第4話 紙は濡れるとよく喋る
「走らないでください」
朝のギルドで、その声はもう鐘みたいなものだった。
鳴れば誰かが止まるし、鳴らなくても、たぶん皆どこかで気にしている。
レンは依頼板の前を通り過ぎ、そのまま二階へ上がった。
今日は掲示を見る必要がない。呼ばれる前に呼ばれている気がしたからだ。
案の定、マスターの部屋の扉を叩く前に「入れ」と声が飛んだ。
「予知ですか」
「足音だ」
机の上には、昨日持ち帰った真鍮の楔が置かれていた。朝の光を受けても、あまりきれいには見えない。油と泥が残っているせいだ。
マスターはそれを指で転がした。
「楔そのものは珍しくない」
「真鍮片なら、そこらじゅうにありますね」
「だが、これは雑に見えて雑じゃない」
マスターは削り面を爪で弾いた。
小さく、乾いた音がする。
「寸法に迷いがない。現場で慌てて削った形じゃない。一度、机の上で合わせてる」
「排水機構に噛ませる前提で?」
「たぶんな」
レンは楔を見た。
ただの金属片なら、もっとどうでもいい顔をしている。これは少しだけ、仕事を知っている顔だ。
「つまり、古い排水機構を知ってる誰かがいる」
「図面を見た奴か、昔の工区に出入りしてた奴か、その両方だ」
マスターは椅子にもたれた。
「表向きは補修確認。昨日の浸水で痛んだ倉庫の状況を見て回れ。裏では楔の出所を探せ」
「優等生は聞き込みもやる、と」
「愛想よくやれ。お前は黙ってると感じが悪い」
「努力目標にしておきます」
「達成しろ」
◇
工房街は朝からうるさかった。
蒸気ハンマーの重い打音。旋盤の高い唸り。配管を叩く金属音。煤を含んだ湯気が路地に流れ、濡れた石畳の上を職人たちの靴が忙しく横切っていく。
レンは最初に工具屋へ入った。
狭い店だ。壁一面にスパナ、バルブ鍵、測定ノギス、配管用の継ぎ手が吊られている。奥では店主が真鍮ブラシで何かを磨いていた。
「朝から難しい顔だな、坊主」
「顔はいつもこんなものです」
「それは損だぞ」
そう言いつつ、店主は手を止めた。
レンは楔そのものは出さず、帳面に簡単な寸法を書いて見せる。
「こういう仮止め用の楔って、よく使います?」
「使うが、その形は微妙だな」
「微妙、ですか」
「戸や箱に使うには薄い。配管の継ぎに使うには短い。で、先だけ妙に神経質だ」
店主は帳面を指で叩いた。
「何か動いてる機構に、一時的に噛ませる形だ。しかも、壊すためじゃない。位置をずらしたまま保つための削り方だな」
「そういう仕事をしそうなのは?」
「配管工。旧式の圧力機構を知ってる保守屋。あとは、図面だけ見て頭で触れるつもりになってる奴」
「最後のは当たりたくないですね」
「現場を知らん奴ほど、変な壊し方をするからな」
工具屋を出て、次は旋盤工房、次は配管修理屋。
聞けたことは大きくは変わらなかった。
あの楔は既製品ではない。
わざわざ作る理由がある形だ。
そして、ただの戸締まりや棚留めではなく、圧力のかかる古い機構を“半端な位置で止める”ための癖が出ている。
配管修理屋の親方は、寸法を書いた紙を見るなり鼻を鳴らした。
「これ、机の上で一回合わせてるな」
「やっぱりそう見えますか」
「見える。現場で急いで削った跡じゃねえ。使う場所を想像して作ってる」
「古い排水機構に心当たりは?」
「心当たりがあっても、そんなもん口にすると面倒だ」
「ですよね」
「ただな」
親方はそこで少しだけ声を落とした。
「旧工区の図面、最近また誰かが見たって話は聞いた。倉庫組合の手か、保守課の残りかは知らん」
レンは頷くだけにした。
こういう話は、追うと黙る。覚えて持ち帰るほうが早い。
◇
午後は表向きの仕事に回った。
昨日水を噛んだという地下倉庫を、補修確認の名目で順に見ていく。
煉瓦街の裏手は日当たりが悪く、倉庫の半分は昼でも薄暗い。荷札のついた木箱、麻袋、鉄輪のついた樽。どれも湿気が似合いすぎる。
一軒目は自然な濡れ方だった。
床の低いほうに水が寄り、袋の下から順番に染みている。
二軒目も似たようなもの。
三軒目で、レンは立ち止まった。
「どうしました、調査員さん」
倉庫番の男が、濡れた帳簿を抱えたまま言う。
「いえ。水の入り方が少し変だなと」
「変?」
「普通なら、あっちの角から先に濡れますよね」
レンは床の泥筋を指した。
倉庫番が眉をひそめる。
入口側より先に、奥の棚下から濡れている。
しかも、木箱の並びが不自然にずれていた。運び出したというより、一度どけて戻したような乱れ方だ。
「昨日、ここを動かしました?」
「そりゃ多少は」
「帳簿、見せてもらっても?」
「何でだ」
「濡れた紙は、乾く前に開いたほうが、後で読めることがあります」
半分は本当で、半分は口実だった。
倉庫番は渋い顔をしたが、補修確認の一環だと思ったのか、しぶしぶ帳簿を渡した。
帳面は端から水を吸い、何ページかがくっついている。
レンは無理には剥がさず、机の上に広げて、乾いた布で水気だけを軽く押さえた。乱暴にやれば字まで持っていかれる。
滲んだ紙は、全部を隠すわけではない。
むしろ隠したいところだけ、妙に浮くことがある。
「……これ」
「何だ」
「倉庫番号の横に、旧排水区画の記号が書いてあります」
倉庫番の顔が、ほんの少し固くなった。
帳簿には商品名や数量に混じって、見慣れない短い符号が並んでいた。
しかも三日前の欄だけ、不自然に集中している。
「整理用の印だ」
「倉庫組合は、いま地下排水区画で在庫管理するんですか」
「詳しいな」
「昨日、下を見ましたから」
倉庫番は答えなかった。
その代わり、帳簿を引き取る手が少しだけ速かった。
十分だった。
レンは倉庫を出て、裏路地の壁にもたれた。
上ではガス灯の整備夫が梯子を立て、どこかで蒸気弁が短く鳴った。
浸水は結果だ。
たぶん目的じゃない。
水を入れて、倉庫を動かし、帳簿を濡らして、読まれたくない対応表をごまかした。
そう考えると、急に筋が通る。
◇
夕方、マスターの部屋に戻ると、窓の外はもう煉瓦色の煙で薄れていた。
「で」
マスターは最初から続きを求める声を出した。
「楔は専用工作に近いです。既製品じゃない。古い圧力機構を半端な位置で止めるための形だと」
「工房筋か」
「配管工、旧工区保守員、あるいは図面持ちの誰か。あと――」
レンは帳面に写してきた符号を机に置いた。
「浸水した倉庫のひとつで、旧排水区画の記号が帳簿に混ざってました」
マスターの目が細くなる。
「倉庫番号じゃないのか」
「違います。昨日見た区画記号と並びが近い」
「なるほど」
マスターは紙を見たまま、短く息を吐いた。
「水位を上げたことより、上げた先で何をしたか、か」
「たぶん帳簿をごまかしてます。濡れたせいで消えたことにしたいものがある」
「紙は濡れるとよく喋る」
「都合の悪いときほど」
マスターは机の引き出しから、古い閲覧札を一枚出した。
真鍮の縁が黒ずみ、紐は何度も結び直した跡がある。
「旧工区図面庫の仮閲覧札だ。これで保守課の保管庫に入れる」
「そんなもの、まだ残ってたんですね」
「残しておくと便利なものは、だいたい片付かない」
札を受け取る。
金属は冷たいが、軽い。
「次は図面、ですか」
「図面と、倉庫組合と、昔の保守記録だ」
「優等生には荷が重いですね」
「演技でへばるな」
レンは札を内ポケットにしまった。
水を入れた理由を追うつもりだった。
けれど違う。追うべきなのは、その水で何を隠したかだ。
部屋を出る前に、マスターが背中へ声を投げた。
「レン」
「はい」
「濡れた紙の扱い、妙に慣れてたな」
レンは振り返らずに答えた。
「雑に触ると、あとで困るので」
「そうか」
それだけだった。
それだけなのに、少しだけ見られた気がした。
廊下へ出る。階下では誰かが駆けかけて、すぐに受付嬢に止められていた。
ギルドの優等生は今日も歩いて階段を下りる。
図面庫は乾いていそうで、少しだけ気が重い。




