無理難題 4
サルーンの部屋に近づくにつれて、廊下や壁にはひび割れが目立つようになった。
いつ崩れてもおかしくない廊下を歩くのはやはり慣れない。おまけに、アノ人の気配を探りながら進むので、自然と足元が疎かになってしまい、瓦礫に足を取られそうになる。
麻奈はバケツを持ちながら、慎重に瓦礫の山を越えていった。途中バケツの重さによろけてしまい、むき出しの鉄骨で腕を擦りむいたが、それ以外はほとんど順調に目的地まで進んでいた。
改めて見るとそこは酷い廊下だった。壁には何の跡なのか分らないほど大きな穴が開いていて、所々焦げたような黒ずみが残っている。そこかしこに小さな穴が開いていて、これが全て銃弾の跡ではないかと考えて、麻奈は背筋が冷たくなった。これらを見るだけで、サルーンの国の内乱の悲惨さが想像できるようだ。
麻奈はバケツを持ちながら、思った以上に困難な道を越えて、問題の壁と天井がえぐれた廊下に到着した。この道を渡るにはバケツを置いていかなくてはいけない。少し前に、此処から落ちかけたことを思い返して身震いする。
麻奈は少し離れた所にバケツを置いて、深く呼吸を繰り返した。頭の中を出来るだけクリアにして、無事に渡りきった自分を思い描きながら慎重に一歩を踏み出す。
ゆっくりと、しかし確実に麻奈は前に進んでゆく。呼吸は自然と浅く速くなり、どうしても指先が震えてしまう。しかし、麻奈は前だけ見つめて必死に足を進めた。
ようやく向こう側に渡った時には、麻奈は汗だくになっていた。
しっかりした足場に辿り着いた途端、足の力が抜けてその場に座り込んでしまった。すると、突然サルーンが音も無く現れた。六本の蠢くたくましい腕を携え、相変わらずどこを見るとも無い目つきで麻奈を見る。
「わ。びっくりした! あの、何度も来てすいません……」
麻奈は出来るだけ自然に声を出したつもりだった。しかし、一度会っているとはいえ、サルーンのグロテスクな外見に緊張して、麻奈の声はひっくり返っていた。
麻奈の怯えをサルーンは敏感に察知したらしく、表情の無かった顔が僅かに曇った。
麻奈は慌てて言葉を捜す。傷つけてしまったのだろうか。
「あの、さっき助けてもらったお礼をきちんと言いたくて。それから、実はお願いしたい事もあって来たんです」
しかし、いくら取り繕っても麻奈の言葉は上滑りするばかりだった。何を話せばいいのか、きちんと考えておけば良かったと思っても、もう遅い。
自分を見ようとしないサルーンを見上げ、麻奈は途方に暮れた。
上辺の言葉だけでは、サルーンには届かないのだ。
唇を噛み締めて後悔していた麻奈の前に、サルーンの日に焼けた腕が一本差し出された。その手の上には水色の細長い物が乗せられている。
「君の物だろう」
「携帯」
麻奈はサルーンから携帯を受け取ると、懐かしむように表面を撫でた。
「いつの間に落としたんだろう? ずっと持っていてくれたんですか?」
微かに頷くサルーン。
「ありがとうございます」
今度は自然に声が出て来た。サルーンと視線が合わなくても、彼の顔が無表情でも、麻奈はもう気にならなかった。
「サルーンさんには助けてもらってばかりですね。何かお礼をしたいんですが、今は何も持って来てなくて……」
「必要ない。此処へも、もう来るな」
麻奈は何て返事をしていいのか迷った。彼の拒絶の言葉はまるで自分を否定されたような気持ちになる。
確かめる様にサルーンの顔をそっと伺ってみると、一瞬彼の目が麻奈の瞳を捉え、またすぐに遠い目に戻っていった。
麻奈はサルーンの真意が少しだけ分かったような気がした。彼の中に「来るな」という気持ちは確かにあるのだろう。しかし、それと同時に「来て欲しい」という気持ちが垣間見えた気がしたのだ。拒絶されたくないから、その前に人を遠ざける。きっとそれが臆病で優しい彼の本音なのだろう。
麻奈は心の中で大丈夫と自分を叱咤した。サルーンはいつも『お出迎え』してくれた。携帯だって拾ってずっと持っていてくれたのだ。彼は本当は人恋しいのかもしれない。もしもそうだとしたら、ここで引き下がるわけにはいかない。
「じゃあ、今何か手伝える事はありませんか? 私に出来そうな事があったら何でも言って下さい」
サルーンは麻奈の言葉に何の反応も見せず、踵を返して歩き出した。
「あ。待って」
麻奈はサルーンの後を追いかけるが、彼の歩みは止まらない。これではまるで暖簾に腕押しだ。サルーンは結局、後ろを振り返ることもなく『美術準備室』の札が掛かった部屋へと入って行った。
麻奈は教室の前まで追い駆けてから、どうしたものかと悩んだ。嫌われてはいないだろうが、あまり歓迎されてもいないようだ。しかし、ここで引いてしまっては、いつまで経ってもリーズガルドの条件をクリア出来そうに無い。
麻奈は思い切って美術準備室へと飛び込んだ。
麻奈はかなり勇気を振り絞った。普段の麻奈だったら、こんなに大胆な事は出来なかっただろう。
それは恐らく、サルーンが相手だから出来るのかもしれなかった。
全てにおいて閉じているこの男に妙に親近感を覚えて、麻奈はサルーンの部屋へと入って行った。
「うわぁ」
壊れたカンバスが数個転がっているだけの、ほとんど何も無い部屋を見て麻奈は思わず呟いてしまった。瓦礫だらけの部屋の隅に、薄汚れたテントが一つぽつんと立っている他は全くと言ってよいほど何もない。しかし、上を見上げると、部屋の天井の一部が崩れ落ちていて、まるで天窓の様に空が覗いていた。
空から差し込む茜色の夕陽が、じんわりと部屋を染めていて、それがテントと相まってノスタルジックな気持ちを掻き立てる。
麻奈は天然の天窓から空を見上げた。夕暮れの空を見ていると、いつも麻奈は無性にシチューが食べたくなる。麻奈にとって、夕暮れは家路を急ぐ色だ。そう思い始めたのはいつの頃だっただろうか。
まだ幼い頃、「お家へ帰ろう――」とクマが歌いながら家路を走るシチューのコマーシャルを見て以来、夕暮れイコール、シチューの構図が出来上がってしまった。
暖かな食卓、それは麻奈にとって憧れて止まないものだった。しかし、それが叶わない自分は世界の軸から外れていて、独りぼっちで羨ましげにその周りを漂っているのだと否応なしに思い知らされた。
「帰りたい……」
一体どこに? シチューの待つ家に? そんなものはもう手に入らないと分っているのに。
自分でも意図しなかった言葉が浮かんできたことに麻奈は驚いた。
「俺もだ」
麻奈の呟きはとても小さなものだったが、サルーンの耳はそれを拾っていた。見ると、彼も空を見上げている。この男には暖かいシチューが待っているのだろうか。麻奈はふと聞いてみたくなった。
「サルーンさん。シチューは好きですか」
「しちゅう? 何だそれは?」
在らぬ方向を見ながら不振そうな顔をされた。突然部屋に入ってきて、訳の分からない質問をする麻奈に困惑しているようだ。
「うーん、野菜とお肉のスープ……かな」
そうか、と呟いてサルーンは目を閉じた。
「スープは好きだ。此処に来る以前から、暫くまともな食事をしていない。今、無性に食べたくなったな」
そう言った顔が、心なしか笑ったように見えて麻奈は目を丸くした。しかし、途端にクゥと腹が鳴って自分も空腹だったことを思い出す。
そう言えば、夕飯食べ損ねていたのだ。今となっては、味気ない冷凍食品の夕食もご馳走に思えてくる。
麻奈はこの時、とある決意を固めた。それは、きっとサルーンの微かな笑顔を垣間見たせいだろう。