第3話 足元にご注意ください
「走らないでください」
朝いちばんの受付嬢の声は、今日もよく通った。
依頼板の前で急ぎ足になっていた新人が、ぴたりと止まる。石床に靴音だけがひとつ遅れて残った。
レンはその横を、いつもの顔で通り過ぎた。
人間のふりは、だいたい歩幅で決まる。
急がない。立ち止まりすぎない。目立つものだけを見て、見すぎない。
マスターの部屋をノックすると、すぐに「入れ」と返った。
机の上には報告書の束。その端に、真鍮の金具つき依頼札が一枚だけ置かれている。
「地下水脈調査だ」
マスターが札を指先で滑らせた。
東工区旧排水層。煉瓦街の地下倉庫群のさらに下にある古い排水区画だ。
「表向きはな。実際は、上の倉庫が何軒か水を噛み始めた。湿地フロアの水位も上がってる。自然の湧きか、排水機構の不調か、それとも誰かが触ったか。そこを見てこい」
「最後のが当たりだと、面倒ですね」
「だからお前を呼んだ」
さらりと言われて、レンは札を持ち上げた。冷たい金属の感触が手袋越しに伝わる。
「機材班が下で待ってる。圧力計、測量棒、手巻きウィンチ。正攻法の道具は揃えてある。お前は正攻法で届かないところを見ろ」
「雑な褒め方ですね」
「褒めてない」
マスターは地図の一点を指で叩いた。
「自然の異常なら普通に報告しろ。人為なら、報告書を分けろ。表に出す分と、俺にだけ寄こす分だ」
「優等生は書類も二種類、と」
「演じるなら最後までやれ」
目が合う。
契約成立のあの握手以来、マスターは時々こういう目をする。
見抜いたというより、見落とさない目だ。
レンは肩をすくめた。
「了解しました、マスター」
◇
東工区旧排水層は、使われなくなった揚水所のさらに下にあった。
鉄の階段は湿っていて、手すりは冷たい。壁を這う配管の継ぎ目ごとに、白い結露が丸く残っている。ところどころのガス灯は湿気を噛んだ光を揺らし、どこか遠くで逃し弁が、しゅ、と小さく息を吐いた。
最下層の手前で、機材班が荷を点検していた。
一本眉の若い測量係が会釈し、年嵩の作業員がバルブレンチを肩に担ぎ直す。
「ギルドの調査員さんか。下は滑る。転ぶなよ」
「善処します」
「善処じゃ困るんだよ」
そう言いながらも、作業員の声はそこまできつくない。
湿地フロアへ降りる手前には、錆びた注意板が斜めに残っていた。
『足元にご注意ください』
文字の下半分は、水垢で消えかけている。
「律儀ですね」とレンが言うと、測量係が首を傾げた。
「何がだ?」
「何年経っても、注意は注意のまま残るんだなと」
「残しておかないと、本当に落ちるからな」
その通りだった。
湿地フロアは、煉瓦のアーチ天井の下に浅い水が広がっていた。中央には古い点検歩廊。板はところどころ抜け、鉄骨だけが残っている。壁際の太い排水管は鈍く濡れ、継ぎ目から落ちた水滴が周期的に水面を叩いていた。
測量係が水尺を立てる。
「昨日より二寸高い」
「雨は降ってねえぞ」と作業員。
「上の貯水槽系統でもなさそうですね」
「その系統なら先に圧力計が暴れる」
レンは壁沿いに視線を滑らせた。
水の筋。泥の色。沈殿の向き。
自然に増えた水は、もう少しだらしなく広がる。
ここの水は筋が良すぎた。
奥に外鍵式の隔壁がある。しかも鍵穴の縁だけ、煤が新しく切れていた。
「あれ、最近開けてますね」
作業員が顔を上げる。
「見て分かるのか」
「鍵穴の周りだけ、汚れの付き方が違います」
レンは膝をつき、工具入れから細い針金を二本借りた。
外鍵式の単純な機構だが、湿気と泥で噛んでいる。逆に言えば、単純だから拾いやすい。
ひとつ。
もうひとつ。
中の爪が沈む感触を指先で追って、少しだけ持ち上げる。
がちり。
作業員が口笛を鳴らした。
「早いな」
「古い型で助かりました。新しいのだったら、もっとかかります」
隔壁を押し開けると、その先はさらに低い流路だった。
水音が一段深い。壁際の圧力計の針が、かすかに揺れている。
測量係が歩廊に一歩出たところで、嫌な音がした。
べき。
次の瞬間、板が抜けた。
「うわっ」
身体が傾き、測量棒が跳ね、水しぶきが上がる。
レンは飛びつかなかった。
代わりに足元のロープ束を蹴り上げ、その端を手すりの欠けた輪に通し、反対側の蒸気管に一巻きした。
「掴んで!」
測量係が反射で縄を抱く。
落ち切る前に身体が止まり、作業員ふたりが一気に引き戻した。
「……助かった」
「次から板じゃなくて、鉄骨を踏んでください」
「先に言ってくれ」
「今言いました」
息を整えながら、レンは流路の奥を見た。
歩廊は途中で完全に死んでいる。人がそのまま進むには足場が足りない。
だが壁と配管のあいだに、点検用らしい細い隙間が一本だけ続いていた。
作業員が顔をしかめる。
「無理だ。猫でも嫌がる」
レンは手袋の指を軽く折った。
「細い人間向けの設計、たまにありますよ。点検員泣かせのやつ」
「その理屈で通る幅か?」
「道具を外せば、たぶん」
腰の工具をいくつか外して預け、レンは隙間を覗き込んだ。
足場になる煉瓦の出っ張り、配管の固定金具、身体を支えられる継ぎ目を順に見る。
「そこ、左肩から入ると引っかかるぞ」と作業員が言う。
「じゃあ右から行きます」
軽く息を吐いて、身体を横に向ける。
胸を張らず、腕を畳み、固定金具を避けながら少しずつ差し込んだ。
煉瓦の冷たさが服越しに伝わる。
狭いが、通れないほどではない。靴先で奥の足場を探り、体重をずらす。
「どうだ!」
「まだ大丈夫です。戻るときのほうが面倒そうですね」
「今から帰りの話をするな!」
呆れた声を背に、レンはさらに奥へ進んだ。
行き止まりの先に、調圧弁の連結機構があった。
本来なら閉じる側に戻るはずの腕木が、真鍮の楔で無理やり噛まされている。削り跡は新しく、油もまだ乾き切っていない。
「……これか」
自然湧水は、こんな仕事をしない。
レンは細い工具を差し込み、少しずつ楔を浮かせた。
連結棒が震え、弁が低く唸る。次の瞬間、奥で溜まっていた水圧が逃げ、配管の向こうでごご、と重い音がした。
圧力計の針が落ちる。
「下がってるぞ!」
向こうで作業員が叫んだ。
「レン! 何があった!」
「職人仕事です!」
「分かんねえよ!」
レンは楔を抜き取り、指先で重さを確かめた。
真鍮。片面に油。端に布繊維が少しだけ付いている。
工場の床でも、排水層の底でも、こういうものは人の手でしかここまで都合よくはまらない。
◇
地上に戻る頃には、ガス灯の火が夕方色になっていた。
ギルドの報告窓口は混んでいたが、受付嬢はレンの顔を見るなり帳面を開いた。
「提出ですか」
「ええ。走らずに持ってきました」
「それは結構です」
表向きの報告書には、こう書いた。
『旧排水層・調圧弁連結部に異物噛み込み。水位上昇の主因。除去済み。歩廊一部損壊、要補修。』
そして別紙を一枚。
封をして、マスター宛に回す。
呼ばれるまでは早かった。
マスターは別紙を開き、三行ほど読んだところで口元をわずかに上げた。
「人為、か」
「真鍮の楔でした。新品に近いです。古い機構を知ってる誰かが、わざと噛ませたんでしょう」
「理由は」
「まだ分かりません。でも、自然湧水より面倒なのは確かです」
マスターは椅子に背を預けた。
窓の外では、煉瓦街の煙が夕暮れに溶けている。
「いい報告だ、レン」
「優等生ですから」
「演技にしては出来がいい」
机の上で、真鍮の楔が小さく光る。
「――次は、誰がこれを入れたかだな」
「それも報告書二通ですか」
「当然だ」
レンは手袋の指先を見た。
今日はまだ、手袋の内側を気にせずに済む。
ギルドの優等生は、今日も真面目に頷いた。
ただし、その真面目さがどこまで人間のものかは、まだ誰も知らない。




