第5話 静かにしてください
「走らないでください」
朝のギルドでその声を聞くと、今日も街がちゃんと回っている気がする。
誰かが止まり、誰かが肩をすくめ、受付嬢だけは最初から正しい。
レンは歩幅を変えずに受付前を抜けた。
今日は依頼板を見る必要がない。内ポケットには、昨日マスターから渡された仮閲覧札が入っている。
旧工区図面庫。
紙の山と、黴と、乾いた空気の巣だ。
◇
図面庫は、保守課の外れ棟にあった。
煉瓦造りの古い事務棟で、窓は細く高い。入口の横には真鍮板の札が掛かっている。
『静かにしてください』
まるで最初から揉め事を諦めているような文句だ、とレンは思った。
中へ入ると、空気が違った。
紙、糊、古布、インク、少しの黴。地下水脈の湿った冷たさとは別の、乾いて脆い匂いがする。
喉の奥が少しだけ引っかかる。
こういう場所は、触るものすべてが水気を嫌っているみたいで落ち着かない。
帳場の向こうにいた庫番は、年配の男だった。
眼鏡の位置が低く、書類の端を揃えるのが異様にうまそうな指をしている。
「閲覧札」
挨拶より先に言われて、レンは素直に差し出した。
男は札を表裏ひっくり返し、署名と印を確認してから、ようやくレンの顔を見る。
「旧工区図面庫の仮閲覧。保守課長名義……いや、違うな。ギルドのマスターか」
「効力はありますか」
「あるから困る」
困るらしいが、返されはしなかった。
「何を見る」
「旧排水区画図と、接続点検路の記録を」
「だいぶ面倒なものを言う」
「仕事なので」
「こっちも仕事だ」
庫番は立ち上がり、奥の棚へ消えた。
戻ってきたときには、紐で綴じた図面束を三つ抱えている。
「机で見ろ。勝手に順を変えるな。重しが欲しければ言え。頁を折るな。唾でめくるな」
「最後は誰向けですか」
「全員向けだ」
◇
図面は想像より細かかった。
太い配管、隔壁、調圧弁、横引きの点検路、保守用の足場。現在の倉庫区画より、むしろ地下の都合のほうがよく分かる。街は上から見ると煉瓦でできているが、下から見ると配管と弁でできていた。
レンは昨日書き留めておいた符号を机の端に置き、一本ずつ図面に当てていった。
倉庫帳簿に混じっていた記号は、やはり倉庫番号ではなかった。
旧排水区画と、その脇を通る点検路の識別記号だ。
「当たりか」
思わず小さく呟く。
第三倉区の下に一本。第五倉区の真下にもう一本。
しかも第3話で見た湿地フロアの系統と、横引きで繋がっている。
その時点で充分に嫌な話だったが、もっと嫌なのは別にあった。
図面束の一部だけ、綴じ紐が新しい。
紙そのものは古いのに、綴じ直した跡がある。端に擦れた指の油も新しい。
最近、誰かが触っている。
「……図面のほうは、まだ残してるんですね」
「何か言ったか」
「いえ。独り言です」
独り言は乾いた部屋では少し響く。
庫番が嫌そうに眼鏡の上から睨んだ。
レンは次に、保守記録簿の閲覧を頼んだ。
「図面だけじゃ足りないのか」
「現場が閉鎖済みなのに、図の線が生きすぎてるので」
「嫌な言い方をする」
「だいたい当たってる言い方です」
庫番は黙って、さらに分厚い記録簿を一冊持ってきた。革表紙は乾ききっていて、角が白く毛羽立っている。
「旧工区、東系統、排水・保守。年ごとに綴じてある。乱暴に扱うな」
「扱う相手が紙なら、だいたい丁寧です」
「人間にもそうしてやれ」
余計なお世話だ、と言い返す代わりに、レンは記録簿を開いた。
閉鎖。埋設。使用停止。
記録は淡々としている。
だが数年前に閉鎖されたはずの点検路に、数か月前の日付で補修印が入っていた。しかも筆跡が浮いている。現場帰りの人間の書き方じゃない。机の上で帳尻だけ合わせた線だ。
「これもか」
追っていく。
閉鎖済み区画、閉鎖済み弁、閉鎖済み点検口。
そして次の欄で、レンの指が止まった。
紙の厚みが変だ。
頁をめくる重さが、一枚分だけ軽い。
番号を見る。
飛んでいる。
「……すみません」
声を潜めて呼ぶと、庫番が面倒そうに顔を上げた。
「何だ」
「このページ、ないんですけど」
「は?」
「ここ、一枚切られてます。頁番号が飛んでる」
庫番は椅子を鳴らして立ち上がり、記録簿を引き寄せた。
眼鏡を上げ、下げ、もう一度見る。
しばらく黙った。
『静かにしてください』
入口の札が、急に嫌味みたいに思えた。
「……本当だな」
「本当ですね」
「お前、来てからずっとそこにいたな」
「疑うなら、それはそれで健全です」
「疑っている。だが今のところ、お前がやったとは思っていない」
「光栄です」
「やるなら、もっと目立たないやり方をしそうな顔をしてる」
褒められているのか分からない。
たぶん半分くらいは褒めていない。
庫番は記録簿の背を撫でるように見た。
「切り口が新しい……いや、少なくとも古くはない。最近だ」
「閲覧記録は残ってますか」
「残っている」
庫番はすぐに別帳を持ってきた。
図面庫の閲覧記録。日付、閲覧者、所属、閲覧資料。
昨日。
そして一昨日。
「同じ記録簿を見てますね」
レンが言うと、庫番は眉間を押さえた。
「略記だな。保守課か、倉庫組合の内勤か……この書き方は癖が悪い」
「読めるようで読めない字は、だいたい本人だけが得してます」
「黙れ。今、腹が立ってる」
◇
切り取られた一枚そのものは戻らない。
だが前後の記録と図面を並べると、逆に浮かぶ線があった。
閉鎖されたはずの横引き点検路。
埋設済みの表記。
それなのに、接続先の保守印だけが後年まで生きている。
つまり、線は紙の上では死んでいても、現場では死んでいない。
しかもその横引きは、第三倉区と第五倉区の真下を通っていた。
浸水した倉庫と、帳簿に記号があった倉庫だ。
「水位を上げたのは、隠すためか」
レンは図面の端を押さえたまま考える。
いや、半分だけ違う。
水を入れた。
倉庫を騒がせた。
荷を動かした。
帳簿を濡らした。
そして読まれたくないページを切った。
どれも別々のようで、全部つながっている。
下から出入りするための道。
それを使うための水位操作。
図面庫の乾いた空気の中で、その線だけが妙に生々しかった。
◇
ギルドへ戻る頃には、もう夕方だった。
階段下で誰かが駆けかけて、案の定、受付嬢に止められている。
「走らないでください」
相変わらずいい声だな、とレンは思いながら二階へ上がった。
マスターの部屋では、灯りの横で圧力計の部品がひとつ転がっていた。誰の趣味だろうと思ったが、だいたいこの部屋にあるものはマスターの趣味か実用品だ。
「で」
椅子をすすめる代わりに、マスターはそう言った。
レンは写してきた符号と簡単な図を机に置く。
「倉庫帳簿の記号、当たりでした。旧排水区画と横引き点検路の識別です」
「やはりか」
「それと保守記録。閉鎖済み区画なのに、数か月前の補修印が残ってました。ただし――」
「ただし?」
「肝心の一枚だけ、切り取られてました」
マスターの眉がわずかに上がる。
「お前がやった、とは思ってない」
「やるならもっと上手くやる、とか言いません?」
「言おうと思った」
「信頼なのか評価が低いのか、判断に困りますね」
「両方だ」
即答だった。
レンは肩をすくめる。
「その場で庫番にも確認させました。頁番号が飛んでる。閲覧記録では、昨日と一昨日に同じ簿冊を見た誰かがいます」
「先回りされたわけだ」
「たぶん」
マスターは机の上の図を見たまま、指先で二つの倉区を結んだ。
「閉鎖されたことになっている道が、今も使われてる」
「その可能性が高いです。水位操作は浸水が目的じゃない。下の通路を使いやすくするためか、使った痕を誤魔化すためか」
「両方あるな」
短く言って、マスターは椅子にもたれた。
「次は紙じゃない。足で見ろ」
「現場確認ですか」
「閉鎖点検路が本当に生きてるなら、今も誰かが使ってる」
レンは頷いた。
図面庫は静かだった。
だが静かな場所ほど、切り取られたものの形がよく分かる。
街の上では工場が鳴り、ギルドでは誰かがまた走って怒られている。
その下では、閉鎖済みと書かれた道が、まだ誰かの都合で生きているらしい。
紙の上では塞がっている道が、現場ではいちばん怪しい。




