらばたばたと暴れた。床に爪を立て、引き込まれまいと抵抗するが、麻奈の体は徐々にあの人に手繰り寄せられてゆく。
「グアァァ」
突然アノ人が突然悲鳴をあげて、麻奈に絡みつかせていた触手を一斉に引いた。
「立て」
驚いて後ろを振り返ると、ユエが長い箒を逆手に持ち、触手を薙ぎ払っているのが目に入ってきた。
「ユエ」
「早く行け」
なおも麻奈に巻き付こうとする触手を叩き落としながら、ユエは麻奈を背に庇ってアノ人と対峙した。
「でも、ユエは?」
「俺のほうが奴より強い。とっとと行けっ」
ユエは振り向きもせずにそれだけ言うと、あの人の触手をなぎ払う。麻奈は少し後ろ髪引かれたが、ありがたくユエにこの場を任せる事にした。ユエはいかにも戦い慣れている様子で、長い柄の箒を自在に操るその姿は華麗な舞を舞っているようにも見えた。
麻奈は駆け出した。上階に向かう階段の前には、既にあの人の触手が這い回っているので、螺旋階段を足早に下りて行く。
ユエに感謝しなくてはいけないと思いながら、麻奈は滑る足元に注意を払いながら階段を駆け下りた。
獲物が逃げた事に気が付いて、アノ人が麻奈を追うように前に出る。
「おっと、テメェは通せねぇ」
ユエの不敵な顔に汗が一筋流れ落ちた。何しろ触手は際限なく押し寄せる。追い払っても追い払っても、まるで疲れを知らない機械のようにしつこく迫ってくるのだ。
しかしそんなアノ人も、どうやら痛みは感じているようだ。箒で打ち払われるその度に、小刻みに震えながら動きを止める。だがそれも一瞬の事で、すぐにまた新たな触手を伸ばして前に前にと進んで来る。アノ人の歩みは止まらない。悲鳴を挙げながらも、狂ったように前進してくる。
そんな様子を見て、ユエも流石におかしいと思い始めた。アノ人とは今までに何度か遭遇していたが、その時は少し痛めつければ逃げて行った。こんなにがむしゃらに向かって来るのは初めての事だ。何がそこまでこの生物を駆り立てるのか。
「きゃあ!」
その時、階段を下りていた麻奈が粘液に足を滑らせて転んだ。腰を打ち付けてしまい、顔を歪めながら痛む腰を擦っている。
ユエはようやく合点がいった。アノ人の目当ては麻奈なのだ。
ジュリアンの言っていたように、アノ人はきちんと麻奈を識別して追いかけているのだ。何がこの生物の琴線に触れたのかは知らないが、此処に入ってきた唯一の女を求めているのだ。
そう考えて、ユエの中に沸々と怒りに似たものが沸き起こってきた。
ユエは大きく踏み込むと、触手の海を抜けてアノ人の本体を横殴りにした。しかし、それでもアノ人の前進は止まらない。すぐさま違う触手を伸ばして低く地を這うように前に出る。
彼はユエを邪魔者と判断したようで、触手を横薙ぎにして払いのけようとしている。気が付けば、押し負けるようにユエはじりじりと後退していた。
「くっ、きりが無ぇ」
ユエが額の汗を拭う一瞬の隙を突いて、アノ人が吹き抜けの柵をするりと抜けた。自在に変化する体を長く伸ばして、アノ人は階段を下りる麻奈を目掛けて吹き抜けから飛び降りた。
麻奈はその時、ちょうど踊り場の大鏡の前を駆け下りるところだったが、背後からボチャンという音と共に、アノ人が突然降って来たのを見て体が竦んでしまった。
アノ人は落ちた衝撃のために、プリンの様にゆらゆらと揺れている。
「止まるな。走れっ」
上からユエの叫び声が聞こえてきた。麻奈は我に返り、慌てて踵を返す。走り出そうとしたその瞬間、目の前の大鏡から光が溢れ始めた。