耳に届く音 5
ユエはからかうように笑って、麻奈の喉笛に噛みついた。その犬歯は鋭く痛い。麻奈はこのまま喉を噛み千切られてしまうような錯覚を起こした。
「んっ」
強い力で首筋を吸われ、麻奈はたまらず声を上げる。その反応を楽しむように、ユエは麻奈の首筋をぬるりと舐め上げた。
「ふっ……」
背中に悪寒に似た快感が走り、麻奈の腰が跳ねた。
「ここか」
ユエはぺろりと唇を舐めると、麻奈の首に指を這わせた。
「ん……」
麻奈は震えながらその手を振り払おうとした。しかし、ユエは左手で麻奈の両手をさらうように掴んで頭上にまとめ上げると、赤く色づいた首筋に更に唇を寄せた。
「言えよ。ここがいいのか」
「んん……」
こってりと舌を這わされて、麻奈は眩しいくらいの快感に目を瞑った。真っ赤になって顔を背ける麻奈に気を良くしたユエは、目の前の白いシャツのボタンを器用に片手で一つ一つ外してゆく。
その間も、ユエの舌は麻奈の首筋を蹂躙し続けた。麻奈は両手の自由も奪われ、嵐のような快感に耐えることしか出来ない。
「言えないのなら仕方ねぇなぁ。体に直接聞く事にしよう」
酷く楽しげに笑って、ユエは麻奈のシャツを開き、キャミソールを捲り上げた。激しく上下する水色の下着に包まれた胸元を目にして、ユエの興奮はさらに高まった。麻奈は首を振って抵抗の意を示す。動かせるのは最早そこだけだった。
ユエは麻奈の形の良い胸に、濡れた唇を寄せて軽く歯を立てた。それは、長らく忘れていた女の香りと、瑞々しい弾力をもって跳ね返してくる。ユエは徐々に体が熱くなってくるのを感じた。
「本当に、もうやめ――」
触れては離れ、また責め立てる様に吸い付くユエの唇に、麻奈は涙目で声を上げる。このままでは本当に最後まで流されてしまう。
抵抗の言葉も空しく、快楽に翻弄されていく自分に麻奈は戸惑っていた。それを知ってか知らずか、ユエは麻奈の胸元に舌を這わせながら邪魔な下着に手をかける。その時、唐突にコンコンと扉を叩く音がした。
「お邪魔ですか?」
場違いなほどのんびりした声が降ってきた。見ると、扉にもたれたジュリアンが腕を組んで麻奈達を見下ろしている。ユエは舌打ちしながら顔を上げ、視線で射殺せそうなほど鋭い目をジュリアンに向けた。
「邪魔だ。失せろ」
「すみません。調べ終えたら報告すると、麻奈と約束していたものですから」
ジュリアンはひょいと肩を竦めながら部屋へと入って来る。麻奈はジュリアンの顔を見て、安堵すると同時にとても恥ずかしくなった。今のこんな状態を見て、ジュリアンは自分の事をどう思うだろうか。
麻奈はユエの下から逃れようと全力でもがいていた。本当なら、こんな恥ずかしい所をジュリアンに見られるのは、身もだえするほど耐え難いのだ。しかし、ユエの手は未だ麻奈の両手を掴んで離さず、両足も体重をかけて絡めたままになっている。麻奈は自由にならない手足を動かそうとするのだが、そのどちらも麻奈の力では振りほどく事は出来なかった。
「おい、暴れるなよ。まだ始めたばかりだろう」
麻奈が突然暴れ出したのを見て、ユエは一層力を加えた。活きの良い魚のように身をよじる麻奈の耳に口を寄せて、とろりと熱い言葉を流し込んでくる。
「折角ジュリアンが来たんだ、どうせならアイツに見ていてもらうか? 燃えるぜぇ、観客がいた方が。おい、手出ししないのならそこで見ていてもいいぞ」
ユエは麻奈の耳から口を離し、ジュリアンに向かってにやりと笑った。麻奈は、ちぎれんばかりに顔を振った。ジュリアンにそんな所を見られるなんて、死んだほうがましだ。
忘れていた涙がまた込み上げてくる。ユエは至極楽しげに笑うと、麻奈の顎を捉えて真っ直ぐに見つめた。
「泣くなよ。そんな顔で泣くと、もっと虐めたくなるだろう。きっとアイツもそう思ってるぜ」
顎でしゃくるようにジュリアンの方を示す。つられて麻奈もジュリアンに目を向けると、彼の冷たい視線に出会い背筋が凍りついた。ジュリアンは底冷えする無表情な目で麻奈を見ていた。瞬きもせずに麻奈を穿つその視線受けると、なぜだか激しく責められているような気がする。
「――ごめんなさい」
麻奈は反射的に謝った。自分でも何を謝ったのか分からないが、何かを許して欲しいと思った。
ジュリアンの眉間に僅かに皺が寄った。ポケットに手を突っ込みながら、彼はつかつかと二人に近寄ってくる。
麻奈は固唾を飲んでジュリアンを見ていた。このとき、すぐ上に圧し掛かるユエが、微かに緊張して身構えるのが分かった。麻奈の手を離して、いつでも動けるように腰を浮かせる。ジュリアンは二人の側まで来ると、しゃがみ込んでユエの頭をぺしりと叩いた。
「何を馬鹿な冗談を言っているんですか。いいから麻奈を離しなさい」
「っ痛てぇな、俺は本気だ」
ユエは怒った様子も無く渋々麻奈の上から身を起こすと、大して痛くもない後頭部を撫でながらソファーに収まった。
ジュリアンが麻奈に手を差し伸べる。その顔は、いつもの微笑みを浮かべていた。
「大丈夫ですか」
「うん」
麻奈は空気が一瞬で変わった事に戸惑いながらその手を取った。身を起こしてもらいながら、涙をごしごしと拭う。助かったという気持ちよりも、消えてなくなりたいと思う羞恥心のほうが大きい。麻奈はジュリアンの視線を避けるように俯いた。そんな麻奈の様子を全く無視して、ジュリアンは顔を寄せて覗きこんでくる。
「首、痕になっていますね。他にも痛い所は無いですか」
「え?」
首に手をやり、シャツの前が肌蹴たままになっている事に今更気が付いた。慌てて捲くられた服を直してボタンを留めようとしたが、手が震えてうまくいかない。ジュリアンがやんわりとその手を退け、代わりにボタンを留める。
「怖かったんですね、可愛そうに」
麻奈はされるがままになりながら、ジュリアンのシルバーリングの光る長い指を見ていた。滑らかによく動く指をじっと見ていると、それは不意に動きを止めて麻奈の襟元を少し持ち上げた。
「さっきの放送――」
「え?」
「どこで放送されていたのか、私なりに目ぼしい所を見て回っていたんですが、どこにもそんな設備はありませんでした。まだこの学校の全てを調べたわけではないのでなんともいえませんが、リーズガルドに引き続き探すように頼んでおきました」
「そう――」
麻奈は、心此処に在らずといった返事しか返せない。実際、さっきはあんなに気味が悪かった放送も今ではどうでもいい事のように思えた。
「一番上のボタンが取れていますね」
麻奈は襟元に目を落とした。この取れたボタンを見るたびに、ユエにされた事を思い出すのだろうか――。麻奈は自分がジュリアンを裏切ってしまったような気持になって、ただ彼から目を逸らし続けた。
「きっとユエが引きちぎったんでしょう。見つけたら私が拾っておきます」
麻奈はお礼の言葉を口の中で呟いて、そのままジュリアンから身を引いた。麻奈が瞬きをする度に拭いきれなかった涙が頬を滑り、そのままポタリと床に落ちてゆく。ジュリアンは小さくため息を吐いた。
「麻奈、廊下で顔を洗ってきて下さい。そんなに泣くと目が腫れてしまいますよ」
ジュリアンは相変わらず優しい。麻奈の胸に広がった訳の分らない罪悪感は、彼の温かい一言で驚くほど軽くなっていた。
「うん」
麻奈は赤くなった目元に手を当てて少し微笑みながら、ふらふらと少し頼りない足取りで部屋を出た。
「お前、さっき何する気だった?」
麻奈が部屋を出て行くのを見届けると、黙って様子を見ていたユエが口を開いた。
「何の事ですか」
「とぼけるなよ。その服の中に何が入ってるのか、俺が知らないとでも思うのか」
ジュリアンはふふふと笑うと、ユエの向かいのソファーに座った。ユエは長い足を組み変えながら、それを気に食わない様子で眺めていた。
「そいつで、どっちをどうしようとしたんだ」
「だから、何の事ですか」
「お前の殺気は駄々漏れなんだよ。言っておくが、あの女に傷を付けるような真似はするなよ」
「おや、随分優しいんですね。情でも移りましたか」
「俺はお前と違って女には優しいんだ。それに、あの俺を見る視線――堪らねぇな。やっぱり女は良いねぇ。久しく忘れていた快感だ」
「ナルシストも大概にして下さい」
「ふん、いつになくご立腹じゃねぇか。さては、お前まだ手を出してねぇな」
「私はユエと違って、それしか考えていないわけじゃありませんから」
ユエは大輪の花が咲き誇るように笑った。
「じゃあ、俺が先だな」
「どうぞご随意に。麻奈がよいと言えばですが」
その口調には余裕が伺える。実際、ジュリアンは麻奈にそんな事を言わせるつもりはなかった。彼女に触れていいのは自分だけだ。
「畜生、だったらさっきは何で止めやがった。今度邪魔したら許さねぇからな」
分かりましたよ、とジュリアンは頷いておいた。
「それはそうと、アイツが付けていた下着。見たことも無い形だったが、アレはどう外せばいいんだ」
その問いに、ジュリアンは苦笑いするしかなかった。