鏡へ(アノ人の場合) 1
麻奈は扉をきちんと閉めてから、まだおぼつかない足取りで水飲み場へと向かった。頭のどこかが麻痺しているようで、上手く自分の気持ちがコントロール出来ない。鼻を啜りながら、流れる涙を手の甲で拭いた。
自分でも、なぜこんなに涙が出るのか不思議だった。何がそんなに怖かったのだろう。ユエに襲われたからだろうか。違う、と麻奈は首を振った。あの時のジュリアンが恐ろしかったのだ。
囮に使ったんだ、というユエの言葉が耳に蘇ってくる。あの時は半信半疑で聞いていたが、もしかするとあれは本当の話かもしれない。
麻奈は一度大きく息を吸いこんだ。今の自分には、ジュリアンしか頼る相手がいないのだ。だから、彼を信じて付いていこうと決めた。例えどんな事があっても……。
水飲み場の蛇口を捻り、勢い良く流れ出る冷たい水を、少々腫れぼったい目に当てる。化粧が落ちるかもしれないが、今更構わない。これだけ泣いたのだ、きっともう落ちてしまっているだろう。麻奈は数度顔を洗ってから、顔を拭くものが無い事に気が付いた。
仕方なく、頭を傾けて肩口に顔を擦りつけた。蛇口を閉めようとして、その手が止まった。
此処には水が流れてる。それは、上下水道が通っているという事だ。もしかすると、下水道管を追っていけば、外に通じている所が分るかもしれない。
蛇口から流れっぱなしになっている水が、渦を作りながら排水溝へと吸い込まれていく。麻奈は水しぶきが掛かるのも気にならずに、水の流れをずっと見ていた。
「外に出られる――」
少し遅れて心臓がドキドキと脈打った。このことをジュリアンに話してみよう、きっと喜んでくれるに違いない。麻奈はそう思って、淡い期待に興奮しながら蛇口に手を伸ばした。
その時、背後に嫌な気配を感じて、突然全身が粟立った。後ろから、濡れたモップを引きずるような音が聞こえてくる。振り向きたい、でも確認するのが怖い。麻奈は先ほどの興奮がさっと引いていくのが自分でも分った。一気に氷水を頭からかけられたような気分だ。
麻奈が固まっていた時間はほんの数秒の間だったが、それが命取りになった。気付いた時には、すぐ後ろでその音はぴたりと止まっていた。
麻奈はゆっくりと振り返る。アノ人は、まるで麻奈を見上げるようにして足元に薄く広がっていた。廊下にへばりつく、肉色の塊が蠢いている。カタツムリのように這って来た跡がぬらぬらと光っているのを見て、麻奈は気分が悪くなった。
アノ人は麻奈に覆いかぶさるように体を持ち上げ、更に左右に伸び始めた。それはまるで通せんぼをしているようだ。もしかしたら、本当にそうなのかもしれなかった。
声が出せない。喉がかさかさに渇いているせいだ。麻奈は浅い呼吸を繰り返しながら、後ろに一歩下がった。しかし、水飲み場があるせいでそれ以上は下がれない。どこにも逃げ道はなかった。
アノ人の触手が麻奈を求めて伸びてくる。それは、麻奈が逃げられない事が分かっているかのような、ゆっくりとした動きだった。
今からジュリアンに助けを求めても間に合わない。
焦る麻奈の耳に、蛇口から出しっぱなしになっている水の音が聞こえた。麻奈は考えるよりも早く蛇口に飛びついて、親指で流れ出る水に蓋をした。丁度ジェット噴射の様に水の勢いが増して、麻奈は自分が濡れるのも構わずに照準をアノ人に合わせた。
「ヴゥゥ!」
急に冷たい水を浴びせられて、アノ人が耳を突き刺すような悲鳴を上げた。麻奈はその隙を付いて、アノ人の脇をすり抜けると、駆け出した。ジュリアン達のいる部屋に戻ろうとしたのだが、廊下の先にアノ人の触手が蜘蛛の巣のように張り巡らされているのが見えた。
麻奈は仕方なく、踵を返して反対側の廊下へと駆け出した。
「麻奈、どうしました」
「こりゃ、やべぇな」
騒ぎを聞きつけて、ジュリアンとユエが飛び出して来た。
「アァァァァ! オォォォ!」
最悪のタイミングでフリーズ状態が解けたアノ人が、奇声を発しながら動き出した。獲物を探すように麻奈とジュリアンたちに頭を巡らせてから、一瞬迷った後に麻奈をめがけて猛然と触手を伸ばし始めた。
「ひぃ! 何でぇ」
自分を追ってくる触手を見て、麻奈は半狂乱になりながら全力で走った。その背中をユエが追いかけようとしたその瞬間、ジュリアンがユエの腕を掴んだ。
「何だ」
ユエは苛々しながら振り返る。ジュリアンは遠ざかるアノ人から視線を外すことなく、掴んでいる腕に力を入れる。
「アノ人、いつもと様子が違うと思いませんか? 今、明らかに麻奈を選んで追いかけて行きました」
「だから何だ」
「おかしいと思いませんか? アノ人が誰かを識別して追いかけた事なんて今まで一度もありません。なぜ麻奈を追ったのか、興味があります。少しの間様子を見ましょう」
「馬鹿か! そんなことをしたらあの女が絞め殺されるぞ」
ユエはジュリアンの手を振り払うと、廊下に溜まった薄いピンク色の粘液を避けながら走り出した。
「やれやれ――」
一人廊下に残されたジュリアンは、いつもと変わらないゆったりした足取りでみんなの後を追い駆けた。
読んで下さってありがとうございます。ここ数日でお気に入りの登録がぐっと増えた気がします。たくさんの方に読んでもらえて本当に嬉しいです。ありがとうございます。それでは、また。