無理難題 2
麻奈はびくりと肩を震わせながら、辺りを注意深く窺った。後ろから物音が聞こえたような気がしたのだが、どうやら気のせいだったらしい。
ため息を呑み込んで耳を済ませながら、恐々進み出す。幸い廊下は何処までも静かで、自分の足音以外は何も聞こえない。
夕暮れの学校はただでさえ薄気味悪いのに、いつアノ人と鉢合わせするかと考えると、麻奈は今すぐにでも走り出したい衝動に駆られる。しかし、ここはぐっと我慢しなければいけない。アノ人に見つからないようにするのが最上の策なのだ。目立つ行動を取って見つかるわけにはいかない。
サルーンの部屋は三階だったが、早いうちに水を用意しなければ安心できない。麻奈は二階へ続く階段を静かに素早く上ると、近くの教室のドアを開けた。きっとここにも目当てのバケツがあるはずだ。ガラリと音を立て、懐かしい光景に一瞬目を細めた。
夕日を受けた紅い教室に立つと、放課後に忘れ物を取りに来たような錯覚を起こさせる。そういえば、何か忘れている事があるような気がした。
どこかでパシャパシャと、水の中で何かが跳ねる音が聞こえた。
「そうだ、水を汲まなくちゃ」
麻奈は一瞬の白昼夢から我に返ると、バケツバケツ、といいながら掃除用具入れを開けた。
アルミ製のバケツを片手に下げて廊下へ出ると、何となく今から掃除を始めるような気分になってくる。
窓から差し込む紅い光に照らされた廊下は、ひび割れたタイルを寂しげに浮かび上がらせる。人気の無い学校は、なぜか寂しさを増幅させるようだ。
水飲み場がある所まで行くと、廊下の材質が変わったことに麻奈は気が付いた。
色の剥げたタイルではない。ワックスがかけられたような光沢のある滑らかな木製の廊下だ。その上には幾何学模様の毛足の長い絨毯が敷かれている。窓も木枠の飾り窓に変わっていて、壁には繊細な細工が施された鏡が取り付けられていた。
そこは学校というよりも、古風なお屋敷という雰囲気に近いように思える。それでも、学校のように備え付けられた水飲み場と、男女別のトイレがある辺り、ごちゃ混ぜな気がして笑ってしまう。
麻奈はあの人を警戒して、びくびく怯えながら蛇口を捻った。蛇口から出てくる水は意外にも透明な色をしていた。錆びてなくてよかったと安堵して、バケツに水が溜まるのを待つ。
バケツに半分ほど水が入った所で、不意に何かが肩に触れた。ただでさえ縮みあがっていた麻奈の心臓はドクンと心臓が跳ねる。
「きゃぁっ」
麻奈は背後に向けて、持っていたバケツの水を思い切りぶちまけた。
「うっ」
呻き声が聞こえて、麻奈は恐る恐る振り返る。
「てめぇ、何しやがる」
そこには怒りを露にしたユエが、水を滴らせながら立っていた。冷えた怒りの表情は無表情にすら見えるが、それが一層この男の美しさを際立たせている。
ユエはずぶ濡れの髪を掻き揚げた。その手元が小刻みに震えているのを見ると、相当頭にきていることが伺える。しかし、麻奈は彼を怒らせた事などすっかり忘れて、ユエにたっぷりと見とれていた。文字通り水を滴らせた美丈夫は、麻奈には刺激が強すぎた。
ユエの銀の髪は滑らかな頬に張り付いて、長い睫には雫が光っている。水を吸った衣服がユエの肌に張り付き、広い肩幅や筋肉の隆起を浮き彫りにしていた。
頬を染めて自分を見上げる麻奈を見て、ユエは至極満足気に口元を綻ばせた。不機嫌だった気持ちが、馴染み深い眼差しを感じて、ぞくぞくとした快感に変わった。
「ごめん、アノ人かと思って。つい手が滑っちゃた」
目を伏せながら、麻奈は歯切れ悪く謝罪する。そのもじもじとしていた麻奈の手をユエは強引に掴むと、彼は大股で歩きだした。
「え? ちょっと! 謝ったじゃない!」
抵抗する事も出来ずに、麻奈はずるずると引きずられてゆく。有無を言わせぬ強い力で、遂には近くにあった部屋へと連れ込まれてしまった。