遭遇 8
「お待たせ」
着替えを済ませた麻奈がおずおずとバスルームから顔を出した時には、頭の寝癖はきちんと直っていて、薄く化粧も施してあった。ユエに『期待はずれ』呼ばわりされたのはかなり悔しかったのだ。
「そんなに待っていませんよ」
ジュリアンは微笑みながら席を立った。
「さっきの人は」
麻奈は小動物のような警戒した目できょろきょろと辺りを探っていた。
「追い返しましたよ」
途端に麻奈は安堵とも落胆とも取れるため息を吐いた。
「そっか、良かった。あの人本当に失礼な人だった」
頭にきちゃう。と頬を膨らませる。
「私もあの男は嫌いです」
ジュリアンの同意に麻奈は笑った。
その笑顔を見ながらジュリアンは思う。ユエは本当に馬鹿な男だと。もっと丁寧に接していれば、恐らくすぐにでも麻奈を落とせていたのだろうに。
ユエの失敗にジュリアンが内心ほくそえんでいると、麻奈がすぐ側まで寄ってきた。
「私、随分寝てたの? 大分待たせちゃった?」
「いいえ、ご心配なく。私も自室でのんびりしていましたよ」
「それなら良かった」
「早速ですが、残りの住人を紹介しましょう。あぁ、さっきの男はユエと言って、美人ですがあの通りの男です。今後も、あまり関わらない方がいいでしょうねぇ」
「もう、近づきたくない」
渋い顔で頷く麻奈の顔がほんのり赤くなるのをジュリアンは見逃さなかった。それは怒りのためなのか、それとも……。
「では、最後の一人に会いに行きましょう」
了解。と返事をして、麻奈はジュリアンの後に付いて歩き出した。
「ねぇ、最後の一人はどんな人なの」
麻奈は初めに通った螺旋階段を下りながら、斜め下で揺れているジュリアンの後ろ頭に話しかける。
「そうですねぇ」
ジュリアンは振り返らずにどんどん階段を降りていく。その歩みに置いていかれないように、麻奈は早足で追いかけた。彼は色々な事に良く気が付く人なのだが、歩調だけはマイペースだった。
麻奈はジュリアンを追いかけながら、こっそりため息を吐いた。
「最後の一人は、そうですねぇ、少々驚くような外見ですね」
「――そう」
此処でびっくりしない外見の人がいただろうか。全員、漏れなく驚くような外見だなんて、まるでお化け屋敷だ。と麻奈は密かに思った。
一階の廊下を歩きながら、麻奈は忙しなく周辺を警戒していた。物陰や角には特に注意を払う。保健室や職員玄関、どれもこれも懐かしいものが目に飛び込んでくるが、懐かしさに浸る事は出来ない。何時アノ人があの濡れたモップを引きずるような音を立てて出てくるか分からないからだった。
今は懐かしさよりも、恐怖の方が断然大きい。
「着きましたよ」
そう言ってジュリアンが軽く扉をノックした部屋は、『木工室』の札が掛かっていた。色の剥げかけた木の扉には細かな傷がたくさんついている。そうそう、此処って確かにこんな感じだったなぁ。と麻奈はやはり懐かしい気持ちが湧き上がる。
「リーズガルド、入りますよ」
返事は無いが、ジュリアンは扉を開けて中に入って行った。麻奈も恐々、お邪魔します。と呟きながら続く。
まず驚いたのはその部屋の暗さだった。次に気がついたのは、カサカサと何かが擦れあう音。それは一つ一つは小さな音だが、幾つもの音が重なり合い、大音量となって押し寄せてきたのだ。おまけに、部屋には濃密な何かの空気が満ちていて、入るのを一瞬躊躇ってしまう。
それでも、勇気を持って麻奈が一歩踏み出すと、ブーツの下でカサリと何かが音を立てた。驚いて側の壁に手を付いたが、そこにもかさかさとした手触りのものがびっしりと付いている。
「何これ」
麻奈は素早く手を引っ込めた。ようやく目が慣れてきた頃、麻奈は誰かが窓際に立っている事に気が付いた。
自分と同じ位の身長のその人は、俯いているようで顔が良く見えない。突然現れたお客に気付いていないのか、じっと佇んだままぴくりとも動かなかった。
「リーズガルド、起きてください」
ジュリアンがそう言ってカーテンを開けた。シャッと音を立ててカーテンが引かれると、窓から入ってくる西日が部屋の中を紅く染めた。
麻奈は目の前の光景に声が出そうになるのを、口に手を当てて何とか抑えた。悲鳴は危険、悲鳴は危険。何度も自分に言い聞かせる。
そこは、見渡す限り緑の葉が生い茂っていた。壁や床、果ては天井に至るまで、びっしりと蔦が張り巡らされていて、脈打つように部屋中に蔦植物が広がっている。それ等は全て窓際に立つ人物から生えている物で、その人の腰から下は緑色の蔦の集合体に変わっていた。それは最早、人と呼べるのか不安になる姿だった。
良く見ると、床や壁の蔦達はもぞもぞと思い思いに動いていて、それぞれの葉が触れ合ってカサカサと耳障りな葉ずれの音を響かせている。
蔦やその葉っぱが勝手に動いているのを見ると、嫌悪感がせり上がってくる。しかし、麻奈は何とかそれを表に出さないように、無表情を装った。
一面緑色の蠢く部屋は、何かの体内に居るような錯覚を起こさせ、麻奈はまた血液がすぅっと下に降りていくような気がした。
どうやら、さっき踏んだ物は、床を覆いつくす蔦から生えている無数の葉の一枚だったようだ。それはアイビーの様な形をしていたが、唯一つ違うのは葉の中心部分に毒々しい赤色の斑点模様があるところだろう。
「リーズガルド、新しい住人を紹介しに来ました。君で最後ですよ。彼女は麻奈、少し前に着いたばかりです」
ジュリアンの紹介に麻奈は慌てて軽く会釈する。しかし、リーズガルドと呼ばれた男は目を閉じたまま動かない。聞こえていないのだろうか。麻奈は、男がまだ起きていないのかと心配になったが、リーズガルドの瞼がゆっくりと開いて、ジュリアンと麻奈を交互に見た。
最初はぼんやりと見つめているだけだったが、その視線が好奇心を含んで麻奈に張り付いた。じっと見つめられて、麻奈は若干居心地の悪さを感じたが、麻奈の視線もリーズガルドに吸い寄せられていく。
色素の薄い茶色の髪をハリネズミの様に立て、同じ色のくりくりとした大きな目が特徴的だ。口角の上がった口元と顔に浮いているそばかすが、彼を一層可愛らしく見せている。
恐らく中学生くらいの年齢だろう。男の子なのにとても可愛い容姿をした子だった。
この場所に年下の男の子がいる事に少なからず驚いたが、麻奈はリーズガルドを凝視していた視線を少しだけ下へ逸らした。
人間離れした、リーズガルドの奇妙な下半身を残念に思っていると、突然少年から声が掛かった。
「ねぇ、アンタ物覚えはいいほう?」
「え? まぁ人並みには」
蔦男からの突然の質問にきょとんとする。
「じゃあ、覚えといてよ。オレはリーズガルド。オレの名前を勝手に略したり、愛称なんかで呼ばないでよね。そういうのすごくムカつくから」
太陽のような笑顔でそう告げる少年だが、窓を背に立つその顔には拭い難い影が張り付いていた。
「それからさぁ、アンタさっきからオレの葉っぱ踏んでるんだよね。痛いんだからさ、早く退いてくんない」
「あ、ごめん」
可愛い顔で辛辣な言葉を放つこの少年は、相当いい性格をしているようだ。
麻奈は慌てて足を退けた。しかし、床中に葉が生い茂っているため、足の踏み場が殆ど無い。仕方なく、今退けた右足を床が見える僅かなスペースにねじ込むと、殆ど爪先立ちになって体を支えた。
「もしかして、コレ全部感覚があるの」
「あるから痛いって言ってるんだけど」
お前は馬鹿か、という視線に麻奈は少しイラっとした。奥歯を噛み締めて怒りを静めていると、リーズガルドが蔦の一本を持ち上げて、麻奈の後ろにある扉を器用に叩いた。
「じゃあ、用が済んだら早速出てってくれる?」
屈託のない顔で彼は出口を顎で示した。