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耳に届く音 1

 リーズガルドを部屋から閉め出してから、ジュリアンはいつものゆったりとした足取りでまたソファーに腰を落とした。その様子を見ていた麻奈は、ジュリアンの足元を見て顔を曇らせた。こうして彼の全身を眺めていると、嫌でも足元に目がいってしまう。


「足、また透けてきたね。どんどん上ってきてるみたい」


「そうですね、進行するスピードも速くなったように感じます。このままだと、麻奈を手伝える時間はあまり残されていないようですね」


 ジュリアンは困ったような顔をして自分の足元を見る。その足は既に膝まで完全に透明になっていて、半透明の部分は腰の辺りまで上がってきていた。


「じゃあ急がないと。っ痛……」


 麻奈は慌てて立ち上がり、脇腹の痛みに一瞬息を詰まらせる。


「急に起き上がってはいけません。それに、麻奈の怪我が完全に治るまでは動くつもりはありませんよ」


「でも」


「いいから横になって下さい。その代わり、治ったらたくさん歩かせますからね」


 少しでも休ませてくれようとするジュリアンの心遣いが嬉しかった。麻奈は素直に頷いてソファーに再び収まった。


「確か、自分のなりたい姿になるんだったよね。ジュリアンはどうしてその姿なの? 透明人間になりたかったの?」


「透明人間――。そうかもしれません」


 自嘲気味に笑うジュリアンを見て、麻奈は聞いてはいけない事だったかと後悔した。望む姿、それと同時に見たくない姿なのだとジュリアンが言っていたのを思い出す。

 しかし、よく考えたらそれはおかしな話だった。普通の人間は、見たくないと思うような姿になりたいだろうか?


 麻奈は、小骨が喉に刺さったような不快な疑問を感じた。それは肝心な所でつじつまが合わないことに対する奇妙な違和感。そもそも、此処の法則は何もかもがおかしいように感じられる。でたらめでグロテスクで、とても悪趣味なのだ。

 気にはなるが、考えたところで引っ掛かった小骨はそう簡単に取れそうもない。それならば話題を変えた方が良さそうだと麻奈は思った。


「そういえば、靴はそのままなのね」


「あぁ、それは私が靴下を履いているからだと思います。肌に直接触れていない衣服は透けないようですよ」


 ジュリアンは靴を脱いで見せてくれた。光沢のある靴の中身は、もう既に透明になってしまっていて麻奈が見る事は出来なかったけれど。


「その足は見えないだけで、ちゃんと在るんだよね? 無くなってたりしないよね?」


「えぇ、ちゃんと在りますよ」


 そう言って、ジュリアンは片方の足のつま先を掴んでみせてくれた。目に見えない何かを掴んでいる形で静止するジュリアンの手を見ると、実に不思議な気分になってくる。まるで出来の悪い手品を見ているようだ。しかし、これは種もなければ仕掛けもない、現実の出来事なのだ。

 夢だったらどんなにいいだろう。麻奈は此処に連れて来られてから何度そう思ったか知れない。しかし、此処に来たおかげでジュリアンに会えた。それだけはこの奇妙は場所で唯一の嬉しい出来事だ。


「良かった。でも、このまま下から透明になっていったら、最後の方は首だけしか見えなくなっちゃうね」


 生首状態のジュリアンを想像して、何とも言えない気持ちになる。美青年の空飛ぶ生首はさぞかし見応えがあるだろう。麻奈の良からぬ妄想に、ジュリアンは苦笑した。


「それは私も考えました。ですが、もっと間抜けなのは髪だけになった時だと思いませんか? 天辺の髪だけふわふわ浮いているのは、カツラが飛んでいるみたいですよ、きっと」


 眉を寄せながら少しおかしそうに笑うジュリアンを見て、麻奈はつられて笑ってしまった。


「だから、そうなる前に出口を見つけて下さいね。期待していますよ」


 予期しなかった言葉を投げかけられて、麻奈は息を呑んだ。

 頑張るよ。と曖昧に麻奈は頷いてみたが、彼の言葉に少しだけ息苦しさを感じた。

 期待されるのは嬉しい半面、少し辛い。結果だけを求められてるような気持ちになるのだ。


 期待している。この言葉を浴びるほど聞いていた毎日を麻奈は少し思い出した。

 数年前、麻奈の母親は自由奔放な長男に期待を寄せるのは時間の無駄だと早々に諦め、従順な妹の方に家業を継いでもらおうと考えた。

 麻奈の家の家業、それは大きな個人病院だった。母親は麻奈に大きな期待を寄せた。麻奈もそれに答えようとしたのだが、頑張れと言われるたびに、陸に上げられた魚のように息苦しくなった。

 麻奈は自分のシャツの裾を握り締めた。思い出したくない事を思い出してしまった。なぜだか、本当に酸欠になってしまったみたいに頭が痛くなる。

 その時、麻奈の耳元で小さな水音が上がった。


 パシャ、パシャ。すぐ近くで聞こえる不思議な音。麻奈は物思いに沈んでいた意識を引き上げた。


「どうしました」


「――何でもないの。もう痛みも引いたから、治ったみたい。そろそろ行こうか」


 そう言うが早いか、麻奈は立ち上がって歩き出した。

 腑に落ちない顔をしながら、ジュリアンも麻奈の後を追ってくる。


 麻奈は今、水面を叩く水音を確かに聞いた。絶対に空耳ではないと言い切れる。

 それは嗅ぎ慣れた匂いを伴って麻奈の元に届いたのだ。あれは――塩素を含んだプールの匂いだった。

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