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耳に届く音 4

「何してるの」


 扉にかかるごつごつとした無骨な手を眺めながら、麻奈はユエに問いかけた。彼は笑みを深めるばかりで答えようとはしない。

 麻奈が嫌そうに、しっしっと追い払う手をものともせずにかいくぐると、ユエは躊躇いもなく部屋の奥へと入ってきた。それからゆっくりと振り返ると、しげしげと麻奈を見た。


「何? 何か用なの?」


 麻奈は無意識に鳥肌を立ててユエと距離を取る。


「ジュリアンに置いて行かれて悲しいか」

 

 その言葉は麻奈の胸に刺さった。薄々気が付いてはいたが、はっきり言葉に出されると苦い気持ちがあふれてくる。そう、自分はジュリアンに置いていかれたのだ。それは足手まといと言われた事と変わらない。


「……そんな事、ないよ」


 ユエの唇がきゅっと上がった。幼い子供が新しいおもちゃを手に入れたら、こんな笑い方をするかもしれなかった。


「そういえば、あっさり置いて行かれたよなぁ。無理もないだろうな、完全に怯えて震えていたからな。あれじゃあ、ただの足手まといだ」


 傷口にこってりと塩を塗られた気分になって麻奈は下唇を噛み締めた。そんな事は言われなくても分かっている。


「何が言いたいの」


 涙を辛うじて堪えてユエを睨む。


「アイツを信用するのは止めておけ。利用出来なくなったら、あっさり切られるだけだ」


 麻奈は返す言葉が見つからなかった。きっとジュリアンは役に立たないと判断したら、何度でも麻奈を置いて行くだろう。


「みんなそう言うんだね。リーズガルドにも似たような事を言われた……」


 急に視界が滲んできて、麻奈は急いで俯いてそれを隠した。麻奈にとって、この奇妙な場所ではジュリアンだけが心の拠り所のような存在なのだ。それを否定されたくない。


 いつの間に移動して来たのか、ユエが麻奈のすぐ目の前に立っていた。麻奈は涙で霞む視界を晴らそうと、顔を背けながら瞬きを繰り返す。不意にユエの手が麻奈の顎を捉え、強い力で上を向かせた。瞳から零れて頬を伝う涙を、ユエの親指がそっと拭った。


 ユエに泣き顔を見られたことは麻奈にとって屈辱だった。しかし、一度溢れた涙は後から後から零れてくる。顔を背けたいのに、じっと見下ろしてくる冷たい色の瞳が恐ろしいほど綺麗で、麻奈はそのまま動けずにいた。


「アイツの事で泣くなんて、滑稽だな。見ていて不愉快だ」


 いっそ優しいほどの声色で、ユエの言葉は麻奈の心に棘を刺す。

 麻奈はこの男の前で泣いている自分が堪らなく惨めになり、ぎゅっと目を閉じた。涙が更に溢れて、頬に新たな涙の筋を作る。

 閉じた瞳からも、熱い雫が溢れてくるのを感じて、麻奈は手の甲でごしごしと擦った。

 不意に自分の手が退けられると、暖かく濡れた何かが麻奈の涙の跡を這うようになぞっていった。驚いて目を開けると、ユエの舌がゆっくりと離れていくところだった。


「何、するの」


「馬鹿だな。お前は」


 ユエは掬い上げるように麻奈の背中と膝裏に手を入れてその体を横抱きにすると、そのまま優しく床に横たえた。麻奈はユエが何を言おうとしているのか分からない。彼の冷ややかな瞳を見ていると何も分からなくなってくる。


「ジュリアンを信用して、依存して。奴に利用されている事に気付きもしない」


 ユエの黒い服が目の前を塞いだと思ったら、ため息と共にたくましい体が覆い被さって来た。甘い香の匂いが麻奈の体を包んでゆく。彼の長い銀の髪が肩口から流れて、麻奈の頬をくすぐった。ユエは完全に麻奈の上にのしかかり、彼女の足に自分のそれを絡めていった。

 麻奈は何が起きたのか分からずに、瞬きを繰り返した。その度に涙が零れ頬に落ちていった。ユエは、それを再び指で掬い取る。酷い言葉とは裏腹に、その手つきはとても優しいものだった。

 麻奈は思い出したようにユエの胸を押し返した。しかし、ユエはそんな抵抗を笑いながら跳ね除けると、麻奈の耳に顔を寄せた。


「奴の優しさ全て嘘だ。奴がお前に優しくするのは、都合の良い道具にするための手段でしかないんだよ」


 熱い息が耳にかかる。麻奈はユエの胸をなおも押し返そうとしたが、ユエの体はびくともしない。服越しに触ったユエの胸板は、硬くて厚い。麻奈の細い腕では、到底動かせるとは思えなかった。それでも麻奈は必死に押した。これ以上、彼の口から何も聞きたくなかった。


「お前は知らないんだ。奴がどんなに酷い人間なのかを――」


 耳元でユエは物憂げなため息を吐いた。それは耳から入り込み、麻奈の頭の中を甘くかき回していく。ユエは麻奈の耳をなぞるように舐めると、耳の奥まで舌を差し入れた。グチャグチャという篭った音と共に、熱い舌がぬるぬると動かされる。今までに無いほどの快感に耐え切れず、麻奈は弓なりに仰け反った。


「……何で、そんな事言うの。ジュリアンは何度も私を助けてくれたもん。此処で頼れるのは、ジュリアンだけ……」


 ユエの唇がゆっくりと下りて、麻奈の項に吸い付いた。


「んんっ」


 ゆっくりと蛭が這うような舌の感触に鳥肌が立ち、麻奈はユエの上着をきゅっと握り締めた。ユエはわざと甘い音を立てながら執拗に吸い付いてくる。思わず漏れそうになる声を何とか飲み込むが、麻奈はそれだけで息も絶え絶えになっていた。それは酷い拷問のような気がした。


「じゃあ、教えてやろう。奴が何をしたのか」


 ユエは麻奈の項から唇を離して、その顔を挟み込むように両手で掴む。鼻が触れそうなほどに近い距離で、怒りを灯したようなアイスブルーの瞳が揺れている。麻奈は目を逸らすことも出来ずに、挑むようにユエの瞳を見つめ返した。


「ジュリアンは、俺を囮に使ったんだ」


「囮?」


 ユエの歯が悔しさでギリリと鳴った。


「そうだ。あの肉ゼリーが選ばれた時、変化する前のアイツが鏡に映った。その時、ジュリアンは俺に言ったんだ。これはチャンスだ、今この鏡は外と繋がっている。これを使えばきっと外に出られると。俺は閉じ込められている事にうんざりしていたから、奴の提案を受け入れた。脱出できる事を願って鏡を通って外へと出た。出た先は全く知らない場所だったが、とにかく遠くへ走った。二度とこの訳の分からない場所に捕まらないようにな」


 ユエの眉間が険しくなってくる。麻奈はジュリアンの言葉を思い出していた。鏡から出ようと色々試した。彼は以前そう言っていた。その時に何かがあったのだろうか。


「走るうちに段々体が重たくなり、思うように身動きが取れなくなってきた。やがて俺は走る事はおろか、立っている事さえも出来なくなっていた。それでも必死に、地べたを這いずりながら前に進もうとしたよ。だが、その時初めて分かったんだ。俺の体に目には見えない何かが巻きついていると。俺はそれを振り払おうとしたが、それはますます俺の体を締め付けてきやがった。そして次の瞬間、巻きついた何かは、俺の体中の骨を一瞬で折りやがったんだ。これ以上俺が逃げられないようにな。激しい痛みに意識が遠くなって、気が付いたらまた此処に戻されていた。その内ジュリアンがひょっこり姿を見せて、白々しくこう言ったんだ。こんな結果になって非常に残念だった、しかし脱出しようとするとどうなるのかが分かってとても良かった。ところで、自分は違う場所で脱出を試みたが、それはあと少しの所で失敗してしまった。今度鏡が光ったらまた試してみたいから、その時はまた囮になって欲しいと……」


 ユエは言葉を区切ると、また激しい歯軋りをした。すぐ目の前でバリっと鳴る歯に、麻奈は怯えていた。犬歯をむき出しにしたユエの顔が更に近付く。


「奴は、鏡から脱出しようとすればどうなるか知っていたんだ。そして、俺が目立った行動を取っている間に、自分だけ此処から逃げようとしやがったんだ。俺達を閉じ込めている奴の注意を、自分から逸らすためだけに俺を利用したんだ。その上、ぬけぬけとまた頼みたいなどと言いやがって!」


「ジュリアンが本当にそんな事を――? きっと何か誤解が……」


 麻奈の言葉を遮って、許せねぇ!と唸るように呟いたユエの瞳は、猛り狂わんばかりの怒りが渦巻いていた。自分の頬を挟む手に力が入り、麻奈はびくりと震える。麻奈は剥き出しのユエの怒りに怯えていた。今のユエには何を言っても聞こえないのかもしれない。そんな麻奈の様子に気が付いて、ユエの目が細まった。とても甘く。


「怖がらせたか? 可哀想に」


 激しい怒りを引っ込めて、飛び切りの猫なで声で麻奈の頬を優しく撫でる。


「じゃぁ、胸糞悪い奴の話はもう止めだ。もっと楽しい事をしようぜ」

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