第2話 マスターはよく見ている
翌朝のギルドは、昨日よりも紙の音が多かった。
帳場では羽根ペンが忙しく走り、壁沿いの蒸気管が白い息を細く吐いている。窓の外はまだ薄曇りで、ガス灯の火も消しきられていない。煤けた煉瓦壁に朝の光が鈍く差し、濡れた外套と油、少しだけ消毒用アルコールの匂いが混ざっていた。
レンは報告書の端を指先でそろえ、受付へ差し出した。
「旧坑道救助の報告です」
受付嬢は受け取って、一枚目だけざっと目を通す。几帳面な字だ。内容も簡潔――と言いたいところだが、たぶん少しだけ細かい。
「……はい、受理します」
「顔が何か言ってますけど」
「『簡潔』の定義について、マスターと相談していただくべきかと」
「書くことが多かったんです」
「優等生は大変ですね」
さらりと言われて、レンはわずかに肩をすくめた。
「今日は走る用事じゃないので安心してください」
「そういう日に限って急に呼ばれます」
「縁起でもない――」
「レンさん。マスターがお呼びです」
間が悪すぎる。
レンが無言になると、受付嬢は涼しい顔で書類を重ね直した。
「ほら」
「今の“ほら”は性格が悪くないですか」
「事実確認です。あと、走らないでください」
「今日は言うのが早いな……」
「学習しましたので」
レンはため息をひとつつき、それでも足早に奥へ向かった。走ってはいない。たぶん。
◇
執務室の扉を叩くと、すぐに入れという声がした。
中は昨日と変わらず、書類と機械部品の境界が曖昧だった。机の端には分解途中の圧力弁、その横にはインク壺と古びた懐中時計。壁際の小型ボイラーが低く唸り、細い銅管を通った蒸気がときおり小さく鳴く。棚の隅には、傷薬と消毒液の瓶まで置かれていた。
鼻の奥が、少しだけ落ち着かない。
「座れ」
マスターは書類から目を上げずに言った。
レンは勧められた椅子に腰を下ろした。革張りはひび割れていたが、妙に座り心地がいい。
少しの沈黙のあと、マスターは昨日の報告書を机に置いた。
「まず聞く。お前は、何のためにここにいる」
思っていた問いと違った。
レンは一拍だけ、返事を遅らせる。
「働くため、ですけど」
「そういう綺麗な返答は受付でやれ」
「ひどいな」
「お前は真面目だ。真面目すぎる。優等生をやってる、って言い方のほうが似合うくらいにな」
そこでようやく、マスターが顔を上げた。
年老いた目だ。だが鈍ってはいない。書類の行間より、人の呼吸の乱れを見る目だった。
「何のためにギルドに入った」
「なぜ地下の依頼にばかり目を留める」
「なぜ住めそうな場所を探すみたいに仕事を選ぶ」
机の上で、マスターの指が報告書を軽く叩く。
「昨日の救助。よくやった。だが、よくやりすぎた」
レンは笑ってごまかそうとして、うまくいかないと悟った。
「褒め言葉として受け取っておきます」
「受け取るのは勝手だ。だが、こっちも見ている」
報告書の別紙が一枚、机の上に滑ってくる。先行班の証言だろう。もう一枚は機材班。さらに受付がまとめた簡単な帰還記録まである。
「隔壁の下の隙間。普通の人間の指じゃ、あそこまで届かん」
「掃除屋獣も殺していない。狭所で暴れさせない判断は正しいが、やり方が妙だ」
「瓦礫越しに綱を通した腕の入り方もおかしい」
「石灰と粉塵をやたら嫌がった」
「ついでに言えば、お前は手袋を外したがらない」
ひとつひとつは断定にならない。だが、積まれると十分に重い。
レンは椅子の肘掛けに指を置いたまま、しばらく黙った。
「……それで?」
「それで、だ」
マスターは背もたれに体を預ける。
「お前は何者だ、より先に聞いたはずだ。何のためにここにいる」
問い直される。
暴こうとしているのではない。見定めようとしているのだ、とレンは思った。
「静かに暮らせる場所が欲しいんです」
口を開くと、思ったより声は普通だった。
「追い立てられず、余計な詮索もされず、仕事をして飯が食える場所。そういうのを探してる」
「だから地下か」
「人が好んで長居しない場所は、都合がいいので」
「湿っていて、暗くて、狭い」
「ええ。だいたい、そういう場所です」
マスターの目が少しだけ細くなった。
「人間向きじゃないな」
その言い方に、レンは苦く笑った。
「でしょうね」
「なら聞こう。人を害する気はあるか」
「ないです」
今度は迷わなかった。
「少なくとも、ここで。俺はここで働いて、普通に暮らしたいだけです」
マスターはすぐには返事をしなかった。代わりに机の端の圧力計へ目をやる。針はわずかに揺れて、青の手前を保っている。
「俺はな」
ぽつりと、マスターが言った。
「半端者だ。人間の血と、魔族の血が半分ずつ入ってる」
レンは顔を上げた。
「見れば分かるわけじゃない。歳もとるし、腹も減る。酒も飲める。ずいぶん人間寄りだ。だが、どっちにも綺麗には混ざれなかった」
机の上の書類を指でそろえながら、マスターは淡々と続ける。
「人の中で人のふりをしてるやつは、なんとなく分かる。隠し方に見覚えがあるからだ」
「……便利な目ですね」
「便利というより、面倒な勘だ」
そこで初めて、マスターの口元に少しだけ笑みが浮いた。
「お前はたぶん、スライム系統だろう。泥か粘液か、そのあたりだ。違うか」
レンは返事をしなかった。
否定しない、それ自体が答えになったらしい。マスターはそれ以上は追及せず、代わりに引き出しから一枚の書類を出した。
「中央ギルドの季節監査が二か月後に入る」
机の上に置かれたそれは、監査予定の通達だった。乾いた事務の文面が並んでいる。
「監査までの二か月、お前のことは俺のところで止める」
レンの目がわずかに動く。
「その代わり、条件がある」
「……聞きましょう」
「指名した依頼を優先しろ。地下、閉鎖区画、狭所、旧設備、救助。人間には入りづらい場所を回ってもらう」
「便利に使う気ですね」
「使えるものは使う。だが使い潰しはしない。壊されると困るからな」
言い方は雑だが、線は引いている。
「見つけた異常はごまかすな。ギルド内に害を持ち込むな。監査が来た時点で、改めて判断する」
期限付きの保留。
味方でも、庇護でもない。だが、追い出されるよりはずっとましだった。
「断れば?」
「今日中に荷物をまとめて出ていけ。受付には俺から言う」
あまりにも事務的で、かえって清々しい。
レンはしばらく黙って、机の木目を見た。年輪の曲がり方が、どこか水の流れに似ている。
「……受けます」
そう言うと、胸の奥で何かが少しだけ沈んだ。安心なのか、諦めなのかはよく分からない。
マスターはうなずき、それから書類を脇へ避けた。
「なら、まず手を」
その一言に、レンは固まる。
「書類じゃなくて?」
「書類はあとだ。文面はいつでも逃げ道になる。先に、条件を飲んだ本人の意思を見せろ」
差し出された手は、節くれ立っていた。老いと仕事で形の変わった手だ。紙とインクと金属油の匂いがしそうな、現場と事務の両方を知っている手。
レンは自分の手袋を見た。
外すのは、好きじゃない。見られたくないし、触れられたくもない。乾いた空気の中だと、なおさらだ。
だが、ここで引いたら終わる。
ゆっくりと、指先から手袋を外した。
マスターは何も言わない。驚きもしない。ただ待っている。
レンは覚悟を決めて、素手を差し出した。
触れた瞬間、相手の手は思ったより温かかった。硬い皮膚の下に、ちゃんと血が通っている温度だ。振り払われない。それだけのことが、妙に胸に残った。
「契約成立だ」
短く言って、マスターは手を離した。
「感傷で飯は食えん。条件は文面にも残す」
「急に夢がないな」
「ギルドだからな」
すぐに仮登録証と依頼票が机の上へ並ぶ。その切り替えの速さに、レンは少しだけ気が抜けた。
マスターが差し出した依頼票には、見覚えのある文面がある。
地下水脈調査。
薄暗い湿地フロア。
封鎖の恐れあり。
「住み処を探しているなら、都合のいい仕事だろう」
レンは依頼票を受け取った。
「ただし」とマスターが続ける。
「都合のいい仕事は、だいたい面倒を連れてくる」
「ずいぶん身も蓋もない」
「経験則だ」
レンは依頼票を見下ろしたまま、小さく息を吐く。
湿っていて、暗くて、人が好んで近寄らない場所。
確かに、条件は悪くない。
「分かりました。優等生らしく、働きます」
「そうしろ。あと報告書は簡潔に書け」
「まだ言うのか……」
◇
執務室を出ると、帳場の騒がしさが少しだけ心地よかった。
受付嬢は別の冒険者の応対を終えたところで、レンに気づく。
「長かったですね」
「少しだけ」
「また難しい顔をしています」
「仕事が増えました」
「それはいつものことでは?」
言い返せない。
レンが依頼票を軽く持ち上げると、受付嬢は題目だけ見て小さく眉を上げた。
「地下水脈調査ですか。濡れますよ」
「そうみたいですね」
「走らないでくださいね。床、滑りますから」
レンはそこで、ほんの少しだけ笑った。
「今は、足元を見て歩きます」
受付嬢は一瞬きょとんとして、それからいつもの調子で帳簿をめくる。
「それなら結構です。優等生らしくどうぞ」
ギルドの蒸気管が、また白く息を吐く。
その音を背に、レンは依頼票を懐へ入れた。
監査まで二か月。
それが長いのか短いのかは、まだ分からない。
ただ少なくとも、今日のところは、ここにいていいらしかった。




