遭遇 7
麻奈は熱い湯を頭から浴びながら、いつの間にか鼻歌を歌っている自分に気がついた。
汚れた服は洗濯機に放り込んでおいたから、じきにまた着られるようになるだろう。シャワーでぬるぬるした薄桃色の粘液を流して全身を綺麗に洗うと、さっきまでの恐怖が少し薄れていく気がする。
湯張りを終えた合図の音楽が浴室に響いた。麻奈は湯煙の立ち上る浴槽に、足先からゆっくりと浸かった。バスソープで泡立てたお湯に入ると、じわじわとと張がほどけていくようだ。
「あぁー、極楽極楽」
言ってから、それはこの瞬間だけの事だと気がついて、寂しさと少しの不安を覚えた。
此処は極楽とは程遠い場所だったことを思い出す。それでも、風呂に入るのは気持ちが良かった。疲れや嫌な気持ちがまるでお湯に溶け出していくようだ。
気持ちに余裕が出てくると、さっき会った人たちの事を思い返してみる気になった。
アノ人。彼のことを考えると、まだ体が少し震えてしまう。
彼に捕まり手繰り寄せられた瞬間、麻奈が感じていたのはただの恐怖だけだった。もう絶対会いたくないとさえ思う。
しかしそう思う一方で、彼の何かが気にかかっていた。『とんとん』に反応したり、子供みたいにそれを真似をしたり。
「本当はどんな人で、どんな事を考えているのかな」
麻奈は湯船の泡を掬い取って、ふぅと飛ばした。
次に浮かんできたのは、サルーンだった。麻奈の中での彼の印象は、静かで絡みづらい人だった。
彼の奇妙な外見には少し驚いたが、恐らく優しい人なんだと勝手に思っていた。サルーンの遠い眼差しを思い出して、麻奈はふうと一つため息をついた。
麻奈はのぼせる前に湯船から上がり、そのままシャワーの線を捻った。熱いお湯が出てきた、麻奈の肌から細かな泡が流れていった。
麻奈は排水溝に吸い込まれていく泡を見つめながら、ジュリアンのことを考えていた。彼の事を考えると、自然に笑みが零れてくるから不思議だ。
彼の物腰や穏やかな顔を見ると、心が少し落ち着くような気持ちになる。
麻奈は浴室を出ると、いつの間にか、にやけてしまっている顔をバスタオルに押し付けた。体に付いた水気をふき取ってから、さっき見つけたジャージに着替える。下着も洗濯中なので直接着ると、肌にごわごわした生地が触れた。少し着心地悪いが、この際仕方が無い。何だか心もとない胸元に手を当てながら、麻奈はすぐにベッドへ潜り込んだ。
「ジュリアンの姿が完全に消える前に、帰る道を見つけてあげたいなぁ」
そう言葉に出してから、ふとジュリアンの泣き顔を思い出して、一人頬を染める。自分はどうやらジュリアンに好意を寄せ始めているようだ。麻奈は胸に芽生えた淡い思いに少しだけ身を任せる。
こんな気持ちになるのは何年ぶりだろう。
ふわふわの羽根布団の感触を堪能していると、眠気はすぐに襲ってきた。神経が高ぶっていて眠れないかもしれないと心配していたが、自分で思うよりも麻奈の神経は図太く出来ているらしい。心地よい睡魔に身を任せて、麻奈は夢も見ずに深く眠った。
見慣れぬ美しい男に圧し掛かられるまでは……。
「おい」
麻奈は夢うつつに自分を呼ぶ声を聞いた。それは囁きにも似た微かな声だったが、低く涼やかに麻奈の耳に流れ込んできた。しかし、聞こえてはいるものの眠くて目を開ける気にもなれず、わざわざそれに答える気も全く湧いてこない。まだ覚醒は遠い。
「ん、まだ。もう少し」
鬱陶しそうに眉間に皺を寄せて寝返りを打つ。まだ眠たいのだ。
枕元に立つ男は、ギシリとベッドを軋ませながら片膝を乗り上げる。
「起きないのか?」
返事を待つ様子もなく男は完全にベッドに上がり、覗き込むようにして麻奈に覆い被さった。
男の長い髪がさらりと落ちて、麻奈の頬を撫でていった。麻奈はくすぐったそうに男の髪を払いのけ、薄く目を開けた。寝ぼけているため、多少焦点の合わない瞳で男を見据え、次の瞬間には驚いて目を覚ました。
そこには夢のように美しい男がじっと自分を見下ろしていた。銀色の長い髪を高い位置で一括りに縛り、切れ長のアイスブルーの瞳は憂いを含んだように冷たく鋭い。高い鼻に、艶のある薄い唇。一見すると女性的にも見えるのだが、太く凛とした眉毛と広い肩幅、たくましい均整の取れた体格は間違えようもなく男性のものだった。
まさかこんな風に起こされるとは夢にも思っていなかった麻奈は、事態が把握出来ずにただ目を丸くするばかりだった。何という心臓に悪い起こされ方だろう。
男は襟を立てた黒い前合わせの服を着ていて、香が焚き染めてあるのか、その胸元からは甘い香りが漂っていた。
「なんだ起きたのか」
どうでも良い事のように麻奈にそう告げると、男は何の遠慮も無く頬に触れてきた。すぐ間近で柔らかい衣擦れの音が聞こえてきて、麻奈の胸は寝起きにしては大分速い鼓動を刻み始めた。
呆けたように声も出せない麻奈を他所に、男は顔を近づけて更に見つめてくる。男の不躾な視線を浴びながら、麻奈はまず浮かんだ疑問とこの体勢解消することにした。
「あの、誰ですか? 退いてください」
男は凛々しい眉を寄せると、不機嫌な声で言った。
「普通」
「は?」
「もっと色気のある女の方が良かったが、この際選り好みしていられねぇか」
男は麻奈の布団を剥ぎ取ると、ジャージの胸元に手をかけようとする。
「ちょ、ちょっと! 何するのっ」
慌てて麻奈は男の手を払いのける。男はびっくりしたような顔をした後、舌打ちして麻奈の手を捕まえた。
「手間をかけさせるな」
声を荒げたわけでもないのに、男の言葉は麻奈の動きを止めさせた。
逆らってはいけないような気迫を男から感じ取って、麻奈は身を竦めた。捕らえられた手も、万力で締め上げられたように動かない。男がおとなしくなった麻奈の服を捲り上げようとしたそのとき、トントントンと扉をノックする音が響いた。
「うるせぇのが来やがったか」
舌打ちして男が手を止める。
助かった。と思った瞬間、男は麻奈の唇をぺろりと舐め上げて素早く身を起こした。不意打ちを受けた麻奈は、何が起きたのか理解出来ずにベッドに未だ転がっていた。
「油断しすぎだ。犯されかけてたって分ってんのか?」
男は初めて笑った。その美しい顔に似合わない露骨な物言いに、麻奈は羞恥と怒りが湧いてきた。
入りますよ。という遠慮がちな声がして、横開きの扉からジュリアンが顔を出した。いつまで経っても中から変事が無いので、様子を見ようと覗いたらしい。ジュリアンは銀髪の男を見てたちまち表情を固くした。
「ユエ。どうして此処に」
ユエと呼ばれた男は面倒くさそうに顎で麻奈を示す。
「新しい奴が女だったから見に来たんだよ。一部屋ずつ虱潰しに探して来てやったのに、とんだ期待はずれだ」
ユエの言葉に麻奈はむっとした。ユエは尚も続ける。
「顔も身体も並だな。悪くねぇけど、良くもねぇ。期待した分がっかりだ」
「ユエは言葉に気をつけるべきですね。麻奈、やって良いですよ」
ジュリアンは枕を振り上げている麻奈に大きく頷いた。ジュリアンのお許し(?)を得て、麻奈はユエの後頭部目掛けて思い切り枕を投げつけた。しかし、それが当たる直前、ユエは前を向いたまま首を傾けただけでそれをひょいとかわした。
「何しやがる」
美しい顔に怒りを孕ませユエが振り返った。
「それは、こっちの台詞」
ジュリアンが来たことによって、すこしだけ強気にでる麻奈。
「貴方こそ、自分が何したか分ってるの」
「あれぐらいで騒ぎ立てやがって」
ユエは舌打ちしながら麻奈に近づく。麻奈は剥ぎ取られた掛け布団を手繰り寄せ、胸まで引っ張りあげた。下着を着けていないことを、今思い出したのだ。ユエが再び枕元までやって来て、麻奈を冷めた目で見下ろした。麻奈も目だけを動かしてユエを睨む。
「騒がしい女は興醒めだな。俺はもっと淑やかな方が好みだ」
そう言うが否や、ユエは麻奈の顎を掴んで無理やり上を向かせた。
「何するのっ」
麻奈は伸びてきた手をすかさず払いのけた。ユエが舌打ちするが、麻奈は彼を睨んだまま動かない。ぴりぴりとした雰囲気のまま硬直する二人へ、柔らかい声が割って入った。
「麻奈、彼を相手にしては駄目ですよ。それよりも――」
ベッドの反対側からジュリアンの手が差し出され、麻奈の手をそっと優しく掴んだ。手を引いて麻奈をベッドから降りるように促し、彼はそのままバスルームまで案内していく。
「まずは着替えて来て下さい」
ジュリアンの丁寧なエスコートに、怒り心頭だった麻奈も頬を染めて大人しく従った。ごゆっくり。と声をかけてバスルームの扉を閉めてからジュリアンが部屋へと戻って行くと――
「甲斐甲斐しいことだな」
ユエが長い足を組んでソファーに腰を下ろしていた。
「まだいたんですか」
ジュリアンの声はいつになく冷たい。その視線は心底嫌そうにユエを見ていた。凍えそうな視線をものともせずに、ユエは尊大な態度を崩さない。
「随分大切にしてるじゃねぇか」
「まだ来たばかりで、色々不安でしょうからね」
「嘘吐け。利用できそうならとことん利用する気だろう。可哀想にあのお譲ちゃん、ぼろぼろになるまで酷使されるとも知らないで」
「人聞きの悪い事を言わないで下さい」
ユエは鼻で笑った。
「お前だけに甘い汁を吸わせるわけにはいかねぇよ」
「おや? さっき好みじゃないと言ったじゃありませんか」
「此処には女がいねぇんだから、アレで我慢するしか無いだろう」
ユエは立ち上がると、ジュリアンの胸の上にドンと拳を打ち下ろした。ジュリアンは僅かに表情を強張らせて、咳き込んだ。かなり痛い。
「独り占めしやがったら許さないからな」
ユエの剣呑な視線を、ジュリアンは唇の端を持ち上げて受け止める。
「見返りがなければ分けてあげませんよ」
ユエは美しい顔を歪めて忌々しげに舌打ちする。
「お前のものじゃねぇだろう」
ユエは足音も荒くドアを力任せに開け、同じように閉めて出て行った。ジュリアンは楽しそうに笑いながらソファーに身を沈め、ゆったりと足を組んで目を瞑った。
「もうほとんど、俺のものだよ」