第1話 走らないでください
朝のギルドは、静かに騒がしい。
帳場では羽根ペンが紙をひっかき、壁沿いの蒸気管が白く息を吐く。煤けた煉瓦壁にガス灯の黄がにじみ、濡れた外套の匂いと油の匂いが混ざっていた。圧力計の針が小さく震え、どこかでバルブがひとつ閉まる。街じゅうの工場が目を覚ます前から、ここだけはもう働いている。
「レンさん。マスターがお呼びです」
よく通る声が飛んできて、レンは反射で一歩踏み出した。
「走らないでください」
その一歩目で止められる。
受付の向こうで、いつもの受付嬢が涼しい顔をしていた。
「まだ走ってません」
「走る前の顔をしていました」
「そんなの分かるんですか」
「分かります。毎回ですので」
言い返しながらも、レンは襟を直した。こういうやり取りも、もう業務の一部みたいなものだ。
「急ぎですか」
「救助案件です。旧坑道で崩落。取り残し二名」
その一言で、レンの気持ちはすっと仕事の形になる。
受付嬢は書類を一枚抜き、事務的に告げた。
「先行班が入っていますが、隔壁が噛んで進めないそうです。詳細はマスターから」
「分かりました」
「だから走らないで」
「善処します」
「しない人の返事ですね」
返事の代わりに片手を上げて、レンは奥の執務室へ向かった。
◇
マスターの机は、今日も書類の砦だった。
脇では小型ボイラーが低く唸り、細い銅管の継ぎ目から蒸気がわずかに漏れている。インク壺の隣には古い懐中時計、机の端には分解途中の圧力弁。片付いていないのに、必要なものは全部すぐ手に取れる――そんな机だった。
マスターは顔も上げずに印を押しながら言った。
「旧坑道第四区画。崩落で二人取り残し。外鍵式の隔壁が死んでる」
「外鍵式」
「昔の罰の穴だ」
それだけで十分だった。
旧坑道は、昔は鉱脈だけではなく、人も掘っていた場所だ。規律を破った坑夫や囚人を押し込み、外から鍵を掛ける。戻れないなら、それが罰。そういう時代の造りが、いまも地下に残っている。
「崩落で枠が歪み、機構に土砂が噛んだ。機材班は後着。お前は先に行け」
「開けて、生かして、戻す」
「そうだ。あと報告書は簡潔に書け」
「そこは努力目標で」
そこで初めて、マスターが目だけ上げた。
「優等生をやるなら最後までやれ」
「努力します」
レンは一礼して部屋を出た。
紙と蒸気の熱気を背中に受けながら、足だけは少し速くなる。
◇
旧坑道は、街はずれの煉瓦工場の裏手に口を開けていた。
現場はすでに慌ただしい。担架、てこ棒、綱、石灰粉の袋、ランタン、滑車。後から据える蒸気ウィンチ用の台車まで運び込まれ、鋼索の束が濡れた地面に置かれている。
坑口から流れてくる空気は冷たく、湿っていて、それなのに崩れた石の粉でざらついていた。
「レンさん、こっちだ!」
先行班に呼ばれ、レンは坑道へ入る。
入口付近は鉄枠で補強されていたが、奥へ行くほど古い石組みに変わる。黒ずんだ煉瓦目地、錆びた金具、低い天井。通気孔から入る風が、煤と粉塵を細く舞い上げていた。
喉の奥がひりつく。
レンはそれを飲み込んだ。
問題の隔壁は、崩落土砂に半ば埋もれていた。鉄と木で組まれた古い持ち上げ戸だ。外側の鍵穴でラッチを外し、そのまま下から持ち上げる造りらしい。
「鍵は回る。だが開かん」
「枠が噛んで、ラッチも戻ってない」
「中に二人。さっきまで返事はあった」
レンは膝をつき、下端を見る。
戸と床石のあいだに、細い隙間があった。指一本も厳しい。けれど、何も通らない幅ではない。
「左右にてこ棒。ほんの少しだけ荷重を逃がしてください」
「ほんの少しって?」
「息を止めるより短く」
分かったような分からないような顔で、男たちが棒を差し込む。ぎ、と嫌な音が鳴って、隔壁がわずかに浮いた。
「灯りを左。油差しを」
鍵穴へ油を落とし、レンは手袋の指先を隙間へ押し当てた。
革越しなのに、指先は妙に薄く潰れて、するりと奥へ入っていく。
若い坑夫が一瞬だけ眉をひそめたが、レンは見ないふりをした。
奥で触れたのは、砕けた小石、湿った煤、戻りきらない鉄の爪。崩落で噛み込んだ石が、ラッチを半端な位置で止めている。まず詰まりを押し出す。次に歪んだ爪を内側から持ち上げる。
金属が乾いた音を立てて、指先を拒む。
もう少し。
手袋の中で、指が細くまとまる感覚があった。
見られたくない、とレンは思う。
「今です。右を少し」
荷重がずれた一瞬に、レンは奥の爪を外した。
かちり、と小さな音がする。
それだけで、現場の空気が変わった。
「開きます。三人、持ち上げて」
男たちが肩を入れ、レンも下から手を添える。戸は不機嫌そうにきしみ、それでも持ち上がった。人間より少し強い、そのくらいの力で足りる。
暗闇の向こうから、古い空気がどっと吐き出された。
◇
隔壁の先は、ひどく狭かった。
片側には格子の残骸。壁には鎖を繋いだ輪。ここが坑道である前に、罰を与えるための穴だったことが一目で分かる。説明されるより先に、場所の性格が伝わってくる。
「趣味が悪いな……」
誰かの呟きにかぶせるように、低い唸り声が返った。
掃除屋獣だった。犬に似た体つきで、坑内の死肉や屑を漁る厄介者。三匹。崩落で気が立っている。
「殺すな。暴れさせるほうがまずい」
レンは石灰粉の袋を受け取った。
一匹目が飛びかかる。袋を足元に叩きつけると、白い粉がぱっと広がった。目と鼻をやられた獣が首を振る、その一拍の隙に、レンは前脚の付け根へ手を差し入れる。
するりと潜って、噛み合う角度をひとつ外す。
獣は勢いを殺しきれず転がった。
二匹目には横合いから石灰。三匹目は先行班がシャベルで牽制する。狭い通路では、殺すより止めるほうが早い。肩、後脚、もう一か所。力の乗る関節だけをずらしてやると、掃除屋獣たちは低く唸るばかりで立てなくなった。
「何をしたんだ、今の」
「噛み合うところを少し」
「機械みたいに言うな」
「似たようなものです」
レンは先を急いだ。
◇
取り残されていた二人は、崩れた支保材の向こうにいた。
一人は脚を打って動けない。もう一人は無事だが、瓦礫が塞いでこちらへ来られない。大石をどかせば二次崩落の危険がある。
レンはランタンを掲げ、崩れ方を見た。
瓦礫のあいだに、細い空隙が通っている。人は無理だ。だが、細綱なら通せる。
「一番細い綱を」
受け取ると、レンは腕をその隙間へ差し込んだ。
普通なら肘で止まる角度だった。けれど、レンの腕は石と石のあいだをぬるりと向きを変え、暗がりの向こうへ伸びていく。
「……え?」
向こうの坑夫が息を呑む。
「綱です。そこに立ってる支保材へ回して。上じゃなく根元。ずれないように」
細綱を通し、向こうで回させる。こちらで本綱に結び替え、太い綱を引き込む。次に壁に残っていた古い荷揚げ用の鉄輪へかけ、角度を作る。
「五人で引いて。合図までは止めて」
レンは綱の位置を直し、荷重が一か所に寄らないよう別の細綱も通した。
「引いて!」
綱が張る。小石が鳴り、梁が半寸だけ浮く。
「止めて。次はゆっくり」
引く。止める。支える。角度を変える。
手順を細かく分けると、人は慌てない。
やがて人ひとりぶんの隙間が開いた。無事な坑夫を先に這わせ、次に負傷者へ帯を回す。レンは隙間の脇へ入り、肩と腰が引っかからないよう向きを直した。
「息を吐いて。そのまま。焦らなくていい」
呻き声と一緒に、男の体がこちらへ抜けてくる。
二人とも助け出した、その直後だった。
奥で鈍い破裂音がした。
「崩れるぞ!」
天井から粉塵が落ち、支保材が一本、乾いた音で割れる。
「撤退! 隔壁まで!」
レンは負傷者の背を押し、先行班と一緒に戻る。走りすぎない。こういう場所では、慌てた足がいちばん危ない。
背後で石が落ちる。
罰の穴は、最後まで性格が悪かった。
◇
隔壁を抜けたところで、ちょうど機材班が到着した。
小型ボイラーを積んだ台車が蒸気を吐き、ウィンチの鋼索が重く鳴る。班長が圧力計を確かめてからバルブを半開きにすると、白い蒸気が短く笛みたいな音を立てた。
「担架を吊るぞ!」
「補助綱、左右!」
「頭側、揺らすな!」
鋼索が張り、滑車が回り、担架がゆっくり持ち上がる。人力だけなら暴れる傾斜も、蒸気の力を挟むと素直だった。
レンは担架の頭側について、角度だけを見た。
「右、少し上。そこで一回止めて。……はい、通る」
負傷者が安全に坑外へ運び出されるころには、現場の空気もようやく緩んでいた。
◇
ギルドへ戻るころには、ガス灯に火が入っていた。
帳場は夕方の混雑で、朝よりさらに賑やかだ。報告に来た冒険者、食堂から流れてくるスープの匂い、濡れた靴音。受付にはいつもの嬢がいて、レンを見るなり言った。
「お帰りなさい。走らないで」
「今は歩いてます」
「帰還直後の勢いで窓口に突っ込んでくる顔です」
「そんな顔、あります?」
「あります。レンさんの顔です」
そう言って差し出されたのは一枚の控えだった。
「先行班と機材班の報告は、もうマスターに上がっています。なので、あなたはあなたの分を丁寧に書いてください」
「簡潔じゃなくて?」
「そこはマスター次第です」
レンが手を伸ばすと、受付嬢の視線がふと止まった。
手袋の甲が、石灰と粉塵で白くなっている。
乾いた感触がまだ内側に残っていて、ひどく落ち着かない。洗いたい。できれば、しばらく水に触れていたい。
それに、奥の治療卓から漂ってくる消毒用アルコールの匂いも、少し苦手だ。
レンは無意識に手を引っ込めた。
「どうかしました?」
「いえ。なんでも」
ごまかすように視線を逸らした先に、依頼掲示板があった。
新しい札が、ガス灯の下で揺れている。
『地下水脈調査
薄暗い湿地フロア
封鎖の恐れあり』
湿っていて、暗くて、人が好んで長居しない場所。
その三行を見た瞬間、レンは足を止めた。
「……レンさん?」
「次の仕事、悪くないかもと思って」
少しだけ、口元がゆるむ。
受付嬢は怪訝そうに首をかしげたが、レンはそれ以上は言わなかった。
ギルドの蒸気管が、また白く息を吐く。
その音は、今日もここで働けるという合図みたいに聞こえた。




