表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
スライムさんは、ギルドで優等生を演じています  作者: 安威要


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/11

第3話 足元にご注意ください

 「走らないでください」


 朝いちばんの受付嬢の声は、今日もよく通った。

 依頼板の前で急ぎ足になっていた新人が、ぴたりと止まる。石床に靴音だけがひとつ遅れて残った。


 レンはその横を、いつもの顔で通り過ぎた。


 人間のふりは、だいたい歩幅で決まる。

 急がない。立ち止まりすぎない。目立つものだけを見て、見すぎない。


 マスターの部屋をノックすると、すぐに「入れ」と返った。


 机の上には報告書の束。その端に、真鍮の金具つき依頼札が一枚だけ置かれている。


「地下水脈調査だ」


 マスターが札を指先で滑らせた。


 東工区旧排水層。煉瓦街の地下倉庫群のさらに下にある古い排水区画だ。


「表向きはな。実際は、上の倉庫が何軒か水を噛み始めた。湿地フロアの水位も上がってる。自然の湧きか、排水機構の不調か、それとも誰かが触ったか。そこを見てこい」


「最後のが当たりだと、面倒ですね」


「だからお前を呼んだ」


 さらりと言われて、レンは札を持ち上げた。冷たい金属の感触が手袋越しに伝わる。


「機材班が下で待ってる。圧力計、測量棒、手巻きウィンチ。正攻法の道具は揃えてある。お前は正攻法で届かないところを見ろ」


「雑な褒め方ですね」


「褒めてない」


 マスターは地図の一点を指で叩いた。


「自然の異常なら普通に報告しろ。人為なら、報告書を分けろ。表に出す分と、俺にだけ寄こす分だ」


「優等生は書類も二種類、と」


「演じるなら最後までやれ」


 目が合う。

 契約成立のあの握手以来、マスターは時々こういう目をする。

 見抜いたというより、見落とさない目だ。


 レンは肩をすくめた。


「了解しました、マスター」


     ◇


 東工区旧排水層は、使われなくなった揚水所のさらに下にあった。


 鉄の階段は湿っていて、手すりは冷たい。壁を這う配管の継ぎ目ごとに、白い結露が丸く残っている。ところどころのガス灯は湿気を噛んだ光を揺らし、どこか遠くで逃し弁が、しゅ、と小さく息を吐いた。


 最下層の手前で、機材班が荷を点検していた。


 一本眉の若い測量係が会釈し、年嵩の作業員がバルブレンチを肩に担ぎ直す。


「ギルドの調査員さんか。下は滑る。転ぶなよ」


「善処します」


「善処じゃ困るんだよ」


 そう言いながらも、作業員の声はそこまできつくない。


 湿地フロアへ降りる手前には、錆びた注意板が斜めに残っていた。


 『足元にご注意ください』


 文字の下半分は、水垢で消えかけている。


「律儀ですね」とレンが言うと、測量係が首を傾げた。


「何がだ?」


「何年経っても、注意は注意のまま残るんだなと」


「残しておかないと、本当に落ちるからな」


 その通りだった。


 湿地フロアは、煉瓦のアーチ天井の下に浅い水が広がっていた。中央には古い点検歩廊。板はところどころ抜け、鉄骨だけが残っている。壁際の太い排水管は鈍く濡れ、継ぎ目から落ちた水滴が周期的に水面を叩いていた。


 測量係が水尺を立てる。


「昨日より二寸高い」


「雨は降ってねえぞ」と作業員。


「上の貯水槽系統でもなさそうですね」


「その系統なら先に圧力計が暴れる」


 レンは壁沿いに視線を滑らせた。

 水の筋。泥の色。沈殿の向き。


 自然に増えた水は、もう少しだらしなく広がる。

 ここの水は筋が良すぎた。


 奥に外鍵式の隔壁がある。しかも鍵穴の縁だけ、煤が新しく切れていた。


「あれ、最近開けてますね」


 作業員が顔を上げる。


「見て分かるのか」


「鍵穴の周りだけ、汚れの付き方が違います」


 レンは膝をつき、工具入れから細い針金を二本借りた。

 外鍵式の単純な機構だが、湿気と泥で噛んでいる。逆に言えば、単純だから拾いやすい。


 ひとつ。

 もうひとつ。

 中の爪が沈む感触を指先で追って、少しだけ持ち上げる。


 がちり。


 作業員が口笛を鳴らした。


「早いな」


「古い型で助かりました。新しいのだったら、もっとかかります」


 隔壁を押し開けると、その先はさらに低い流路だった。

 水音が一段深い。壁際の圧力計の針が、かすかに揺れている。


 測量係が歩廊に一歩出たところで、嫌な音がした。


 べき。


 次の瞬間、板が抜けた。


「うわっ」


 身体が傾き、測量棒が跳ね、水しぶきが上がる。


 レンは飛びつかなかった。

 代わりに足元のロープ束を蹴り上げ、その端を手すりの欠けた輪に通し、反対側の蒸気管に一巻きした。


「掴んで!」


 測量係が反射で縄を抱く。

 落ち切る前に身体が止まり、作業員ふたりが一気に引き戻した。


「……助かった」


「次から板じゃなくて、鉄骨を踏んでください」


「先に言ってくれ」


「今言いました」


 息を整えながら、レンは流路の奥を見た。


 歩廊は途中で完全に死んでいる。人がそのまま進むには足場が足りない。

 だが壁と配管のあいだに、点検用らしい細い隙間が一本だけ続いていた。


 作業員が顔をしかめる。


「無理だ。猫でも嫌がる」


 レンは手袋の指を軽く折った。


「細い人間向けの設計、たまにありますよ。点検員泣かせのやつ」


「その理屈で通る幅か?」


「道具を外せば、たぶん」


 腰の工具をいくつか外して預け、レンは隙間を覗き込んだ。

 足場になる煉瓦の出っ張り、配管の固定金具、身体を支えられる継ぎ目を順に見る。


「そこ、左肩から入ると引っかかるぞ」と作業員が言う。


「じゃあ右から行きます」


 軽く息を吐いて、身体を横に向ける。

 胸を張らず、腕を畳み、固定金具を避けながら少しずつ差し込んだ。


 煉瓦の冷たさが服越しに伝わる。

 狭いが、通れないほどではない。靴先で奥の足場を探り、体重をずらす。


「どうだ!」


「まだ大丈夫です。戻るときのほうが面倒そうですね」


「今から帰りの話をするな!」


 呆れた声を背に、レンはさらに奥へ進んだ。


 行き止まりの先に、調圧弁の連結機構があった。


 本来なら閉じる側に戻るはずの腕木が、真鍮の楔で無理やり噛まされている。削り跡は新しく、油もまだ乾き切っていない。


「……これか」


 自然湧水は、こんな仕事をしない。


 レンは細い工具を差し込み、少しずつ楔を浮かせた。

 連結棒が震え、弁が低く唸る。次の瞬間、奥で溜まっていた水圧が逃げ、配管の向こうでごご、と重い音がした。


 圧力計の針が落ちる。


「下がってるぞ!」


 向こうで作業員が叫んだ。


「レン! 何があった!」


「職人仕事です!」


「分かんねえよ!」


 レンは楔を抜き取り、指先で重さを確かめた。

 真鍮。片面に油。端に布繊維が少しだけ付いている。


 工場の床でも、排水層の底でも、こういうものは人の手でしかここまで都合よくはまらない。


     ◇


 地上に戻る頃には、ガス灯の火が夕方色になっていた。


 ギルドの報告窓口は混んでいたが、受付嬢はレンの顔を見るなり帳面を開いた。


「提出ですか」


「ええ。走らずに持ってきました」


「それは結構です」


 表向きの報告書には、こう書いた。


 『旧排水層・調圧弁連結部に異物噛み込み。水位上昇の主因。除去済み。歩廊一部損壊、要補修。』


 そして別紙を一枚。

 封をして、マスター宛に回す。


 呼ばれるまでは早かった。


 マスターは別紙を開き、三行ほど読んだところで口元をわずかに上げた。


「人為、か」


「真鍮の楔でした。新品に近いです。古い機構を知ってる誰かが、わざと噛ませたんでしょう」


「理由は」


「まだ分かりません。でも、自然湧水より面倒なのは確かです」


 マスターは椅子に背を預けた。

 窓の外では、煉瓦街の煙が夕暮れに溶けている。


「いい報告だ、レン」


「優等生ですから」


「演技にしては出来がいい」


 机の上で、真鍮の楔が小さく光る。


「――次は、誰がこれを入れたかだな」


「それも報告書二通ですか」


「当然だ」


 レンは手袋の指先を見た。

 今日はまだ、手袋の内側を気にせずに済む。


 ギルドの優等生は、今日も真面目に頷いた。

 ただし、その真面目さがどこまで人間のものかは、まだ誰も知らない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ