第8話 関係者以外立入禁止
「走らないでください。」
朝のギルドで受付嬢のその声を聞くと、レンは少しだけ背筋を伸ばす。
怒られているのはたいてい自分ではないのに、なぜかそうなる。
依頼板の前を横切り、二階へ上がる。マスターの部屋の扉を叩く前に、向こうから声が飛んだ。
「入れ」
最近はもう、こちらの足音で判別しているらしい。
便利なのか、落ち着かないのか、たぶん両方だ。
部屋へ入ると、机の上には昨夜の封蝋片と金属片、それから倉庫区画の簡単な見取り図が広げられていた。赤鉛筆で裏口らしい位置と搬入口がいくつか囲まれている。
「顔が一枚足りない、でしたか」
「言ったな」
「言われました」
レンが椅子の背に手をかけると、マスターは図の一点を指で叩いた。
「今夜、上を見る。下じゃない」
「倉庫側ですか」
「税務倉区に近い仮置き棟だ。正面から入るのは面倒だが、荷受けの出入りは雑だ。人の顔まできっちり覚えてる奴は少ない」
「少ない、で通すのが今回の方針ですね」
「完璧をやる気はない。お前もだろう」
それはそうだ、とレンは思う。
「外見だけ、だったな」
「はい」
「声は?」
「似せるしかないです」
「それで通るか?」
「通らせます」
マスターが少しだけ目を細めた。
「……優等生は便利だな」
「都合のいい時だけそう呼ばれます」
「いまは都合がいい」
机の端に、くしゃくしゃになった布切れがあった。
昨夜、結束紐と一緒に持ち帰ったものだ。麻袋に引っかかっていた作業着の切れ端。汗と油と埃の匂いが染みついている。
「顔はこれで足りる」
「上等な素材じゃないですね」
「上等な相手でもない」
「夢がない」
「現場に夢を持つな」
マスターは見取り図をレンのほうへ寄せた。
「入るのは裏の搬入口だ。荷受け係の下働きなら、黙って箱を運んでるだけでも成立する。喋るなとは言わんが、喋らずに済む場面を選べ」
「それは得意です」
「知ってる。あとは帳場を見ろ。表の帳面と、裏の流れがどこで繋がってるか。印でも名前でも役職でもいい。ひとつでいいから持って帰れ」
「持って帰れそうなものなら」
「無理はするな。証拠より先に、お前が戻れ」
「優等生向きの指示ですね」
「たまにはな」
レンは布切れを受け取った。
手袋越しでも、わずかに湿り気が残っているのが分かる。
「ひとつ確認です」
「何だ」
「見つかった場合、優等生はどうすれば」
マスターは即答した。
「知らない顔で帰ってこい」
「雑ですね」
「お前向きだろう」
◇
夕方、煉瓦街はまだ完全には暗くならない。
工場の煙が空をくすませ、ガス灯が一本ずつ灯り始めるころが、いちばん人の顔が曖昧になる。
倉庫区画の裏手は、表通りより静かだった。
静かといっても、荷車の軋み、木箱を下ろす音、どこかで鳴る汽笛の余韻が切れずに残っている。街そのものが大きな機械みたいなものだから、完全に黙ることがない。
路地の陰で、レンは壁にもたれて目を閉じた。
布切れを掌に収める。
汗と油と、安い石鹸の残り香。
若い男。痩せ気味。頬骨が少し出ていて、鼻筋は細い。髪は短く、整える気があまりない。
輪郭を拾う。
表面だけ、借りる。
深くはやらない。
深くやる必要はない。
目を開く。
路地の壁に残った窓ガラスの曇りへ顔を映すと、そこには少しくたびれた倉庫下働きの男がいた。
「……まあまあですね」
完璧ではない。
だが、誰も親友の顔を探しに来るわけではない。
肩の位置を少し落とす。歩幅も狭める。視線は上げすぎない。
人間のふりは歩幅で決まるが、借りた人間のふりは背中で決まる。
搬入口の横には札が掛かっていた。
『関係者以外立入禁止』
だいたい、入りたい場所ほどそう書いてある。
搬入口には、帳場の補助らしい男が一人と、荷受け係が二人。箱を運ぶ出入りで、いちいち顔を止めている余裕はなさそうだった。
「遅いぞ」
帳場の男が顔も上げずに言う。
レンは肩をすくめるだけで返した。
声を使うほどのやり取りではない。
「そっち、仮置き三番へ回せ。印のないのは奥に置くなよ」
荷受け係のひとりが木箱を顎で示す。
レンは無言で箱の片側を持った。
重い。
見た目のわりに中身が詰まっている。昨夜の地下の小箱ほどではないが、空箱の重さでは絶対にない。腕で持ち上げるというより、腰で受ける重さだ。
隣の男がぶつぶつ言う。
「今日、多いな」
「監査前だろ」
「関係あるのか」
「知らん。知らんで運んどけ」
実に健全な会話だった。
知らない下働きは、たいてい長生きする。
◇
倉庫の中は乾いていた。
煉瓦壁、木棚、鉄の梁。
床には石灰と埃が薄く残り、奥へ行くほど古紙と麻袋の匂いが混ざってくる。地下の湿地フロアとはまるで違う。触るもの全部が、こちらの水気を嫌っているみたいだった。
レンは箱を仮置き三番へ運び、周囲を見た。
表向きには、ごく普通の倉庫だ。
帳場、荷札台、秤、封蝋台、保管棚。どれもあって当然のものばかり並んでいる。
だが流れが少し変だった。
入口から入った箱の一部は、帳場で札を切られ、すぐに表の棚へ回る。
別の一部は、印だけ確認されて、帳面にきちんと書かれないまま奥へ消える。
その奥に、仮置き二番と三番がある。
札ではそうなっているが、実際には区画の使い方が逆だ。三番は名目だけで、中身は一時保管棚に近い。二番は棚の顔をしているが、実際には移送待ちの留め場になっている。
「そっち、手が空いてるなら帳場から控え持ってこい」
急に声をかけられて、レンは一拍だけ遅れた。
まずい。
名前を知らない。
だが相手はそれを気にしていない顔だった。忙しい時の現場は、返事より足が動けば許される。
レンは軽く顎を引いて帳場へ向かった。
帳場の机には帳簿が二冊あった。
一冊は堂々と開かれている。表の帳面だ。品目、数量、搬入時刻、確認印。監査が見たいのはこちらだろう。
もう一冊は、少し離れた端に伏せて置いてある。
革表紙は同じだが、こちらは開く気がない置き方だ。見せるためではなく、使うための帳面。
帳場の男は秤の針を見ながら、隣の男に低く言った。
「七番、先に回せ」
「帳面は?」
「あとで合う。下へ行く分を先に切るな」
レンは控え紙をまとめて持ち上げるふりをして、伏せた帳面の端へ視線を落とした。
短い記号。
倉庫番号。
そして、見覚えのある区画符号。
地下と繋がっている。
さらにその横に、小さく役職略号があった。
徴管補。
徴税管理補佐。たぶんそう読む。
名前までは見えない。だが役の匂いとしては充分だった。
「何してる」
声が近い。
レンは反射で控え紙を抱え直した。
帳場の補助らしい男が、すぐ横まで来ている。
「控えです」
できるだけ短く答える。
低めに、喉を使わず。
「なら早く持ってけ。突っ立ってると邪魔だ」
顔を上げる。
距離が近い。
男の目が、ほんの一瞬だけレンの顔に止まった。
知らない顔を見た時の止まり方だ。
次の瞬間、別の荷受け係が奥から怒鳴った。
「おい、封台の蝋、足りねえぞ!」
帳場の男は舌打ちして、そちらを向いた。
「なんで毎回切らす!」
救われた、とは思わない。
現場はだいたい、別の現場の雑さに助けられて回っている。
◇
控え紙を運びながら、レンは奥の区画を横目で追った。
棚のひとつは鍵がかかっていた。
頑丈な鉄錠。しかも錆びていない。人目につかない場所のくせに、そこだけ管理が行き届いている。
その前で、小柄な男と、上着の仕立てが少しましな男が話していた。
「今夜の分はこれで終わりだ」
「三日後にまた動く。監査の前に揃えろ」
「現物は足りる」
「帳面が先だ。現物で安心するな」
言葉の順序が、きれいに腐っていた。
まず帳面で、次に現物。
本来は逆だろうに。
レンは視線を落としたまま通り過ぎる。
あまり近くで見られたくない相手だ。上着のいい男は、現場慣れしていないくせに、現場で偉そうにする人間の顔をしていた。そういう手合いは、下働きの顔を雑に扱うわりに、違和感だけはよく覚えている。
棚の脇を抜ける瞬間、床に落ちた紙片が目に入った。
封緘控えの切れ端らしい。靴先ほどの大きさしかない。
拾うか。
通り過ぎるか。
一瞬だけ迷って、レンは荷台の車輪をわざと小さく煉瓦の継ぎ目に引っかけた。
「っ、すみません」
がた、と荷台が傾く。
周囲の視線が箱へ向いた隙に、レンはしゃがみ込み、紙片を袖の内へ滑らせた。
「何やってる」
「段差が」
「段差のせいにするな。手で覚えろ」
「はい」
素直に返す。
こういう時、下働きは素直なくらいでちょうどいい。
立ち上がるとき、手袋の内側が少しだけ気になった。
乾いた空気が長い。棚と棚のあいだには石灰が薄く散っている。早く出たほうがいい。
◇
もうひとつ、見ておくべき場所があった。
倉庫の奥、帳場のさらに裏。
階段のない小さな荷揚げ口だ。そこに金属の滑車と細い巻上げ器が据えてある。表向きは重い箱を一段上の保管棚へ移すための設備に見える。
だが違う。
巻上げ器の軸に、地下で見たものとよく似た泥がついている。
しかも滑車の下の床だけ、木箱ではなく小箱の角が当たる擦れ方をしていた。
上と下を繋いでいるのは、倉庫中央の派手な荷受け口ではない。
こういう、誰も気にしない裏の巻上げ設備だ。
見た瞬間、背後から声が落ちた。
「おい」
近い。
レンは振り向く。
さっきの帳場補助ではない。仕立てのましな上着の男だ。
「お前、どこの持ち場だ」
まずい質問だった。
答えを一つ間違えるだけで詰む。
レンは荷台の取っ手を持ったまま、少しだけ眉を寄せた。
「三番です」
「誰の下だ」
そこまで来るか、と内心で舌打ちする。
だが現場の人間が、現場の下働きの上役の名前を気にするかというと、半分は気にしない。気にするのは、命令が通るかどうかだ。
レンは荷台を少し持ち上げ、腕に重さを乗せた。
会話を早く終わらせたい人間の仕草を先に作る。
「帳場から控え持ってこいって言われました。遅れると怒鳴られます」
男の眉が動く。
命令の中身は、現場でよくある程度に雑だ。
「誰に」
「さっきの、帳場の人です」
完全な答えではない。だが忙しい現場では、完全な答えより、面倒を増やさない答えのほうが通る。
男は一瞬だけレンを見たまま、奥で上がった別の声に気を取られた。
「印台、こっちです!」
「……行け」
「はい」
行けと言われたので、行く。
そのまま歩幅を変えずに帳場の陰を抜け、次の角で曲がり、その次で搬入口へ向かった。
追ってくる足音はない。
ただし、違和感は残ったはずだ。
次は長くは持たない。
◇
路地へ出たところで、ようやく息を吐いた。
借りた顔を外すのは、建物の陰に入ってからにする。
雑に戻すと、あとが少し気持ち悪い。
壁へ肩を預け、手袋の指先を一度握る。
喉は乾いていないが、表面の落ち着かなさがあった。倉庫の空気は地下よりずっと扱いにくい。
袖の内から紙片を取り出す。
封緘控えの切れ端。
文字は半分だけだが読める。
徴管補。
その下に、もう一行。
保留区画七。
そして端に、中央監査の略記らしい印影の一部。
「大きくなってきましたね」
街の裏の不正、くらいでは済まない。
監査の前に何かを消し、何かを揃え、帳簿と現物を入れ替えている。
税務か、押収か、その境目すら曖昧にしながら。
◇
ギルドへ戻ると、夜の受付でもやはり受付嬢は受付嬢だった。
『走らないでください』
「走るほど元気に見えますか」
「念のためです」
「ありがたいですね」
「それはよかったです」
たぶん会話は成立していない。
だが落ち着くので問題なかった。
マスターの部屋へ入ると、灯りの下に空の封筒がひとつ置いてあった。誰かに何かを出したあとらしい。
「で」
まずそれを言うあたり、相変わらず椅子をすすめる気が薄い。
レンは紙片を机へ置いた。
続けて、倉庫の構造を簡単に図で示す。表の棚、仮置き区画、裏の巻上げ器、鍵付き棚の位置。
「当たりです。二重管理してます」
「表と裏か」
「はい。表の帳面は監査用。裏の流れは別です。地下へ回す分は、帳場で順番をずらしてました」
マスターは紙片を拾い上げる。
「徴管補、か」
「徴税管理補佐だと思います。名前までは見えませんでした」
「充分だ」
「あと、保留区画七。中央監査らしい印も少し」
マスターの目が細くなる。
「監査に出す前の一時留めだな。本来なら手をつけると面倒な場所だ」
「だから使ってるんでしょうね。正しい場所ほど疑われにくい」
「正しい形に見せたまま、間違ったことをする連中だからな」
昨夜と同じ言葉だったが、今日は重さが違った。
「黒幕まではまだ遠いです」
「遠いが、道は見えた」
マスターは机の上の図にもう一本線を引いた。
倉庫裏の巻上げ器から、地下の閉鎖点検路へ繋がる線だ。
「次はこの徴管補本人か、その周りだな」
「顔を借りる相手を選ぶ必要があります」
「そうだな」
そこでようやく、マスターは椅子を少し引いた。
「次は顔だけじゃ足りん。持ち場も口ぶりも借りることになる」
「優等生の仕事が、だいぶ演劇寄りになってきました」
「今さらだろう」
「出演料は出ますか」
「生きて帰れたら考える」
「安いですね」
「死体に払うよりは高い」
レンは肩をすくめた。
机の上で、徴管補の文字が灯りを受けて静かに浮いている。
名前はまだない。だが役職は見えた。役職が見えれば、人の動く範囲も見えてくる。
ギルドの優等生は、今日も真面目に報告を終えた。
ただし次に必要なのは、真面目さだけではなく、もう少し上手い嘘らしい。




