第6話 立入禁止の向こう側
「走らないでください」
朝のギルドでその声を聞くと、誰かが怒られているはずなのに、妙に安心する。
受付嬢が正しいことを言っているあいだは、街もたぶんまだ壊れていない。
レンは二階へ上がりながら、内ポケットのメモ紙を指で確かめた。
図面庫で写してきた線。第三倉区と第五倉区の真下を結ぶ、閉鎖済みの横引き点検路。
マスターの部屋をノックすると、間を置かずに声が返る。
「入れ」
中に入ると、机の上にはもう旧工区の図が広げてあった。赤鉛筆で二、三か所、印が増えている。
「仕事が早いですね」
「お前が帰ってきた時点で遅い」
マスターは椅子にもたれたまま、図面の細い横線を指でなぞった。
「閉鎖点検路の現地確認だ」
「保守課には話を通すんですか」
「通せば記録が残る。記録が残れば、見てほしくない相手にも残る」
「つまり内緒ですね」
「優等生らしく言い換えろ。事前調整中だ」
レンは頷いた。だいたい同じ意味だった。
「入口までは空けておく。保守課には蒸気圧点検の名目で近寄らせない。札も下げる。お前が入ってるあいだ、他の連中は別系統の弁検査に回す」
「手際がよすぎませんか」
「ギルドは書類で飯を食ってる。現場だけで食ってると思うな」
「夢が壊れました」
「最初から持つな」
マスターは今度は、閉鎖印の先に爪を置いた。
「問題はここから先だ。普通の作業員なら止まる」
「狭いんですか」
「狭い。低い。濡れてる。嫌な要素の品揃えがいい」
「人気がないのも分かります」
「まともな装備をつけたままじゃ無理だ。這って進む前提の昔の保守路だな。今の連中は安全規定を盾にして嫌がる」
「健全ですね」
「お前は行けるだろ」
「そうですね、細身なので」
「チッ、そういうことにしておけ」
それ以上は言わない。
マスターは最初から、その線引きがうまい。
「危なくなったら戻れ。証拠を拾え。英雄ごっこはするな」
「優等生ですから」
「その台詞、便利に使うようになったな」
「便利な言葉は使うためにあります」
「書類でもそう言ってみろ。嫌われるぞ」
◇
旧排水層の脇道は、いつ見ても人のために作った顔をしていなかった。
煉瓦壁に沿って細い通路が折れ、頭上を古い配管が渡る。
蒸気の抜ける音、遠くで回るポンプの唸り、どこかで雫が落ちる単調な音。街の下は今日も、見えないところで忙しい。
マスターの段取りどおり、入口近辺に人の気配はなかった。
代わりに、仮設の点検札がひとつ下がっている。
『蒸気圧調整中 関係者以外立入注意』
丁寧なのか雑なのか判断に困る文面だ。
その先、脇の煉瓦壁に半ば埋もれるようにして、もう一枚の札があった。
『立入禁止』
「だいたい、そう書いてある場所ほど気になるんですよね」
レンは独り言を落としてから、閉鎖点検路の入口を見た。
古い隔壁。錆びた鎖。錠前。
どれも放置された顔をしているのに、細部だけが妙に新しい。
鍵穴の縁に擦れ。
鎖の輪の向き。
札の紐が結び直されている跡。
そして通路手前だけ、埃の積もりが薄い。
「閉鎖のための閉鎖じゃないな」
人を遠ざけるための閉鎖だ。
入る人間が別にいる。
錠前は古い型だった。
レンは膝をつき、細い工具を差し込む。内部の爪は素直で、むしろ最近まで動いていたせいで噛みも浅い。
がちり。
鎖を外し、隔壁を押す。
蝶番は低く鳴いたが、完全には死んでいない。
中はさらに空気が冷たかった。
◇
最初の通路までは、まだ人間向けだった。
狭いが歩ける。
壁際には止水バルブ、頭上には細い圧力管、床はわずかに勾配がついている。保守用の小さな点検蓋がいくつもあり、そのうち半分はもう開かないだろうと思わせる顔で沈んでいた。
レンは灯りを絞り、図面の線を頭に置いたまま奥へ進んだ。
角をひとつ曲がった先で、通路が急に性格を変えた。
低い。
狭い。
しかも配管支持具が張り出している。
「ここから先か」
人が止まる場所、というのはこういう顔をしている。
理屈の上では通れる。だが装備を背負ったまま進みたくはない。仕事でもなければ、わざわざ入る幅ではなかった。
レンは肩掛けの道具袋を外し、必要なものだけに絞って腰へ回した。手袋の指先を確かめ、煉瓦の出っ張りと支持具の位置を順に見る。
左肩から入ると固定金具に引っかかる。
右から、少しだけ沈むように入るほうがいい。
身体を横に向け、胸を張らずに差し込む。
服が乾いた煉瓦に擦れる感じは好きではない。だが止まるほどではない。
靴先で奥の足場を探り、体重をずらす。
通れないほどではない。嫌なだけだ。
狭所を抜けた先は、逆に少しだけ湿っていた。
空気が柔らかくなって、ようやく喉の奥の引っかかりが薄れる。
「こっちのほうがましですね」
誰もいないので、返事はない。
◇
使われている通路には、使われているだけの手触りがある。
壁際の小ヒンジに、最近差した油。
配管の曲がり角に残る新しい泥。
床の隅に引っかかった麻袋の繊維。
そして何より、倉庫真下へ抜ける点検蓋の内側だけが、妙に擦れていた。
レンはしゃがみ込み、蓋の縁を指でなぞった。
上からではなく、下から押し上げた痕。
蝶番も一度手入れされている。荷重のかかる使い方を何度かしていなければ、こうはならない。
「当たり、ですね」
蓋の脇には木の角がぶつかったような傷もある。
木箱か、荷台の一部か。少なくとも人の靴先だけではつかない形だ。
地下を通って荷が動いている。
その確信が、ようやく現場の感触になった。
レンは麻繊維をつまみ、紙片に包んで内ポケットへ入れた。
もう少し見れば、まだ何か出る。
そう思った瞬間、遠くで金属音がした。
かん、と乾いた一音。
続けて、どこかの弁が切り替わる低い響き。
「まずい」
床下で水が動く音がする。
次の瞬間、通路の向こうから冷たい水が押し戻してきた。
勢いは強くない。だがこの幅で足を取られると厄介だ。
レンは灯りを壁に寄せ、流路の傾きと配管の逃しを一瞬で見た。
右壁に小さな逃し弁。古いが、死んではいない。
しゃがんだまま手を伸ばし、弁の把手を回す。
重い。半回転で止まる。さらに押し込む。
ぎ、と鈍い音がして、側路へ水が逃げた。
床を這う水の勢いがわずかに緩む。
そのとき、さらに奥で、鉄蓋の閉まる音がした。
ひとつ。
間を置いて、遠ざかる足音。
誰かいる。
追える距離か、とレンは一歩だけ踏み出しかけて、やめた。
この幅、この水位、この見えなさで追って得する相手ではない。
「優等生、優等生」
言い聞かせるみたいに呟いて、足を戻す。
代わりに、水が押し返した先の隅を灯りで払う。
泥に半分埋まった細い紐が見えた。
拾い上げる。
油の染みた結束紐。その先に、小さな荷印の切れ端が付いている。擦れているが、片端に商会印らしい染めが残っていた。
「充分ですね」
こういう時に欲を出すと、だいたい濡れるし痛い目を見る。
◇
戻る途中、例の狭所は行きより少しだけ面倒だった。
水気を吸った服が煉瓦に引っかかる。
支持具の下へ体勢を落とし、手袋を傷めない角度を選んで抜ける。地味だが、こういうところで焦ると余計に時間がかかる。
隔壁の外へ出たときには、思ったより息を使っていた。
鎖を元どおりに掛け、錠前も閉じる。
見た目だけは、さっきまでと変わらない。そうしておいたほうがいい。
通路を戻る途中で、マスターが待っていた。
腕を組み、壁にもたれ、まるで散歩のついでに地下を見に来たみたいな顔をしている。
「早かったな」
「早く戻るのも優等生の条件です」
「便利に使うなと言ったはずだ」
レンは紙片の包みと紐を差し出した。
「閉鎖点検路、死んでません。倉庫真下へ抜ける蓋が使われてます。蝶番に新しい油。麻袋の繊維。木箱の擦れ跡。あと、途中で水を戻されました」
「誰かいたか」
「顔は見てません。蓋の閉まる音と足音だけ」
マスターは受け取った紐を見下ろした。
「追わなかったか」
「追うとたぶん、濡れるので」
「それだけか」
「あと、面倒そうだったので」
「正しい」
それで十分だ、という声だった。
◇
部屋へ戻ってから、レンは簡単な図を描き直した。
閉鎖点検路、狭所、倉庫真下への蓋、逃し弁の位置、水が押し戻してきた方向。
マスターはそれを見ながら、机の上で指を二度鳴らした。
「水位操作は通路利用のため、と見てよさそうだな」
「少なくとも、偶然じゃありません」
「荷も動いてる」
「たぶん継続的に。単発なら、あそこまで蓋の内側は擦れません」
マスターは椅子にもたれ、天井を一度見た。
「倉庫側だけじゃないな」
「下の通路を使う前提で、上の帳簿も動かしてる感じでした」
「となると、上と下の両方を知ってる奴がいる」
短く沈黙が落ちる。
窓の外では、煉瓦街のどこかで蒸気笛が鳴った。
「で」
レンが言う。
「次はどうします」
マスターは視線を戻した。
口元が少しだけ上がる。
「次は上で待つか、下で待つかだな」
ギルドの優等生は頷いた。
閉じたことになっている道は、だいたい閉じたふりをしているだけらしい。
そしてそういう道ほど、次に誰かが通る。




