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存在の住所

 

 扉が消えていた。


 白一色の空間には、すでに輪郭も痕跡もない。先ほどまで確かに存在していたはずの扉が、まるで最初からこの場所に置かれていなかったかのように、跡形もなく失われている。

 ソウマは動かなかった。

 扉が消えたこと自体は、すでに理解している。

 問題は、その先だった。


「どこに、あった?」


 視線を落とす。

 足元には、白い平面が広がっている。

 床と呼ぶにはあまりにも均質で、継ぎ目も凹凸も影もなく、距離を測るための基準になりそうなものが一つとしてない。

 それでも、記憶の中には位置が残っている。

 扉は自分の正面にあった。

 右手を伸ばせば届く距離だった。

 指先が冷たい表面に触れ、押し返す硬質な抵抗を感じた。

 そのとき、自分はどこに立っていたのか。


 ソウマは目を閉じた。

 白しかない空間では、視覚よりも身体の記憶のほうが信用できる。

 右足が前。

 左足は、その半歩後ろ。

 肩は正面を向き、重心は僅かに前へ傾いていた。

 扉へ手を伸ばすために右肩を前へ出したとき、左足の踵へ体重が残っていた。

 そんな微細な感覚まで覚えている。

 曖昧な印象はない。

 自分が何を見て、どこへ歩き、どの足を先に置き、どの瞬間に身体を止めたのか、その一つ一つが身体の奥に残っている。


 ならば、再現できる。


 ソウマはゆっくりと目を開けた。

 まず、現在の立ち位置を基準にする。

 次に、両足を揃えた。

 踵の位置を合わせ、爪先の向きを揃える。

 その状態から、先ほど扉へ向かったときの動作を記憶の中から引き出していく。

 最初の一歩。

 右足。

 次に左足。

 三歩目で僅かに速度を落とし、最後に右足を置く。

 その後、身体を止める。


 ソウマはその順序を頭の中で一度確認し、歩き始めた。

 一歩。

 足裏が白い床へ触れる。

 硬い。

 沈まない。

 足を置いた瞬間、身体の重量がそのまま下へ落ち、床から一定の反発が返ってくる。

 二歩。

 左足へ重心が移る。

 右足を浮かせたとき、身体が僅かに傾き、それを無意識に腰が修正する。

 三歩。

 呼吸を止めず、そのまま進む。

 記憶の中にある歩幅と現在の歩幅を重ね合わせる。

 違いはない。

 少なくとも、身体の感覚はそう告げている。

 四歩目。

 速度を落とす。

 足を置いた瞬間、重心を中央へ戻す。

 そこで、止まった。


 ソウマは目を閉じた。

 足裏に伝わる感触を確かめる。

 右足の前方。

 左足の後方。

 踵へ残る重量。

 肩の向き。

 腰の位置。

 どれも記憶の中にあるものと一致している。

 先ほど扉の前に立っていたときと、同じ姿勢。

 ならば――。


 右手を上げる。

 肩を前へ出す。

 肘を伸ばす。

 指先を、記憶の中で扉が存在していた位置へ向ける。

 何もない。

 指先は空を掴んだ。


 ソウマは腕を戻さなかった。

 伸ばしたまま、僅かに指を動かす。

 もう少し前。

 そこにも何もない。

 僅かに上。

 何もない。

 下。

 やはり、ない。

 手を引く。

 眉間に皺が寄った。


(距離でもミスったか……?)


 まず考えたのは、それだった。

 歩数が同じでも、一歩ごとの歩幅が完全に一致しているとは限らない。

 数センチの差が積み重なれば、最後の位置がズレることはある。

 ソウマはそう判断すると、今度は歩数を基準にするのを避けた。

 足の運びを意識する。

 最初の一歩でどれだけ脚を開いたか。

 次の一歩でどこまで身体が進んだか。

 足裏の接地位置と、そこから次の足へ移った際の重心移動。

 歩くという単純な動作を、いくつもの要素へ分解する。

 身体が覚えている。

 そう思えるほど、記憶は鮮明だった。


 ソウマは再び歩き出した。

 今度は歩数ではなく、歩幅を合わせる。

 右足を出す。

 足裏の中央から爪先へ重心を移す。

 左足を置く。

 腰が前へ進む。

 右足を引き寄せる。

 身体の中心が僅かに前へ移動する。

 その動作を、記憶の中にある自分の動きと照合する。

 違和感はない。

 むしろ、先ほどよりも正確だった。

 最後の一歩を置く。

 止まる。

 そして、手を伸ばす。


 ――何もない。


 ソウマは目を細めた。

 ならば、身体の向きか。

 扉の正面に立っていたとき、自分の身体が完全に正面を向いていたとは限らない。

 ほんの僅かな角度の差があれば、伸ばした手の位置も変わる。

 ソウマは足を動かさず、腰だけを僅かに捻った。

 右へ。

 手を伸ばす。

 何もない。

 戻す。

 左へ。

 何もない。

 今度は肩の角度を変える。

 同じように腕を伸ばす。

 そこに待つのは、空白だけだ。

 そこでソウマは、身体を動かすのをやめた。

 ここまでなら、まだ説明できる。

 歩幅。

 歩数。

 身体の向き。

 どれか一つを記憶違いしている可能性は残っている。

 だが、それを確かめるために記憶を掘り下げるほど、別の異常が浮かび上がってきた。


 ――覚えすぎている。


 ソウマは、先ほど扉へ触れた瞬間を思い返した。

 扉の前へ立ったときの足の位置。

 右手を上げたときの肩の高さ。

 指先が届くまでの距離。

 触れた瞬間、僅かに腕へ返ってきた抵抗。

 押したときに動かなかったこと。

 そのとき、身体がどの方向へ傾いたか。

 冷たさを感じた場所。

 微かな音を聞いた瞬間。

 どれも、曖昧な記憶ではない。

 むしろ、異常なほど鮮明だった。


 王城で、あれほどまで曖昧にぼかされた記憶。

 物の場所さえ満足に記憶できなかったのにも関わらず、その動作の一つ一つを完璧なまでに覚えている?


「意味が分からない……けど」


 意味が分からないからといって、利用しない理由にはならない。


 だからこそ、ソウマはもう一度だけ足元を見た。

 そしてようやく状況を理解する。

 自分は、扉の位置を忘れているのではない。扉があった場所を、思い出したまま再現できないのだ。

 記憶の中には驚くほど鮮明な位置がある。しかし、それを現在の空間へ重ねた瞬間だけ、噛み合わない。

 まるで、記憶の中にだけ存在する座標を、現実側の座標へ変換できないような――そんな感覚。


 ソウマはゆっくりと一歩横へ移動した。

 足裏の接地を確かめ、身体の傾きを確認した上で、扉の位置を想定し、右手を伸ばす。

 何もない。

 さらに一歩。

 同じように身体を止める。

 腕を伸ばす。

 何もない。

 今度は反対側へ戻る。

 同じことを繰り返す。

 その途中で、ソウマはあることを確認した。


 自分が移動した距離は、確かに存在している。

 右へ進めば右へ進んだだけの距離が生まれる。

 戻れば、その分だけ元の位置へ近づく。

 足元の感触も変わらない。

 身体の動きも正常だ。

 空間そのものが不安定になっているわけではない。

 それでも、「扉があった場所」だけが、空間の中に固定できない。


 ソウマは足を止めた。

 背後を見る。

 何もない。

 正面を見る。

 何もない。

 横を見る。

 何もない。

 白だけが続いている。

 ただの白なら、まだいい。

 何もないだけなら、最初から何もなかったと判断できる。

 だが、記憶は否定している。

 あった。

 確かに、あった。

 触れた。

 押した。

 動かなかった。

 それでも、その存在を空間の中へ再現できない。


「……ん?」


 すぐに足へ力を込める。

 足裏が床を捉える。

 硬質な反発が返る。

 身体は動く。

 重心を移せば、その通りに身体も移動する。

 少なくとも、自分自身の位置は確かめられる。

 ならば――。


 ソウマはゆっくりと右足を持ち上げた。

 空中へ浮いた足を、再び床へ下ろす。

 接地。

 確かな感触。

 自分はここにいる。

 この場所に立っている。

 その事実だけは、疑いようがなかった。


 だが、次の瞬間には別の疑問が生じる。

 ――この「ここ」は、本当に先ほどの「ここ」と同じなのか。

 ソウマは顔を上げた。

 白の広がりは、どこまでも均一だった。

 距離を測るものがない。

 位置を示すものもない。

 それでも、自分の身体には確かな感覚がある。

 歩けば進む。

 止まれば止まる。

 触れれば床がある。

 手を伸ばせば、その距離だけ空間がある。

 世界は壊れていない。

 少なくとも、表面的には。

 だからこそ、異常は一点に絞られる。

 存在していたものと、その存在していた場所との間に、何かが欠けている。


 ソウマは、先ほど扉に触れた右手を見た。

 何もない。

 しかし、指先にはまだ感触が残っている。

 冷たさ。

 硬さ。

 押し返された抵抗。

 どれも曖昧ではない。

 むしろ、目の前から扉が消えた今になって、その感触だけが奇妙なほど明瞭になっていた。


 ソウマは指を一本ずつ曲げる。

 親指。

 人差し指。

 中指。

 自分の意思に従って動く。

 そこに異常はない。

 だからこそ、その手が先ほど触れたものだけを思い出せることが、不気味だった。

 扉はない。

 場所もない。

 しかし、触れたという事実だけは残っている。


「……場所だけが、ない」


 呟きが白の中へ落ちる。

 返事はなかった。

 当然だった。

 だが、その言葉を口にしたことで、ソウマの中に一つの認識が生まれた。

 扉が消えた。

 それだけではない。

 扉を「そこにあったもの」として成立させていた何かが、同時に失われている。

 もし物だけが消えたのなら、そこには空間が残る。

 壁なら壁がなくなった分だけ空間が生まれ、箱なら箱が消えた分だけ周囲との距離が変わる。

 何かが消えれば、その消失によって周囲の状態にも変化が生じる。

 だが、この場所にはそれがない。

 扉が消えた結果として生じたはずの変化すら、存在していない。

 まるで――

 扉がそこに存在していたという事実だけが、周囲との繋がりから切り離されている。

 ソウマはそこで考えを止めた。

 

 まだ断定できない。

 分からないことを分かったことにするほど、この空間を信用してはいない。

 ただ、一つだけ確かなことがある。

 自分の記憶は残っている。

 扉に触れた。

 冷たかった。

 硬かった。

 押しても動かなかった。

 そして、自分は確かにそこに立っていた。

 その記憶だけは、何度思い返しても揺らがない。

 ならば、ソウマはゆっくりと右手を前へ伸ばした。

 何もない白へ。


 今度は、消えた扉を探すためではない。

 扉そのものが残っていないのなら、別のものを探す。

 そこに立っていた自分。

 触れた自分。

 感じた自分。

 そして、その場所を覚えている自分。

 物が消えたあとにも残るものがあるのなら――

 その残されたものから、逆に消えた場所を辿れるはずだ。

 指先が、白の中で止まる。

 何も触れない。


 それでもソウマは手を引かなかった。

 目の前にあるのは、ただの白。

 だが、その白のどこかに、確かに存在していたはずのものがある。

 形ではない。

 痕跡でもない。

 ただ、自分の記憶だけが指し示している場所。


 ソウマはその一点を、今度は目ではなく――自分自身の感覚で探し始めた。


【今回のあとがき】

物理学において、ある物体が消失するとは、いったい何を意味するのでしょうか。

例えば、目の前に置かれた物体が突然姿を消したとします。私たちは、それを単純に「物体がなくなった」と表現するでしょう。しかし、物理学的に考えれば、物体の消失と、それに伴って生じる変化は区別して考える必要があります。

物体が別の場所へ移動したのであれば、移動先を探すことができます。何らかの反応によって別の物質へ変化したのであれば、その過程や生成物を調べることができます。物体が周囲へ影響を与えていたのなら、その影響が残されている可能性もあるでしょう。

つまり、物体そのものが見えなくなったからといって、それが存在していたという事実まで失われたとは限らないのです。

では、もし物体だけでなく、その物体が周囲と取り結んでいた関係まで失われたとしたら、どうなるのでしょうか。

位置、距離、接触、相互作用。私たちは、そうした関係を手掛かりにして物体の存在を認識しています。物体の輪郭を目で捉え、手で触れ、周囲との位置関係を確かめる。そうして初めて、それがどこにあり、どのような状態にあるのかを把握できるわけです。

もちろん、現実の物理学において、物体が周囲との関係を失えば、その存在そのものが消滅するというわけではありません。しかし、存在を確かめるための手掛かりが失われたとき、私たちは何を根拠に、それがそこにあったと証明すればよいのでしょうか。

存在していたものが消えたのか。

それとも、存在していたことを確かめる手段が失われただけなのか。

両者は似ているようで、まったく異なる問題です。

そして、もしその違いを判別するための基準さえ失われていたとしたら――私たちは、自分が何を失ったのかさえ、正しく認識できないのかもしれません。

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