無理難題 7
麻奈は観念して、しぶしぶ服を捲くった。ゆっくりと露になる白い腹部。ジュリアンの視線がそこに注がれるのを感じて、麻奈は緊張に体を硬くした。
見ると、ジュリアンは薄っすらと微笑んでいる。あまり人に見せたことのない場所を凝視されるのは耐え難い。早く終わりにして欲しいと思いながら麻奈はジュリアンの治療を待っていた。
ジュリアンが、そっと麻奈の腹部に触れた。途端、麻奈はぴくりと体を振るわせてしまった。あまりにそっと触れるので、かえって意識して酷く緊張してしまう。
ジュリアンは白い腹部をじっと見ながら、丁寧に擦り続けている。
麻奈はそんな彼から顔を背けた。心なしか、彼の顔に何かの意思が灯っているような気がして、耐え難い羞恥心が湧いてくる。しかしそう思ったのも束の間、ジュリアンは心配そうに眉を下げてため息を吐いた。
「これは酷い。痛そうですね」
ジュリアンは麻奈の右腹部に赤黒く腫れた箇所を見つけて眉をひそめている。
自分の肌に浮かぶ赤い痣を確認して、麻奈はぞっとした。こんなに酷い痣になっているとは思わなかった。ジュリアンが軽く確かめるように麻奈の腹を指で押すと、痛みのために声が出てしまう。
「恐らくですが、内臓にはさほど問題は無いでしょう。でも、もしかしたら肋骨にひびが入ったかもしれませんね。今痛み止めの薬を用意します。それからサラシも。完全に痛みが消えるまでは安静にしていて下さい」
ジュリアンは木箱の中から小瓶を取り出すと、中の錠剤を一粒取り出して麻奈に手渡した。
「呑んで下さい。水なしでも問題ないはずですから」
麻奈は手のひらの錠剤を見つめていたが、口の中に放り込んでゴクリとそれを嚥下した。それを見届けてから、ジュリアンは木箱から出した冷シップを、麻奈のわき腹にぺたりと貼り付けた。ジュリアンは続けて木箱を探ると、中から白いサラシを取り出す。
麻奈はそれを何に使うのかと興味津々で見ていた。
「それ、どうするの」
「巻くんですよ。その状態のままにしておくと、咳やくしゃみをした時に肺が動いて強い痛みを感じるはずです。所詮は応急処置ですが、やらないよりはましでしょう」
麻奈の瞳が知らず、大きくなった。
「さ、服を脱いでください」
途端に顔色がさっと変わる。
「いい! そんなの巻かなくても、全然平気! しばら経ったら治っちゃうんだから。――大げさだなぁ、ジュリアンは」
麻奈は冷や汗をかきながら、必死に首を横に振って断った。冗談ではない。そんなに恥ずかしいことをジュリアンにしてもらう訳には断じていかない。
麻奈があまりに懸命に断るからなのか、ジュリアンはサラシを巻く事を諦めてくれた。とてもとても、残念そうではあったけれど。
「じゃあ、絶対にこのソファーで安静にしていて下さいね」
麻奈は安堵してから、はい。と良い返事を返した。出来る事なら姿勢を正して敬礼も付け加えたい気分だった。なんにせよ、助かった。
ジュリアンは麻奈の肌を隠すように、捲くった裾をそっと直してくれた。
手当てとはいえ、好意を寄せている男の人にこんなに長い間触れられたのは初めての事だった。こんな奇妙な所じゃなかったらなぁ、と考えて慌てて首を振った。
さっきのサルーンの取り乱しようを思い出すと、甘い妄想もすぐに霧散してしまう。
「此処は怖い所だね」
麻奈は手当てしてもらったばかりの腹を擦りながら絞り出すような声で呟く。
「姿が変わるだけでも凄く怖い。でも、それだけじゃないんだね――」
ぎゅっと上着の裾を握りながら、麻奈は床の一点を凝視していた。
「あの静かなサルーンさんが、あんな風になるなんて……。此処にいたら自分が自分でいられなくなる、そんな気がするの」
ジュリアンは救急箱をサイドテーブルに置くと、向かいのソファーに腰を下ろした。ゆったりと体を傾け、肘掛に左腕を預けて頬杖をつく。
「自分を保てなくなる事は、もしかすると死よりも恐ろしいことかもしれませんね。しかし麻奈、貴女はどれくらい自分というものを知っていますか? 全てを知っているつもりでも、もしかするとそれは自分の中のほんの一部分で、自分でも気付いていない別の一面が存在するのかもしれません。正気を失って、その部分が漏れ出すことの方が、私は何よりも恐ろしい」
「そんなに難しく考えた事は無いけど、此処に長くいたら駄目だって事が良く分かったわ」
それを聞いてジュリアンは薄く微笑んだ。なぜかそれはとても満足そうな微笑に見えた。
「ねぇ、ジュリアンは何か聞こえるの」
「何かとは」
「サルーンさんが言ったの。此処にいると、何かが見えるんだって。初めは聞こえるだけなのに、段々それが見えるようになるって。私には何のことなのか分からないから――」
ジュリアンはどうなの? と麻奈は小首を傾げると、彼は続き部屋の扉をちらりと見た。麻奈もつられて、今は閉じられているそれに目を向ける。
「さぁ。私にも何の事だか分かりません」
そう答えるジュリアンは、いつもの素振りと何も変わりない。それなのに、麻奈にはなぜか彼が嘘を吐いているように感じられた。たった今、続き部屋にちらりと向けた視線のせいだろうか。それとも、何気なさ過ぎるからなのか、それは麻奈にも良く分らなかった。
「それよりも、この後リーズガルドの所に行こうと思っていましたが、それはとても面倒ですね。丁度あそこに彼の蔦があるので、あれに話しかけて今回の件は終わりにしましょう」
「あぁ、そっか。あの蔦は聴覚も備わってるって言ったっけ。でも、何か逃げたみたいで癪だなぁ」
「麻奈は罵られるのが好きなんですか? あぁ、そういう趣味なら勿論止めませんけど」
「嫌いです。スミマセン、行きたくありませんっ」
「今後も彼には関わらない方が良いでしょう。恐らく無理難題を押し付けてきますよ。幸い、彼はあの部屋から出て来られないので、あそこに近づかなければ会うこともありません」
渋い顔をしながら立ち上がろうとした麻奈に、ジュリアンが片手でそれを制した。そのまま扉の近くで揺れているリーズガルドの葉を、嫌な物を持つ手付きで拾い上げると、麻奈の口元にマイクのように近づけた。
「どうぞ」
「えーと――。何て言えばいいかな」
麻奈は、差し出された緑と赤の斑模様の植物を見ながら考えた。こういう場合、どう言えばいいのだろうか。
失敗した事には変わりはないのだから、取り繕っても無駄だと悟って、麻奈は自棄になりながら蔦に話し始めた。
「えっと、聞こえますか? 麻奈です。リーズガルドも知っての通り、えー……失敗しました。サルーンさんから記念品もらえませんでした。でも、私は仲良くなる気満々だったからね。ちょっと今回は失敗したけど、まだ諦めてないからそのつもりで。だってリーズガルドは期限設けなかったでしょ。サルーンさんと親しくなって、絶対記念品持って行くから待ってなさいよ!」
「まだ諦めてないんですか」
「もちろん。あの生意気小僧に思い知らせてやりたいじゃない」
「今のも彼に聞こえてますよ」
「あ、しまった」
麻奈は頭を掻いた。興奮してつい本音が漏れてしまった。それを少し冷めた目で見ながら、ジュリアンがリーズガルドの蔦を部屋の外へポイッと放り投げた。
「そういう事ですから、君は大人しく部屋に帰って下さいね」
蔦は不満気にカサカサと震えたが、ジュリアンは有無を言わさず、ぴしゃりとドアを閉めてしまった。