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スライムさんは、ギルドで優等生を演じています  作者: 安威要


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2/7

第2話 マスターはよく見ている

 翌朝のギルドは、昨日よりも紙の音が多かった。


 帳場では羽根ペンが忙しく走り、壁沿いの蒸気管が白い息を細く吐いている。窓の外はまだ薄曇りで、ガス灯の火も消しきられていない。煤けた煉瓦壁に朝の光が鈍く差し、濡れた外套と油、少しだけ消毒用アルコールの匂いが混ざっていた。


 レンは報告書の端を指先でそろえ、受付へ差し出した。


「旧坑道救助の報告です」


 受付嬢は受け取って、一枚目だけざっと目を通す。几帳面な字だ。内容も簡潔――と言いたいところだが、たぶん少しだけ細かい。


「……はい、受理します」


「顔が何か言ってますけど」


「『簡潔』の定義について、マスターと相談していただくべきかと」


「書くことが多かったんです」


「優等生は大変ですね」


 さらりと言われて、レンはわずかに肩をすくめた。


「今日は走る用事じゃないので安心してください」


「そういう日に限って急に呼ばれます」


「縁起でもない――」


「レンさん。マスターがお呼びです」


 間が悪すぎる。


 レンが無言になると、受付嬢は涼しい顔で書類を重ね直した。


「ほら」


「今の“ほら”は性格が悪くないですか」


「事実確認です。あと、走らないでください」


「今日は言うのが早いな……」


「学習しましたので」


 レンはため息をひとつつき、それでも足早に奥へ向かった。走ってはいない。たぶん。


     ◇


 執務室の扉を叩くと、すぐに入れという声がした。


 中は昨日と変わらず、書類と機械部品の境界が曖昧だった。机の端には分解途中の圧力弁、その横にはインク壺と古びた懐中時計。壁際の小型ボイラーが低く唸り、細い銅管を通った蒸気がときおり小さく鳴く。棚の隅には、傷薬と消毒液の瓶まで置かれていた。


 鼻の奥が、少しだけ落ち着かない。


「座れ」


 マスターは書類から目を上げずに言った。


 レンは勧められた椅子に腰を下ろした。革張りはひび割れていたが、妙に座り心地がいい。


 少しの沈黙のあと、マスターは昨日の報告書を机に置いた。


「まず聞く。お前は、何のためにここにいる」


 思っていた問いと違った。


 レンは一拍だけ、返事を遅らせる。


「働くため、ですけど」


「そういう綺麗な返答は受付でやれ」


「ひどいな」


「お前は真面目だ。真面目すぎる。優等生をやってる、って言い方のほうが似合うくらいにな」


 そこでようやく、マスターが顔を上げた。


 年老いた目だ。だが鈍ってはいない。書類の行間より、人の呼吸の乱れを見る目だった。


「何のためにギルドに入った」

「なぜ地下の依頼にばかり目を留める」

「なぜ住めそうな場所を探すみたいに仕事を選ぶ」


 机の上で、マスターの指が報告書を軽く叩く。


「昨日の救助。よくやった。だが、よくやりすぎた」


 レンは笑ってごまかそうとして、うまくいかないと悟った。


「褒め言葉として受け取っておきます」


「受け取るのは勝手だ。だが、こっちも見ている」


 報告書の別紙が一枚、机の上に滑ってくる。先行班の証言だろう。もう一枚は機材班。さらに受付がまとめた簡単な帰還記録まである。


「隔壁の下の隙間。普通の人間の指じゃ、あそこまで届かん」

「掃除屋獣も殺していない。狭所で暴れさせない判断は正しいが、やり方が妙だ」

「瓦礫越しに綱を通した腕の入り方もおかしい」

「石灰と粉塵をやたら嫌がった」

「ついでに言えば、お前は手袋を外したがらない」


 ひとつひとつは断定にならない。だが、積まれると十分に重い。


 レンは椅子の肘掛けに指を置いたまま、しばらく黙った。


「……それで?」


「それで、だ」


 マスターは背もたれに体を預ける。


「お前は何者だ、より先に聞いたはずだ。何のためにここにいる」


 問い直される。


 暴こうとしているのではない。見定めようとしているのだ、とレンは思った。


「静かに暮らせる場所が欲しいんです」


 口を開くと、思ったより声は普通だった。


「追い立てられず、余計な詮索もされず、仕事をして飯が食える場所。そういうのを探してる」

「だから地下か」


「人が好んで長居しない場所は、都合がいいので」


「湿っていて、暗くて、狭い」


「ええ。だいたい、そういう場所です」


 マスターの目が少しだけ細くなった。


「人間向きじゃないな」


 その言い方に、レンは苦く笑った。


「でしょうね」


「なら聞こう。人を害する気はあるか」


「ないです」


 今度は迷わなかった。


「少なくとも、ここで。俺はここで働いて、普通に暮らしたいだけです」


 マスターはすぐには返事をしなかった。代わりに机の端の圧力計へ目をやる。針はわずかに揺れて、青の手前を保っている。


「俺はな」


 ぽつりと、マスターが言った。


「半端者だ。人間の血と、魔族の血が半分ずつ入ってる」


 レンは顔を上げた。


「見れば分かるわけじゃない。歳もとるし、腹も減る。酒も飲める。ずいぶん人間寄りだ。だが、どっちにも綺麗には混ざれなかった」


 机の上の書類を指でそろえながら、マスターは淡々と続ける。


「人の中で人のふりをしてるやつは、なんとなく分かる。隠し方に見覚えがあるからだ」

「……便利な目ですね」

「便利というより、面倒な勘だ」


 そこで初めて、マスターの口元に少しだけ笑みが浮いた。


「お前はたぶん、スライム系統だろう。泥か粘液か、そのあたりだ。違うか」


 レンは返事をしなかった。


 否定しない、それ自体が答えになったらしい。マスターはそれ以上は追及せず、代わりに引き出しから一枚の書類を出した。


「中央ギルドの季節監査が二か月後に入る」


 机の上に置かれたそれは、監査予定の通達だった。乾いた事務の文面が並んでいる。


「監査までの二か月、お前のことは俺のところで止める」


 レンの目がわずかに動く。


「その代わり、条件がある」

「……聞きましょう」

「指名した依頼を優先しろ。地下、閉鎖区画、狭所、旧設備、救助。人間には入りづらい場所を回ってもらう」

「便利に使う気ですね」

「使えるものは使う。だが使い潰しはしない。壊されると困るからな」


 言い方は雑だが、線は引いている。


「見つけた異常はごまかすな。ギルド内に害を持ち込むな。監査が来た時点で、改めて判断する」


 期限付きの保留。


 味方でも、庇護でもない。だが、追い出されるよりはずっとましだった。


「断れば?」


「今日中に荷物をまとめて出ていけ。受付には俺から言う」


 あまりにも事務的で、かえって清々しい。


 レンはしばらく黙って、机の木目を見た。年輪の曲がり方が、どこか水の流れに似ている。


「……受けます」


 そう言うと、胸の奥で何かが少しだけ沈んだ。安心なのか、諦めなのかはよく分からない。


 マスターはうなずき、それから書類を脇へ避けた。


「なら、まず手を」


 その一言に、レンは固まる。


「書類じゃなくて?」


「書類はあとだ。文面はいつでも逃げ道になる。先に、条件を飲んだ本人の意思を見せろ」


 差し出された手は、節くれ立っていた。老いと仕事で形の変わった手だ。紙とインクと金属油の匂いがしそうな、現場と事務の両方を知っている手。


 レンは自分の手袋を見た。


 外すのは、好きじゃない。見られたくないし、触れられたくもない。乾いた空気の中だと、なおさらだ。


 だが、ここで引いたら終わる。


 ゆっくりと、指先から手袋を外した。


 マスターは何も言わない。驚きもしない。ただ待っている。


 レンは覚悟を決めて、素手を差し出した。


 触れた瞬間、相手の手は思ったより温かかった。硬い皮膚の下に、ちゃんと血が通っている温度だ。振り払われない。それだけのことが、妙に胸に残った。


「契約成立だ」


 短く言って、マスターは手を離した。


「感傷で飯は食えん。条件は文面にも残す」


「急に夢がないな」


「ギルドだからな」


 すぐに仮登録証と依頼票が机の上へ並ぶ。その切り替えの速さに、レンは少しだけ気が抜けた。


 マスターが差し出した依頼票には、見覚えのある文面がある。


 地下水脈調査。

 薄暗い湿地フロア。

 封鎖の恐れあり。


「住み処を探しているなら、都合のいい仕事だろう」


 レンは依頼票を受け取った。


「ただし」とマスターが続ける。


「都合のいい仕事は、だいたい面倒を連れてくる」


「ずいぶん身も蓋もない」


「経験則だ」


 レンは依頼票を見下ろしたまま、小さく息を吐く。


 湿っていて、暗くて、人が好んで近寄らない場所。


 確かに、条件は悪くない。


「分かりました。優等生らしく、働きます」


「そうしろ。あと報告書は簡潔に書け」


「まだ言うのか……」


     ◇


 執務室を出ると、帳場の騒がしさが少しだけ心地よかった。


 受付嬢は別の冒険者の応対を終えたところで、レンに気づく。


「長かったですね」


「少しだけ」


「また難しい顔をしています」


「仕事が増えました」


「それはいつものことでは?」


 言い返せない。


 レンが依頼票を軽く持ち上げると、受付嬢は題目だけ見て小さく眉を上げた。


「地下水脈調査ですか。濡れますよ」


「そうみたいですね」


「走らないでくださいね。床、滑りますから」


 レンはそこで、ほんの少しだけ笑った。


「今は、足元を見て歩きます」


 受付嬢は一瞬きょとんとして、それからいつもの調子で帳簿をめくる。


「それなら結構です。優等生らしくどうぞ」


 ギルドの蒸気管が、また白く息を吐く。


 その音を背に、レンは依頼票を懐へ入れた。


 監査まで二か月。

 それが長いのか短いのかは、まだ分からない。


 ただ少なくとも、今日のところは、ここにいていいらしかった。

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