静かな街と黒い影
城壁の前に降り立った二人は、そのまま街の門へ向かった。
上空から一気に降りてきたせいで、まだ少し足元がふらつく。ソウマは軽く膝を曲げて体勢を整えた。
ソウマは城壁を見上げる。
灰色の巨大な石壁は、近くで見るとさらに圧迫感があった。三階建ての建物より高い壁が、街をぐるりと囲んでいる。
その門の前には、当然のように衛兵たちが立っていた。剣を持ち、鎧を着込み、出入りする人々を見張っている。
そのうちの一人が二人に気付いた。
「ん?」
衛兵の視線がこちらに向いた。
「……おい、そこの二人」
呼び止められた。
ソウマは少し身構える。
だがリリアは特に気にした様子もなく、普通に歩いていく。
衛兵は二人を上から下まで見た。
服は少し土で汚れている。ソウマのズボンには草がついていた。リリアのマントも風で少し乱れている。
「外に出ていたのか?」
「そうよ」
リリアが答える。
「随分と慌ただしい戻り方だな」
ソウマが思わず苦笑する。
そりゃそうだ。さっきまで竜と戦っていたのだ。
落ち着いて見える方がおかしい。
衛兵が続ける。
「森の方で妙な音が聞こえたが、咆哮みたいな……」
ソウマとリリアが同時に少しだけ固まる。
「……」
「……」
衛兵は気づいていない様子だった。
「気のせいかもしれんがな」
リリアが軽く頷く。
「そう」
それ以上は何も言わなかった。
衛兵はしばらく二人を見ていたが、やがて頷く。
「まあいい。通っていいぞ」
二人は門をくぐった。
街の中に入る。
朝と同じく、街は活気に満ちていた。
商人の声が飛び交い、露店が並び、荷車が石畳をゴトゴトと進んでいく。
焼きたてのパンの香りも漂っていた。
この町のいつも通りの光景だった。
ソウマは思わず呟く。
「……なんか変な感じだな」
「何が?」
リリアが横を見る。
「さっきまで竜と戦ってたのに、普通すぎる」
人々は平和そうに歩き、買い物をし、会話をしている。
この街の誰も、ほんの少し前に森の近くで何が起きていたのか知らない。
リリアは少しだけ笑った。
「町なんてそんなものよ」
「そんなものか」
「そんなものそんなもの。外でどんな危険があっても、町は普通に回るものなの。そもそも知らないっていうのもあるんだろうけど」
妙に現実的な言葉だった。
ソウマは少しだけ納得する。
「……なるほどな」
二人はそのまま通りを進んだ。
冒険者ギルドは街の中央付近にある。
昨日来たばかりだが、場所はもう覚えていた。
大きな木造の建物。
入口の上には剣と盾の紋章。
冒険者ギルドの看板だ。
「行くわよ」
リリアが扉を押す。
ギィ、と音を立てて扉が開いた。
中に入ると、いつもの騒がしい空気が広がっていた。
酒の匂い。
木のテーブル。
大声で話す冒険者たち。
「おい、その依頼は俺たちが先だ!」
「ふざけんな、昨日から狙ってたんだぞ!」
あちこちでそんな会話が飛び交っている。
昨日とほとんど変わらない光景だった。
ソウマは少し安心する。
(普通だな)
受付カウンターの女性がこちらに気づいた。
昨日対応してくれた人だ。
「おかえりなさいませ。依頼の報告ですか?」
リリアが頷く。
「うん」
ソウマは袋を取り出す。
中にはスライムの核が入っている。
どうやって依頼終了の証明をするのか疑問だったが、核を持っていけばいいそうだ。
青い核をカウンターに置く。
コロン、と音を立てて転がった。
受付嬢はそれを一つずつ確認した。
「一、二、三、四……」
手際よく数えていく。
「はい、四つですね」
紙に何かを書き込んだ。
「スライム討伐依頼、達成です。初クエストお疲れさまでした」
引き出しを開け、袋を取り出す。
中から銅貨を数枚取り出した。
「こちらが報酬になります」
カウンターに置かれた銅貨が小さく光った。
ソウマはそれを見て、少しだけ嬉しくなる。
(これが初めての報酬か)
昨日この世界に来たばかりの自分が、こうして依頼をこなして報酬をもらっている。
なんだか少しだけこの世界に生きている実感が湧いてきた。
だが、リリアはその銅貨に手を伸ばさなかった。
「……それと」
受付嬢が顔を上げる。
「何でしょう?」
リリアは静かに言った。
「報告があるの」
その言葉のトーンが、少しだけ重かった。
受付嬢は何かを察したらしい。
「報告、ですか?」
周囲の冒険者たちも、少しこちらを見る。
リリアは続けた。
「森の手前で、ネグラディアを確認した」
一瞬、空気が止まった。
「……え?」
いつも無表情だった受付嬢の表情が固まる。近くにいた冒険者が聞き返す。
「今……なんて言われました?」
リリアは同じ言葉を繰り返した。
「ネグラディア」
静かな声だった。
「黒森の支配竜よ」
次の瞬間。
ざわっ。
ギルド全体が騒ぎ出した。
「おいおい嘘だろ」
「この辺に出るわけねえ」
「冗談だろ?」
声が一気に広がる。
リリアは肩をすくめた。
「そんな驚く?」
しかしあの受付嬢さえも完全に青ざめていた。
「そ、それは……本当ですか?」
ソウマが口を開く。
「本当だ」
視線が一斉にこちらに集まる。
「俺も見た」
ギルドのざわめきがさらに大きくなった。
――その時だった。
奥の部屋の扉が開いた。
重い足音が響く。
ギルドの空気が少し静まる。
一人の男が出てきた。
大柄な体格。
腕は丸太のように太い。
顎には長い髭。
鋭い目が周囲を見渡す。
誰かが小さく言った。
「……ギルドマスターだ」
「マジか」
「久しぶりに見たぞ」
大男はゆっくりと二人の前まで歩いてきた。
そして低い声で言う。
「……ネグラディアを見たと言ったな」
リリアは迷いなく頷いた。
「ええ」
大男の視線がソウマに向く。
「お前もか」
「はい」
短く答える。
大男は数秒だけ黙った。
そして言った。
「詳しく聞かせてくれ」
ギルドの中央にある長机に、ソウマとリリアは座らされた。
周囲には冒険者たちが集まり、半ば囲むようにして様子を見ている。
その前に座るのは、ギルドマスターだ。
腕を組み、二人を見下ろしている。
「……もう一度聞く」
低い声だった。
「ネグラディアを見た、と言ったな」
リリアは迷わず答えた。
「ええ」
ギルドマスターは視線を動かさず、続ける。
「場所は」
「森の手前の草原」
男の眉がわずかに動いた。
「……初心者クエストの場所か」
「そう」
周囲の冒険者たちがざわめく。
「ありえねえ」
「黒森の奥じゃないのかよ」
「なんでそんなとこに」
ギルドマスターは手を軽く上げた。
ざわめきが水を打ったように一瞬で静まる。
ソウマはその影響力に感心した。
「続けろ」
リリアは淡々と話した。
スライム討伐の最中に、森で異変があったこと。
鳥が飛び立ったこと。
その後、竜が姿を現したこと。
狼の群れを呼んだこと。
そして咆哮。
話している間、ギルドマスターは一言も口を挟まなかった。
話が終わると、腕を組んだまま少し考える。
「……狼を呼んだ、か」
ソウマが口を開く。
「数十匹はいた」
ギルド内がまたざわつく。
「そんな数かよ」
「新人じゃ死んでるだろ」
ギルドマスターがソウマを見る。
「どうやって生き延びた」
その問いに、ソウマが答えようとした瞬間だった。
「逃げたの」
リリアが先に言った。
ソウマは一瞬だけそちらを見る。
リリアは前を見続けていた。
ギルドマスターはその顔をじっと見る。
数秒、沈黙が流れる。
やがて大男は小さく息を吐いた。
「……そうか」
だが周囲の冒険者の一人が言う。
「いや、待てよ」
若い男だった。
「ネグラディアだぞ?」
「逃げられるわけねえだろ」
その言葉に何人かが頷く。
「確かにな」
「飛べる竜だぞ」
空気が少し張り詰める。
だがギルドマスターが一言言った。
「生きて戻ってきている。それが事実だ」
冒険者たちは口を閉じた。
すげえなこの人、とソウマはまたもやその影響力に舌を巻く。
大男はゆっくりと歩き出す。
ギルドの中央を数歩進み、振り返った。
「ネグラディアは本来、フェルノルドの奥深くの黒森の、さらに奥に棲む竜だ」
低い声がギルドに響く。
「この街道付近に出ることはない。そもそも、この近くの森や山には棲んでいない。この国で観測された例すらない」
ソウマは思った。
(やっぱりおかしいんだな)
男は続ける。
「奴は縄張り意識が強い。普段は自分の領域から出ない」
リリアが静かに言う。
「それでも今回は出てきた」
ギルドマスターは頷く。
「そういうことになる」
そして少しだけ目を細めた。
「もう一つ」
ソウマを見る。
「狼を従えていたと言ったな」
「ああ。竜に向かって頭を垂れていた」
ギルドマスターは確信したように言う。
「やはりネグラディアだ」
冒険者の一人が聞く。
「どういう意味だ?」
男は答える。
「奴には能力がある」
ソウマは思い出した。さっきリリアも言っていた。
「周囲の魔物を従える」
ギルドマスターが言う。
「黒森ではそれで支配者になっている。近くの魔物を呼び、従わせる厄介な竜だ」
ただ、と前置きしたあとで、
「狼数十匹だけとなると、能力が弱い」
……は?
「これで弱いのかよ……」
「いや、能力はほぼ強弱がない。つまり、そいつは成獣ではなく子供だな」
「そうね。体長も大きくなかったし、子供で間違いないわね」
二人ともよく分かるな、とソウマは少し怖くなった。
ギルドの空気が重くなる。
誰かが呟く。
「子供でももし街に来たら……」
その先は言わなかった。
想像するのも嫌だったからだ。
ギルドマスターは振り向いた。
「受付」
「はい」
「初心者依頼は当面停止」
受付の女性が頷く。
「了解です」
男は続ける。
「中級以上の冒険者を集めろ。森の調査隊を出す」
ギルドの空気が一気に動き出す。
「マジか」
「竜かよ……」
椅子から立ち上がる冒険者もいた。
ギルドマスターは再び二人を見る。
「報告ご苦労だった」
短く言う。
異常事態、と呟きながら奥の部屋へ戻っていった。
重い扉が閉まる。
ギルドの外へ出る。
夕方の光が町をオレンジ色に染めていた。
ソウマは大きく息を吐く。
「……疲れた」
リリアも軽く肩を回す。
「ほんとね」
ギルドの中の騒ぎが、まだ少し聞こえていた。
ソウマは空を見る。
雲がゆっくり流れている。
「朝はスライムだったのにな」
リリアが笑う。
「確かにそうだったわね」
二人は通りを歩き始めた。
少し沈黙が続く。
ソウマが言う。
「聞かせてもらうが」
聞こうと思っていたことだ。
「さっきの魔法」
リリアが横を見る。
「最初に出した魔法?」
ソウマは頷く。
「壁みたいなの出したやつ」
リリアはうーん、と少し考える。
「防御魔法よ。見た目より難しいの。魔力も結構使うんだから」
ソウマは感心する。
(やっぱりすごいな)
あんな攻撃を止める魔法だ。
普通じゃない。
その時、頭にあの光景が浮かんだ。
竜の体、その奥に見えた。
――線。
(……何で見えたんだ?)
思い出すだけで妙な感覚がした。
「どうしたの?」
リリアが聞く。
ソウマは少し迷う。
「いや」
口を開きかける。
「俺も……」
言いかけて、やめた。
(まだいいか)
今は、説明できる気がしなかった。
リリアも何も言わなかった。
二人は夕方の街をそのまま歩く。
やがて宿の通りが見えてきた。
その頃。
この世界の別の空間。
空間そのものが歪んでいるような、暗い空間。
上下も、遠近感も曖昧だった。
そこに何かが立っている。
長いコートのような服を着た「何か」がそこにあった。
その目の前には、空中に浮かぶ光があった。
その中にはーー
ソウマとリリアが映っていた。
「何か」はそれを静かに見ていた。
「……」
指を軽く動かす。
ソウマの姿が映る。
「やはりか……」
低い声。
「もうやめろ」
空間がわずかに揺れる。
ネグラディアが映っていた。
地面に倒れている。
「何か」はそれを見てため息を吐く。
「全て無駄なんだ……」
またソウマが映る。
「何もしなくてもいいんだ……」
指先が空中をなぞる。
その瞬間。
ソウマの視界の映像が浮かび上がる。
そこには――
世界に走る無数の線。
「何か」は頷く。
「やはりまだ見えている……」
確信の声だった。
「構造線……」
その言葉が空間に響く。
「この世界の基盤……」
「何か」は知っている。
それが何かを。それが見えていることも。
「お前はそれを見ている……」
映像の中で、ソウマが歩いている。
深刻な顔なんてしていない。
「何か」はゆっくり言う。
「もっと気にしろ……」
そして顔をしかめる。
「この世界を壊す鍵にお前かもしれないというのに……」
暗い空間に、「何か」の声が静かに響いていた。




