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ミステリー・マーチ

作者: Ono
掲載日:2026/03/25

 一九三四年。ロンドンという街は煙と石畳と噂話でできていた。朝は新聞売りが不幸を叫び、昼はタクシーが泥を跳ねあげ、夜になると社交界の貴婦人たちがその泥より少し上等な悪意を靴の先につけて歩き回る。

 私はその街で刑事をしている。スコットランド・ヤードの警部補、ジョージ・ウィリアムズ。殺人と窃盗と、それに上司の機嫌取りが私の主な職務である。


 私には職務上きわめて有害で、情の上ではきわめて放っておけないひとりの友人がいた。私立探偵アルバート・マーチ。彼は三時間しか記憶がもたなかった。

 正確に言えば、三時間を過ぎると頭の中の整理棚を乱暴な司書にひっくり返されたように、直近の記憶がごっそり失われるのだ。本人はこれを「脳が定時で閉店する」と表現していた。私はもっと医学的な言い方を勧めたが、彼は「そのほうが安く聞こえていい」と言って笑った。

 アルバートは探偵としては致命的な欠陥を抱えているはずなのに、なぜか妙に手際よく事件を解決する。しかも大抵、散歩のついでに。

 その日もそうだった。


 朝九時、私はチェルシーで起きた宝石商殺しの捜査に駆り出されていた。

 被害者はエドマンド・クレイン。自宅兼店舗の二階書斎で書類棚にもたれかかるように死んでいた。凶器は細身のレターオープナー。金庫は開いており、店の看板商品である《王妃の吐息》が消えていた。エジプトからきた何やらピンクの宝石を散りばめた御大層なティアラだ。

 店は内側から施錠され、使用人は全員一階にいた。隣家の婦人は「争う声など聞いていない」と言う。要するに、新聞が喜ぶ種類の密室殺人である。

 現場にいたのはクレインの未亡人となってしまった、美しいが冷えた顔のエヴリン夫人。金に困っていそうな甥のフレデリック。妙に神経質な番頭のロス。さらには前夜にクレインと激しく口論したという舞台俳優パーシー・スミスまで揃って、容疑者はオペラほど選り取り見取りの顔ぶれだ。


 私が眉間のしわを増やしていると背後からのんきな声がした。

「ジョージ、君はどうして死体のある家にばかりいるんだい。散歩のコースを変えたまえ」

 振り向くとアルバートが立っていた。ツイードのコートのポケットには黒と焦げ茶の手帳二冊が覗いている。少し曲がったボーラーハット、ステッキ。

 焦げ茶の手帳に何が書いてあるのかを私はよく知っていた。一ページ目には大きく《私は探偵、アルバート・マーチ》とあり、二ページ目には《スコットランドヤードの友人、ジョージ・ウィリアムズ》、三ページ目には《昼食を忘れるな、食事は一日三度》と。実に彼らしい。


「アルバート、私がここにいるのは趣味ではありませんよ。仕事です」

「それは気の毒に」

「あなたこそ、なぜこんなところに?」

「僕かい。散歩だよ」

 彼はそれで説明が済んだ顔をした。私は済まない顔をした。死体のある家にばかり訪れ、散歩のコースを変えるべきは君だろう、アルバート。


 ともかく、現場から無理に追い出すより目の届くところに置いたほうが安全だ。というより簡単だ。私は彼に「勝手な行動は慎むように」と念を押し、一階の応接間へ押し込んだ。

 十分後、彼は庭にいた。二十分後、台所にいた。三十分後、なぜか近所のパン屋でティンブレッドを買って戻ってきた。

「勝手な行動をしないでくださいよ、アルバート」

「僕は好きな時に好きなところへ行くのだよ」

 その頃には、私は彼を叱るよりも大事な聴取した内容の整理に手間取っていた。

 番頭ロスは「金庫の番号は旦那様しか知らない」と言い、未亡人は「夫は誰にも恨まれていません」と言い、甥は「昨夜はクラブにいた」と言う。全員が嘘をついているように見え、しかもどの嘘も決め手に欠ける。私の頭痛は育ち盛りだ。


 十時、アルバートは応接間の絨毯にしゃがみ込んで何かを眺めていた。

「今度は何です」

「パンくずだ」

「それがどうしました」

「パンくずがあれば鳩が喜ぶだろうね」

 本気で彼を帰らせようかと思った。ところが彼は次に暖炉の上の時計を観察し、カーテンの裾をつまみ、窓の外の花壇へ出ていって、そこで突然躓いて転んだ。

 ばしゃりと泥が跳ねる。この探偵が優雅に安楽椅子に腰かけて推理するシーンを私は一度も見たことがない。


「大丈夫ですか、アルバート」

「こんなところにレンガが置いてある。庭の手入れが行き届いていないな、まったく」

 彼は泥だらけの手で花壇から小さな金属片をつまみ上げた。銀色に光る、細い歯車のようなものだった。

「時計の部品?」

「たぶん。あるいは世界最小の車輪付きビスケット」

 彼はそれをハンカチで包み、立ち上がると急に真顔になった。

 この顔だ。脳のどこかで歯車が奇跡的に噛み合った時の顔である。ホームズならバイオリンの音色でも響きそうな場面だが、アルバートの鼻先には泥がついていた。


「ジョージ、金庫を見せてくれ」

「なぜです」

「あれは開けられたんじゃない。閉められたんだ」

 また煙に巻くようなことを言う。仕方なく私は彼を二階へ連れて行った。彼は曲がりなりにも探偵なのだ。

 金庫は古いダイヤル式。アルバートは膝をつき、顔を近づけてしばらく黙ったあと、盛大にくしゃみをした。

「埃っぽい」

「そのようですな」

「昨夜のうちに無理やり開けた形跡はない。むしろ誰かが慣れた手つきで使っている。いつものように」

 彼は立ち上がり、窓辺へ行った。書斎の窓からは狭い裏庭が見える。花壇、物置、壁。その壁の向こうが路地だ。


「番頭はどこだい?」

「一階にいますよ」

「甥は?」

「応接間」

「夫人は?」

「今じゃ俳優より上手に泣いてますよ」

 そしてアルバートは私の肩を叩いた。

「犯人は番頭だよ。逮捕したまえ」

「それはいいですがね、アルバート、説明してください」

「もちろん。忘れる前にね」

 それから彼が口にした推理は、実にアルバートらしく、半分は鋭く、半分は訳が分からなかった。


 まず応接間の絨毯に落ちていたパンくず。クレイン家では朝食にパンを出していないそうだ。しかし番頭ロスの袖には焼き色のついた粉が付着していた。彼は今朝、近所のパン屋に寄っているのだ。なぜか。路地で誰かと落ち合ったからだ。

 次に暖炉時計。事件発見時、時計は十一時十分を指して止まっていたが、ゼンマイは切れていなかった。誰かが意図的に止めたのだ。被害者の死亡推定時刻を遅く見せるために。よくある手法だ。

 さらに花壇から出た歯車。あれは書斎机の小型時計の裏蓋を留める部品だった。ロスは帳簿を改ざんし、以前から店の金を横領していたようだ。昨夜、クレインに見つかって口論になり、咄嗟にレターオープナーで刺した。その時刻は十時過ぎ。だが十一時にはロスが店にいた証人がいる。そこで彼は書斎の時計を細工し、十一時過ぎの犯行に見せかけた。


「密室は?」

 私が尋ねると彼はにこりと微笑む。

「密室というのは、大抵は家人が作るものだよ。外の名探偵ではなく、中のせっかちな小悪党が」

 そう言い、アルバートは窓の掛け金を指した。

「花壇のレンガの下から紐を通せば、外から細い針金でこれを落とせる」

 すぐに私は部下に命じて花壇を掘らせた。果たして、先ほどアルバートが転んだ泥の中から細い針金が出た。


 十一時。

 ロスに突きつけると彼は最初こそ青ざめただけだったが、三十分後に《王妃の吐息》がパン屋の荷車の底から見つかると、とうとう膝を折った。路地で盗品の受け渡しをしようとしていたのである。

 私は感心した。いや、正直に言えば呆れもした。アルバートは事件の核心に躓いて転んで鼻に泥をつけながら到達したのだ。ポアロなら口ひげを撫でて喝采を浴びるだろう。ホームズなら窓辺に長身を映して沈黙するだろう。

 私の友人はというと、「察するにもうすぐお昼じゃないか?」と腹を鳴らした。

 ほどなくしてすべてが終わった。甥は借金の告白をし、未亡人は哀れにも失神、舞台俳優は私の手柄だと思って葉巻をくれた。ありがたくない誤解だが、訂正しても面倒なので黙っていた。


 正午、私はアルバートを連れてテムズ河沿いを歩いていた。工場の煙は相変わらず濃いが、春先の風に吹かれて空は珍しく正直な青を覗かせる。彼は満足そうに杖を振っていた。

「散歩日和だね」

「ああ、まったくですな」

「人も死なず、世は平和」

 私は足を止めた。三時間経っていた。彼の記憶の店じまいの時刻である。


「アルバート」

「なんだい」

「手帳を読みなさい。黒いほうだ」

 彼は素直に胸ポケットから手帳を出した。そこには泥の指紋と走り書きがあった。番頭ロス。時計。針金。パン屋。花壇。ジョージが不機嫌。

「なるほど。事情は分からないが、君が不機嫌なことは分かった」

「あなたが解決したんですよ、殺人事件を。それは見事に」

「結構なことじゃないか」

 彼は少し考えてから、実に晴れやかに言った。

「では、祝いに散歩でもしよう」


 私は笑った。笑うしかなかったとも言う。

 ロンドンには偉大な探偵が何人かいる。鹿撃ち帽の天才、灰色の脳細胞の紳士、そういう手合いは皆、事件の終幕に相応しい台詞を決めるのだろう。

 だが私の友人ときたら、推理の途中でパンを買い、犯人の仕掛けに躓いて転び、解決した頃には何もかも忘れてしまう。それでも私は、彼と歩くのをやめられない。


 アルバートは川向こうの時計塔を見上げた。

「ジョージ、今日は何か面白いことが起きそうな気がする」

「もう起きましたよ、そして終わりました」

「そうかい。なら私は見逃してしまったな」

 彼はそう言って、初めて世界を見る子供のような顔でまた歩き出した。私は肩を竦めてあとを追う。どうせ次の角を曲がれば、また何かに首を突っ込み、誰かの嘘をひっくり返し、本人だけがそれを忘れるのだろう。


 その時、アルバートがこちらを振り返って言った。

「ところで君は誰だったかな」

「茶色いほうの手帳」

「ああ、ジョージ。よかった。信用できそうな顔をしている」

「光栄ですよ」

「それで、僕はアルバート・マーチだ」

 彼はいつかの自分が書いた文字をなぞって微笑んだ。


「なるほど。私立探偵か。悪くない」

「まったく、()()()()

「では行こう、ジョージ。散歩がてら、何か事件でも解決してみせようじゃないか。探偵らしくね」

 ホームズやポアロのようにスマートにはいかない。この街の霧の中で、途方もなく間抜けなやり方で真実にぶつかり、それでもちゃんと真実を見つけるのだ。一人くらいはそういう探偵がいてもいい。

 尤も、一人で充分ではあるが。

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