第10話 合わない在庫
『走らないでください』
朝のギルドでその声を聞くと、今日も何かが止まってくれる気がする。
人でも足でも、止まるべきところで止まるのは大事だ。
レンは二階へ上がり、マスターの部屋をノックした。
「入れ」
机の上には、昨日の候補者の紙がまだ残っていた。
その上に新しく一枚、薄い金属札が置かれている。
「保留区画の確認札ですか」
「そうだ」
マスターは札を指先で押した。
「今回は帳面を見るんですか、箱を見るんですか」
「両方だ。合っていれば帰れ。合っていなければ拾ってこい」
「雑ですね」
「優等生向きに言い換えろ」
レンは少しだけ考えた。
「確認して、異常があれば報告します」
「そうだ。つまらんが正しい」
マスターは椅子にもたれたまま続ける。
「保留区画は静かだ。静かな場所ほど、ずれたものは目立つ。箱の数、置き順、印の位置。見た目がきれいでも信用するな」
「クラウスは?」
「いるはずだ。あいつは不足を埋める顔をしてる。足りないところへ出てきて、余ってるところから消える」
「便利ですね」
「使う側にはな」
昨日も似たことを聞いた気がして、レンは内心で頷いた。
「気をつけることは」
「騒ぐな。見つけても、その場で正解を言うな」
「優等生向きですね」
「珍しくな」
◇
保留区画は、倉庫の中でも妙に音が少なかった。
入口には『関係者以外立入禁止』、その内側の扉には『確認前開封禁止』の札。
同じ煉瓦造りでも、地下通路や湿地フロアとは空気が違う。乾いた紙と封蝋と麻布の匂いが、きちんと並んでいる。
きちんとしすぎている、とレンは思った。
確認台がひとつ。
秤が二つ。
奥に小さな帳場。
棚番号は見やすく振られ、箱の向きまで揃っている。
こういう場所は、雑だとすぐ怒られる。
その代わり、きれいすぎる時は別の意味で怪しい。
確認札を見せると、帳場の男は面倒そうな顔ひとつせずに通した。
「在庫確認です。三番列から七番列まで、順に」
「順に、ですか」
「何か?」
「いえ。正しいですね」
男は首を傾げたが、それ以上は言わなかった。
棚へ向かう途中、クラウスがいた。
昨日、紙の上で見た名前よりずっと薄い顔をしている。
目立たない。けれど、目立たなさを仕事にしている人間の動きだ。帳場に一言、荷受けに一言、秤の係に一言。どこへ混ざっても不自然がない。
「ギルドの確認でしたね」
声まで薄い。
聞き取りにくいわけではないのに、印象に残りにくい。
「はい」
「助かります。監査前で、こっちも神経質でして」
「お互い様です」
「三番から七番まで、順に見てもらえれば」
レンは軽く会釈した。
向こうも会釈した。
それだけのやり取りなのに、目の端でこちらの進み方を見ている感じが残った。
◇
三番列は整っていた。
箱数。札。封緘。確認印。
全部ある。しかも嫌味なくきれいだ。
レンは帳面と照らしながら、一箱ずつ順に見ていく。
表面だけなら問題はない。
だが、五箱目を持ち上げた時に手が止まった。
軽い、ではない。
持てない重さでもない。
ただ、腰に来る位置が少し違う。
同規格の箱なら、重さの乗り方はだいたい同じになる。
箱の角、持ち手の位置、中身の詰まり方。人間は全部を数字で覚えなくても、持てば分かる。
「……違う」
小さく呟いて、レンは箱を元の位置へ戻した。
隣の箱も持つ。
その隣も。
三つ並んだうち、一つだけ置いた時の石床の返り方が浅い。
中身の量か、詰め方か、箱そのものが違う。
帳面上は全部同じ扱いだ。
レンは視線を落としたまま、確認印を見る。
印自体は同じ。だが押し位置が一つだけ微妙にずれていた。
一度押して、やり直したようなにじみ方。
慌てたほどではないが、後から合わせた印の顔だった。
「何かありましたか」
声が近い。
顔を上げると、クラウスが立っていた。
相変わらず薄い笑顔で、こちらの手元だけを見ている。
「まだ数えてます」
「丁寧で助かります」
「雑だと怒られるので」
「誰にです」
「受付と上司にです」
クラウスは少しだけ笑った。
「それは大変だ」
大変そうには聞こえなかったが、感じは悪くない。
悪くないからこそ、余計に嫌だった。
「その列はあとで大丈夫ですよ」
何でもないようにクラウスが言う。
レンは手を止めずに返した。
「順に見ろと言われてるので」
「そうでしたか。失礼しました」
引くのが早い。
押しすぎない。
それが余計に、見られたくない列なんですね、と言っているようなものだった。
◇
四番列から六番列までを見る。
似たズレが、二か所あった。
ひとつは置き順。
帳面の記載順と棚の並びが、途中で一度だけ入れ替わっている。きれいに揃え直されているので、一見すると分からない。だが札の紐の癖と、棚板の擦れ方が合っていない。
もうひとつは確認台帳の印だ。
押し直しがある。しかも同じ手ではなく、別の手が上から整えたような薄い重なり方だった。
帳面の数字そのものより、帳面を正しく見せる手のほうが動いている。
レンは確認台の横で記録控えを書き写すふりをして、棚番号と箱番号のずれを控えた。
堂々と抜き書きするほどの証拠ではない。だが戻ってから照らし合わせるには足りる。
奥の秤台では、係が小箱を二つ並べていた。
保留区画の荷は、どれも外から見れば似た顔をしている。封緘があり、記号があり、正しい手順の匂いがついている。
だからこそ、その中で一箱だけ重さの乗り方が違うのは不自然だった。
「……整いすぎてるんですよね」
口の中だけで言う。
雑なら現場のせいにできる。
だがここは違う。
整えてある。整えたうえで、ずらしてある。
◇
確認を終えるころには、喉の奥が少し乾いていた。
区画の空気が悪いわけではない。むしろ清潔だ。
清潔すぎて、こちらのほうが異物みたいに感じるだけだ。
帳場へ戻ると、クラウスが控え札を受け取った。
「何か見つかりましたか」
「まだ途中です」
「そうですか」
それだけ言って、紙を受け取る指先が少しだけ止まる。
結果を知りたい人間の止まり方だった。
レンはそれを見ながら、あえて普通に続けた。
「きれいな区画ですね」
「そう見えるようにしてます」
「見えるように、ですか」
クラウスは小さく笑った。
「倉庫は見た目も仕事ですから」
その言い方は、妙に本音だった。
◇
夕方、マスターの部屋。
「で」
今日も座る前にそれだった。
レンは控えてきた棚番号と箱番号のずれを書き出し、確認印の押し直し位置も簡単に図にした。
「保留区画は整いすぎてました」
「悪い意味でか」
「はい。実物と台帳が完全には一致してません」
マスターの目が紙へ落ちる。
「どこだ」
「三番列の同規格箱。重さの乗り方が一つだけ違います。あと、置き順が台帳と合っていない列が二か所。確認印も押し直しがあります」
「数字は合ってるのか」
「見た目は合ってます。でも、合うように並べ直した感じです」
マスターは図の一点を爪で叩いた。
「クラウスは」
「見てました。しかも、あとで大丈夫だと列を飛ばさせようとしました」
「そこか」
「たぶん」
レンは肩をすくめる。
「感じはいいんですけどね」
「感じのいい調整役ほど面倒だ」
「同感です」
マスターは少し考えてから、短く言った。
「調整役じゃないな」
「はい」
「調整している側だ」
その一言で、今日見たものがきれいにまとまった。
クラウスは不足を埋める係ではない。
不足と過剰を、正しい見た目に並べ替える係だ。
「黒かどうかはまだ足りません」
「足りん。だが位置は見えた」
「次は何を見ます」
マスターは紙の上で、確認印の図を指先でなぞる。
「箱じゃない」
「はい」
「箱を正しいことにしてる手のほうだ」
印。鍵。控え。
箱そのものより、箱を正しい場所に見せるための道具のほうが、もう怪しい。
レンは小さく頷いた。
帳面と箱は、並べれば合うように見えた。
だからこそ、少しだけずれた指の跡が嫌だった。
次に見るべきなのは、箱の中身じゃない。箱を正しいことにする手のほうだ。




