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脱出 3

 螺旋階段の踊り場には、ビシャードとサルーンがもう集まっていた。そこには額に汗を浮かべたリーズの姿もあった。彼女はなぜか苦しそうだ。


「無事だったか。もう用意が整っているそうだ」


 サルーンがすっと身を引いて大鏡を示した。そちらに目をやると、不思議な色の光を放つ鏡が見えた。来たときも、ちょうどこんな風に光っていたと麻奈は思った。


「おかえり。こんなことになってごめんなさい。どうか、ガルドを許してやって」


 リーズは本当に苦しそうだ。胸の辺りを抑えている手が、白くなっている。そんなに力を入れなければならないほど、何かを耐えているのだろうかと麻奈は首を捻った。


「ねぇリーズちゃん、ガルドをあのままにしておいて本当にいいの?」


「いいのよ、麻奈。私とガルドはずっと此処で生きていく。私も腹を括ったわ。誰に理解されなくても、それも案外幸せかもしれないしね」


 小さく笑ったリーズは、見た目には似つかわしくないほど老齢な笑みを浮かべていた。


「さぁ、早く鏡に入って。皆自分の帰る方向が分かるはずだから、迷うことはないわ。さっきバクが目を覚ましたから、もう口を開けているのも相当辛いの」


「ありがとう。世話になった」


 まずサルーンが頷いて、一息に鏡の中へと入って行った。それに続いてビシャード、ユエ、ジュリアンと次々に鏡の中へと消えていく。


「リーズちゃん、本当にありがとう」


「いいの。麻奈が此処に来なかったら、私はずっと彼らと関わる気はなかったかもしれない。やっぱり、麻奈は彼らの救世主だったのかもね」


 リーズは笑って麻奈の背を押した。麻奈はリーズに手を振って、鏡の中へと身を投じた。リーズの姿がぼやけて視界が暗くなる。泣かない。彼女に泣き顔を見せたら、それこそずっと後世まで馬鹿にされそうだと思った。


 暗い空間に、四つの人影が見える。目が慣れるまで少しの間かかったが、皆が自分を待っていたのを麻奈は感じた。


「ミナカミ、随分血だらけになったな。大丈夫か?」


 ビシャードが麻奈の肩に滲む血を見て眉をしかめた。心配そうに手をのばし、麻奈の肩に触れる手を迷わせてから結局それを引っ込めた。


「大丈夫ですよ。陛下こそ無事でしたか?」


 見た目が不健康そうな彼は、走っただけで倒れてしまいそうだ。しかし、実際のビシャードはそこまでひ弱ではないらしく、薄い胸を張って頷いた。


「勿論無事だ。余にかかれば、三階の鏡を割るなどあっという間だったぞ」


 それまでじっと黙っていたユエが、シッと低い声で皆を黙らせた。獲物を探る猟犬のように鋭い目つきで、ユエは宇宙空間にも似たこの場所をじっと睨み付けている。


「分かるか? 何かが呼んでる。それぞれが帰る場所がどっちなのか、あのチビは分かると言った。俺が行くべき場所は、あっちだ」


 ユエは引き寄せられるように指差した方へ一歩踏み出した。麻奈にもユエが言いたいことが理解出来た。自分がいるべき場所はここじゃない。その方向へ行けば元の世界に戻れるということが、肌で感じられるのだ。


 きっと、元に戻るような力が働いているのかもしれない。麻奈はなぜかそう確信していた。此処に留まっていることの方が異常なことなのだ。麻奈も気を抜くと、引き寄せられそうになる体を何とか踏ん張った。


 いざ離れるとなると、やっぱり名残惜しい。


 皆も麻奈と同じように思っているようで、誰もが行くべき場所に目をやりながらも動かない。その沈黙を破ったのは、サルーンだった。


「此処で起きた出来事は、悪い夢だったのかと思うほど訳が分からなくて、強烈だった。――本当は今でも十分混乱しているんだ――」


 サルーンは麻奈の前まで来ると、その頭に柔らかく手をおいた。


「だが、君のお蔭で立ち直ることが出来たと思う。ありがとう麻奈。俺も勇気を出して幸せになるために努力してみるから、君もどうか幸せになって欲しい」


 サルーンの暖かな手の感触と、彼独特の熱を感じて麻奈は頷いた。もう堪えていられなくなった涙が頬を流れた。


「ありがとうございます。サルーンさんもお元気で」


 サルーンは皆に右手を上げてから、ゆっくりと背を向けて歩きだした。それは、サルーンの戻るべき道だ。


「本当にもう、別れる時が来たのだな」


 ビシャードが思いつめたような顏で麻奈の手を握った。そして、麻奈と目線を合わせるようにして跪いた。


「いっそ連れて行きたいと何度も考えた。実際、そうしようと思っていた。だが、この場に立ってみてそれは不可能だと分かったよ。世界は、歪みを嫌う。きっと異物は受け入れられないのだろう」


「陛下……」


「約束、ずっと覚えている。いつまでも余はミナカミを忘れない。……お前がいなくても、幸せに、なってみせる……」


 ビシャードは何度も言葉を詰まらせながらそう言った。麻奈の手に口づけて、そっと手を離した。何度も振り返りながら自分の道を歩くビシャードに、麻奈も泣きながら手を振った。


「忘れません。私も陛下をずっと覚えています!」


 涙で前が見えなくなる。ずっと見ていたいのに、ビシャードの姿はやがて見えなくなっていった。


「俺の事も、ずっと覚えていて欲しいもんだなぁ」


 ユエは唇を意地悪そうに釣り上げながら笑っていた。だが、その目はいつになく優しい。


「結局、最後まで許可が出なかったなぁ。なあ、今から許可出す気はねぇか?」


「ないよ。それだけ旺盛ならそっち方面は本当に心配なさそう。その調子なら、いつか絶対に可愛いお嫁さん捕獲出来るんじゃない?」


 ため息半分、笑い半分でそう言うとユエはなぜか舌打ちした。


「本当に固い女だ。――尻、破れて血が出てるぞ。帰ったら跡なんて残らないように、良く手当しろよ」


 麻奈の尻を大きな手で撫で回してから、ユエはくるりと背を向けた。彼は足早に歩き、瞬く間にその姿は見えなくなる。麻奈はユエに怒ることも出来ず、ただ目を丸くしてその背を見送ることしか出来なかった。


 本当は分かっている。あれは彼なりの照れ隠しなのだろう。最後は、湿っぽくならないように。今になってそれが分かり、麻奈は小さく鼻を啜った。


「麻奈、あんまり泣くと目が腫れてしまうよ」


 ジュリアンがジャケットの袖で麻奈の涙を拭った。ジュリアンは麻奈の頬を両手で掴み、そっと上向かせた。泣き顔は酷く不細工になっているだろうと思い、ちょっと麻奈は眉を寄せた。


「泣かないで。此処に来てから君はずっと泣いている。私のせいでもあるのに、今更何を言っているんだと思うだろうが……そうしないと私の理性が外れてしまうよ?」


「何? 何言ってるの?」


「ずっと思ってたんだ。麻奈は泣き顔が綺麗だよ。本当は、離れたくない。私も麻奈が好きだ」


 ジュリアンの顔がゆっくりと近づいた。何か言おうと思った麻奈の口内に、ジュリアンの舌が滑り込んだ。以前ジュリアンの部屋でしたのとは違う、感情の籠ったキスだった。


「お別れなんだね」


「あぁ。でも、忘れない。私の人生を変えたのは、間違いなく麻奈だよ」


「嬉しい……私も、忘れないよ」


 どちらともなく離れ、ふたりはそれぞれの家路をたどり始めた。麻奈が振り返ると、ジュリアンもこちらを振り返る。なかなか前に進まない。しかし、四度目に振り返った時にはジュリアンの姿はもう見えなくなっていた。麻奈は泣きながら歩きだした。家までの道は、とてつもなく長い道のりに思えた。


「帰って来た……」


 ブーツを履いたまま、麻奈は自分の部屋に立っていた。鏡を抜けると、懐かしい自分の狭い部屋に辿り着いていたのだ。テレビもつけっぱなし、夕食に用意した冷凍食品だらけの夕飯もそのままだった。


 麻奈は夢でも見ているような気分でリビングの食卓に近づいた。湯気が出ている。本当に全部夢だったのだろうか?


 麻奈は自分の姿を鏡に映した。シャツのボタンは一番上が無くなり、肩の辺りは血で紅く汚れている。ショートパンツはガラスで破けて、尻にもばっちり傷が付いている。何より、サルーンに頭を撫でられた温もりが、ビシャードの唇の感触が、ユエに尻を撫でられた時の鳥肌が、ジュリアンとの口づけの熱がまだ残っている。


 麻奈は家を飛び出した。自分でもどこに向かっているのかは分からないが、行かなければならない。麻奈は自分が酷い恰好をしていることも忘れて、ひたすら走った。


 肩で息をしながら、麻奈は人気のない廃校に来ていた。辺りはもう真っ暗だ。門を無理やり開けて、校庭を抜けて玄関まで走る。


「違う。やっぱり、違うんだ」


 玄関は閉まっていた。麻奈がどんなに力を込めても、それはびくともしない。麻奈は声もなく笑っていた。いや、口元は笑っていても、涙を流していた。もう泣けばいいのか笑えばいいのか、分からなかった。


 あの場所から出られたのは嬉しいが、皆に二度と会えない現実を突き付けられたようだ。もう、ぐちゃぐちゃな気分だった。


 麻奈はポケットの中から携帯電話を取り出した。そこに映っている、夕焼けの空にぽっかりと浮かぶ月。それはよく見ると、紛れもなく小さな瞳孔が写っている。


「やっぱりバクの目だった。リーズとガルドはどうなったんだろう……」


 双子の事を考えると、胸が痛い。


 麻奈は携帯電話を操作して電話帳を開いた。この数年開いたことのないページを開き、躊躇いながら電話をかける。


「あ、もしもし――お母さん? うん、元気でやってる。うん。今度の休みの日にね、そっちに顔見せに行くよ。――何にもないよ。そう。じゃあ、またね」


 麻奈は息を吐き出して歩き出した。もう、逃げるのは止めた。実家に戻ったら、今度は先輩の墓参りをしよう。とても遅くなってしまったが、全てはそれから始めなければならないような気がした。


 麻奈は月の見えない夜空を見上げながら、遠い世界の友人たちを想った。


「私、頑張るね!」


 その声は、きっと彼らに届くような気がしていた。

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