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無理難題 3

 そこは部屋の真ん中に巨大な寝台が置かれている広い部屋だった。寝台の周りを囲うように、四方の壁に本棚が配置され、中にはびっしりと本が並べられている。

 部屋の一角には大きな鏡を掛けられているが、それには鏡を覆う絹の布が掛けられていた。

 スタンド型の油式のランプがベッドサイドに置かれているのを見て、麻奈は違和感を覚えた。品があるが、どことなく古い時代の部屋のようだ。あまりにも整然としていて生活感が無く、むしろ図書室のような部屋だった。そのせいで、大きな寝台がやたらと目立っている。


「ここ、ユエの部屋?」


「呼び捨てか。まぁ、構わねぇよ」


 そう言うなり、ユエは麻奈を寝台に突き飛ばした。麻奈はたたらを踏んで寝台に倒れこむ。


「痛っ」


 麻奈は寝台に投げ出された拍子に尻餅を付いた。スプリングの利いていない、何かごわごわしたものが詰まっているような固い感触がする。

 居心地が悪い。きっと寝心地も悪いのだろうな。と思っていると、上から水滴がぽたりと落ちてきた。


「お前のせいで服が濡れたじゃねぇか。責任取れよ」


 ぞくりと背骨に響くとろみのある声で、ユエは麻奈に覆い被さるように寝台に上がってくる。


「謝ったじゃない。それに、ユエも悪いんだからね。急に肩を叩くから……」


 麻奈は極力ユエを見ないように寝台の上を後退していった。

 しっかり頬を染める麻奈を見て、ユエは追い詰めるように後を追った。獲物を捕らえた猫がそれをいたぶるように。

 寝台が軋んギシギシと鳴っている。ユエの追従は執拗だ。今は怒りではなく、情欲に燃える瞳で麻奈を捉えたまま、じりじりと距離を詰めてくる。時折、面白がるように瞳を覗きこんでくるので、麻奈はその度に息苦しくなった。


 ユエは思う。自分の美貌を意識する存在の、なんと心地良いことか。


「水かけた方が悪いに決まってるだろう」


 意味のない会話も、スパイスだとユエは心得ている。


 ついに麻奈は背もたれまで下がりきってしまい、寝台から降りようと身体を捻った。ユエは逃がすまいと、麻奈を囲うように手を広げ、背もたれと自分の胸で麻奈を挟み込んだ。

 僅かな距離で揺れるユエの美貌に、麻奈は頬を染めて見入ってしまった。

 麻奈はこの時、彼を嫌っていた事すら忘れて目の前で薄く笑う彼の美しさに溺れていた。


 ユエは寝台の背もたれに手をついて、自分の腕の中で小さくなる麻奈を見下ろした。自分に注がれる潤んだ視線を堪能しながら、これから行われる行為を思い浮かべ身震いする。

 そんな艶のある視線に気が付いて、麻奈は慌てて目を伏せた。早鐘のように鳴る心臓の音が外に聞こえるのではないかと不安になる。好きでもない、むしろ苦手としている男とこんな雰囲気になるのは絶対に良くない。


「お、お詫びに洗濯するから――」


 上ずった声で場の雰囲気を壊そうとする麻奈の意図を察して、ユエは彼女の両手首を素早く掴んだ。麻奈は驚いて小さく悲鳴をあげる。

 細い両手首をまとめて持ち上げて、ユエはそれを寝台の背もたれに押し付けた。

 麻奈は極度の密着に緊張しすぎて抵抗らしい抵抗も出来ずに、困惑気味に引きつった声を上げる。それを満足そうに見下ろして、ユエは自らの襟元に手をかけると、それを一気に引き下ろした。上着がはだけてユエの素肌が露になる。

 麻奈は緊張のあまり、死ねるのではないかと思えるほど鼓動が早くなるのを感じていた。息苦しくて仕方が無い。


 ユエは、冷てぇ。と呟きながら雫が滴る前髪をかき上げ、器用に片手で上着を脱ぎ捨てた。ユエの裸体を目にした瞬間、麻奈はこの体制の危うさを思い知った。ユエの美しさに目を奪われて、抵抗もせずにいた事を今になって後悔する。この先に、何が待ち受けるのかを考えると鳥肌が立った。


 麻奈は、身をよじってユエの手から逃れようとした。しかし時既に遅く、彼に掴まれた両腕はびくともしない。せめて体がこれ以上密着しないようにと、体育座りのように膝を引き寄せバリケードを作ってみたが、それだけでは何となく心もとない。


「洗濯なんてしなくても、服はそこに放っておけばそのうち乾くだろう。だが、その間俺は寒くてしょうがねぇ。だからお嬢さん、一緒に温まる運動してくれねぇか」


 麻奈の抵抗を笑いながら、ユエは右手で麻奈の膝をゆっくりと撫でた。


「む……無理、無理です!」


 撫でられた膝から何かが甘く身体に沁みこんで、ゆっくりと広がってゆく気がした。それを振り払うように麻奈は首を激しく横に振る。

 その拍子に麻奈の髪が一房、肩口から胸元へと流れ落ちた。ユエがそれを指で掬って払いのけると、肩からゆっくりと麻奈の鎖骨に指を這わせた。


「俺は気の遠くなるような長い間、ずっと我慢してきたことがあるんだ」


 物語でも聞かせるようなゆっくりとした口調。


「それもこれも、此処には野郎しかいないせいだ。だからもういい加減、限界なんだよ」


 ユエの指が麻奈の体の線をなぞる様に、ゆるゆると下がり始めた。


「っく」


 脇腹を掠める長い指に、麻奈は思わず声が漏れそうになる。ユエはそんな麻奈の反応を瞬きもせずに見つめた。次第に熱を孕んでくる呼吸を感じて、ユエも段々と熱いものが込み上げて来る。

 ユエは麻奈の太ももに手を這わせながら、彼女の両手の拘束を解いた。だらりと下がるその手に力は無い。ユエの思った通り、もう抵抗する気は無いようだ。

 堕ちたな。ユエはにんまりと笑って麻奈の顎を掴み、そのまま上を向かせる。


「ま、待って……」


 麻奈は最後の理性でユエに懇願したが、その蕩けるような瞳と、色づいて薄く開いた唇はユエには逆効果だった。この顔は悪くないと思い、ユエは満足気に唇を寄せる。


「これ以上待てねぇ。どんな不細工な奴でも良いから、女が来るのを待ってたんだ。ただで帰すわけにはいかねぇよ」


 ユエは麻奈の唇にゆっくりと近づいていく。二人の吐息が触れ合い、唇が重なる瞬間……


「ぐっ」


 突然、ドンという衝撃を腹に受け、ユエはみぞおちを押さえて体をくの字に折り曲げた。それは全くの不意打ちだった。

 油断していただけに、みぞおちに綺麗に入った衝撃で目を白黒させる。苦悶するユエを尻目に、麻奈はするりと寝台から降りた。


「誰でもいいなら、私じゃなくてもいいでしょうっ」


 麻奈は涙目で後ずさりした。


「テメェ、こんな時に腹を蹴るか?」


 美しい顔を歪めて歯を剥くユエに、麻奈は屈辱に震えながら言った。


「ユエこそ、一体なんのつもり。突然こんなことして」


 実は、麻奈はさっきまでこのまま流されてしまっても良いかと思い始めていた。彼が突然自分を好きになったとは到底考えられないが、ユエの美貌を見ていると、そんなことはどうでも良くなっていた。

 それなのに……いうに事欠いて不細工とは。


 麻奈は枕元に置かれていた火のついていないランプを掴むと、ユエ目掛けて思い切り引き倒した。


「不細工で悪かったわね!」


 麻奈はそのままユエを一瞥することも無く、ドアを乱暴に開けた。途中、何かを踏みつけて靴の下でカサリと音がしたが、麻奈はそれに気が付く事なく本だらけの部屋を後にした。


 さっき水を汲もうとした水飲み場まで行き、無造作にバケツを拾いあげて水を入れ始めた。

 麻奈は自分に腹が立っていた。どうして、流されてもいいなんて思ったのだろう。

 水がバケツの底に当たる音を聞きながら、水が一杯になるのを待つ。その眉間には深い皺が刻まれていた。


 麻奈は、今の出来事を全て忘れる事にした。何にも無かった。私は誰にも会わなかった!

 自分に暗示をかけながら蛇口を閉じて、足早にその場を離れた。幸い、麻奈の蹴りが余程効いたのかユエが後を追って来ることは無かった。


 麻奈はずっしりと重いバケツを抱え、足早に階段を上り始めた。

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