第7話 開けたままにしないでください
「走らないでください」
朝のギルドでそれを聞くと、もう挨拶みたいなものだな、とレンは思う。
実際に怒られているのはだいたい新人か荷運びか、たまに冒険者だが、受付嬢の声そのものは日に日に安定していた。
依頼板の前を抜け、二階へ上がる。
マスターの部屋の扉は、叩く前に「入れ」と言った。
「最近、扉越しに人を判別するのが上手くなってませんか」
「足音が雑だ」
「傷つきますね」
「傷つくなら直せ」
机の上には、昨日レンが持ち帰った結束紐と麻繊維、それから閉鎖点検路の簡単な見取り図が広げられていた。マスターは椅子に浅く座ったまま、図の上下を指で叩く。
「上で待つか、下で待つか」
「両方やれれば早いですね」
「分身しろ」
「優等生はそこまで高機能じゃありません(できなくはないけど)」
「残念だ。書類処理が倍になると思った」
「夢が俗ですね」
マスターは鼻で笑って、図の上側――倉庫側を指した。
「上は人目が多い。張るには人員が要る。しかも今は、誰を使っても余計な記録が残る」
「下は?」
「暗い、狭い、濡れる。お前向きだ」
「褒められてる気がしません」
「半分はそうだ」
半分しか褒めていないらしい。
「上は俺が細く押さえる。倉庫組合には補修確認の書類を流して、今夜の出入りを少し鈍らせる。露骨に止めはしない。止めると引っ込む」
「下で受ける側だけ見る、と」
「そうだ。荷の形、数、時間、できれば運んでる連中の癖まで拾ってこい」
「顔は?」
「見えたら拾え。無理はするな」
そこでマスターは、机の端に置いてあった小さな封蝋片を指先で転がした。
「ひとつだけ気になる」
「何がです」
「この紐。倉庫の荷を縛るには細い。だが、公印つきの小箱を束ねるにはちょうどいい」
レンは少し目を細めた。
「金属塊の類ですか」
「小さくて、重くて、数の合うものだ」
「税収品か、押収品」
「そのどちらか、あるいは両方だろうな」
マスターの声は淡々としていた。
淡々としているぶんだけ、話の質が悪い。
「盗み、というよりは」
「帳尻合わせですね」
「ああ。盗むより厄介だ」
「なぜです?」
「正しい形に見せたまま、間違ったことをする連中だからだ」
その言い方は、少し嫌いになれなかった。
「優等生としては、正しい形のほうに立つべきですか」
「演技の質問はするな。面倒だ」
「本音は?」
「証拠を拾ってこい」
分かりやすい本音だった。
◇
夜の旧排水層は、昼より静かで、そのくせ少しだけ忙しい。
上の工場が息を潜めるぶん、下の音がよく聞こえる。
細い配管の中を流れる水。蒸気の抜ける小さな音。古いバルブの軋み。どれも、街が眠っていない証拠だ。
レンは閉鎖点検路の奥、倉庫真下へ通じる点検蓋が見える位置に身を伏せていた。
場所は選んだ。
圧力計の陰。壁の支持架と太い配管のあいだ。人が通れば見えるが、見下ろしただけでは見落とす位置だ。
逃げ道もある。水が押し戻してきた場合は、右手の逃し弁の脇を抜ければ一段高い足場へ出られる。
待つ仕事は嫌いではない。
むしろ、待てない相手のほうが読める。
手袋の指先を軽く曲げる。
今日はまだ、内側を気にせずに済んでいた。
湿った空気が薄く流れている。
図面庫より、こういう場所のほうが考えごとには向いている。
上から、かすかな戸車の音がした。
続いて、木が擦れる鈍い響き。
来た。
レンは身体をさらに低くした。
蓋の上で、人の重みが一度止まる。二人分。いや、三人かもしれない。
ひとりは足が重い。もうひとりは動きが速い。下で受ける側は一人。
蓋がごく小さく開いた。
灯りは漏らしていない。慣れている。
最初に降りてきたのは縄。次に小箱。大きくはないが、受ける側が両手で慎重に扱っている。落とし方ひとつで腹を切られる類の荷だ。
続けて二箱、三箱。
音が鈍い。
木箱の中で中身が遊ばない。詰まっていて、重い。
「数は合ってる」
下の男が、低い声で言った。
上から返る。
「帳面は?」
「あっちは合わせる。そっちは印を残すな」
「残すほど雑じゃない」
短い。だが充分だ。
レンは息を止めたまま、そのやり取りを頭の奥へ押し込んだ。
帳面。印。数が合う。
盗品の受け渡しというより、管理物資の移し替えだ。
四箱目を下ろすとき、上の誰かが舌打ちした。
箱の角が蓋縁に当たり、小さく欠ける音がする。
「丁寧に扱え」
「重いんだよ」
「だからだ」
その言い方で、下の男の立場が少しだけ上だと分かる。
現場の指示役。少なくとも、この通路の使い方には慣れている。
五箱目。
そこで縄が少し滑った。
箱が半寸ほど落ち、角が下の鉄縁を打つ。
かつ、と乾いた音。次いで、ごく小さく、硬いものが床を跳ねた。
下の男が低く罵った。
「拾え」
「暗い」
「だったら落とすな」
レンは視線だけを動かす。
支持架の根元、泥の縁。そこに何かが転がって止まった。
上の連中は蓋を閉じるのを急いだ。
予定より長居したくないらしい。
「次は三日後だ」
最後に、上からその一言だけ落ちる。
蓋が閉まる。
鉄と木のこすれる音。押さえ込む重み。
下の男は箱を二つ抱え、残りを台車らしきものへ移した。車輪は小さい。通路用に細くしてある。
追うべきか。
レンは一瞬だけ考えて、やめた。
通路は狭い。
相手は慣れている。
こちらは一人。
今夜の収穫はもうある。
焦る理由はない。
箱を運ぶ音が遠ざかり、水音だけが戻ったところで、レンはようやく身を起こした。
◇
落ちていたものは、泥に半分埋まっていた。
拾い上げる。
爪の先ほどの欠片。重い。灯りを絞って近づけると、鈍く、だが明らかに金属の色が返る。
「……金ですか」
金貨ではない。
加工前の塊でもない。
角の立った小片。おそらく、延べ棒に近いものの端だ。
さらにその近くには、割れた封蝋のかけらもあった。
泥を払う。刻印は半分潰れていたが、外周の意匠だけで充分だった。
秤。
束ねた麦穂。
税務印に近い。
「ひどい話ですね」
誰も答えない。
地下はいつも、感想にだけは無関心だ。
レンは欠片と封蝋片をそれぞれ紙に包み、内ポケットへ入れた。
上へ出て誰かの顔を見る手もある。だが今の素材では模写の足がかりにもならないし、倉庫側には別の目があるかもしれない。
一瞬だけ考える。
もし、上の連中の誰かの髪でも布でも手に入れば、倉庫側に紛れる道は開く。
だが今夜はまだそこではない。
まずは、持ち帰る。
◇
ギルドへ戻ると、夜番の受付嬢もやはり受付嬢だった。
「レンさん、走らないでください」
「走ってません」
「念のためです」
「助かります」
何に助かっているのかは自分でもよく分からなかった。
マスターの部屋にはまだ灯りがあった。
ノックのあと、返事を待たずに入れと言われるのも、もう少しで慣れそうだった。
「どうだった」
椅子をすすめる前にそう聞くあたり、この人は最初から座らせる気があまりない。
レンは机の上に紙包みを二つ置いた。
ひとつは金属片。ひとつは封蝋片。
マスターが先に封蝋片を開く。
次に金属片。
目が細くなった。
「やはり金か」
「小箱で運んでました。数を合わせて、帳面は別で合わせるそうです」
「会話を拾ったのか」
「少しだけ。あと、下で受けてた男が指示役でした。上より慣れてる感じです」
「租税か押収か」
「どちらもありえます。ただ、この封蝋は税務印に近い」
マスターは封蝋片を灯りへ透かすように見た。
「押収品でも一時保管が税務倉区を経ることはある。完全には絞れんが、どちらにせよ公の流れに乗った金だな」
「窃盗団だけでは無理ですね」
「ああ。内部で印を触れる奴がいる」
机の上に、短い沈黙が落ちた。
それは驚きではなく、確認に近かった。
「三日後と言っていました」
「次の受け渡しか」
「たぶん」
マスターは椅子にもたれ、指先で机を軽く叩く。
「監査前に、帳尻を急いで合わせてるんだろうな」
「あるはずの金を消してるのか、ない金をあることにしてるのか」
「その両方かもしれん」
嫌な可能性だった。
レンは少しだけ首を傾げる。
「上で張るだけだと、証拠が足りませんね」
「足りん」
「下で張るだけでも、顔が遠い」
「足りん」
マスターはそこで、ほんの少しだけ口元を上げた。
「次は、顔が一枚足りないかもしれん」
レンは黙った。
その言い方なら、聞き返す必要はない。
模写はできる。
ただし外観だけ。短時間。崩れやすい。完璧ではない。
それでも、顔が一枚あるだけで開く扉はある。
「優等生の仕事が増えますね」
「演技の幅が広がるだけだ」
「報酬は出ますか」
「生還率が上がる」
「現金支給がいいんですが」
「贅沢を言うな」
灯りの向こうで、税務印の欠けた封蝋が小さく赤く光っていた。
街の上では正しい帳面が回り、下では正しくない金が動く。
ギルドの優等生は、今日も真面目に頷いた。
ただし次に求められているのは、真面目さだけでは足りないらしい。




