観測者
本日二度更新しております。
まだ読まれていない方は前話からどうぞ。
ギルドを出たとき、夜の空気は少し冷たくなっていた。
昼間は人で溢れていた通りも、今はどこか落ち着いた雰囲気に変わっている。石畳の道の上を歩く人影はまだあるが、その数は明らかに減っていた。仕事を終えた商人たち、酒場へ向かう男たち、家路につく家族連れ。
昼の喧騒とは違う、夜特有のゆったりとした時間が街に流れている。
街灯の代わりに吊るされたランタンが、橙色の光を石畳に落としていた。風が吹くたびに灯りが揺れ、影がゆっくりと形を変える。
遠くから、酒場の笑い声が聞こえた。
ガヤガヤとした声、木のジョッキがぶつかる音、酔った男の大声。通りに面した酒場の窓からは暖かな光が漏れ、楽しそうな空気が溢れていた。
ソウマはそれをぼんやりと眺める。
(……異世界だな)
改めてそう思う。
つい数時間前まで、普通の日本の高校生だった。コンビニに行って、本を読んで、学校へ通って。
そんな日常が、もう遠いもののように感じる。
今、目の前にあるのは石造りの街並みと、剣を持つ冒険者たちの世界だった。
隣を歩くリリアが、手に持った紙を軽く振る。
「やることは決まったわね」
ソウマは視線をそちらへ向ける。
それはギルドの掲示板から剥がしてきた依頼書だった。
紙には、乱雑な文字でこう書かれている。
依頼:スライム討伐
場所:ホルマン街道近郊
報酬:銅貨三枚
ソウマは苦笑した。
「初心者クエストだな」
「文句ある?」
リリアがちらりとこちらを見る。
その視線には少しだけ不満が混じっていた。
「いや、むしろ助かる」
ソウマは肩をすくめる。
今のソウマの戦闘力は、ほぼゼロに等しい。
さっきの狼型モンスターのことを思い出しただけで、背筋が少し冷たくなる。
あの巨体。
あの牙。
あの殺意。
正直、もう一度戦えと言われたら自信はない。だいぶ使える能力があるのに、だ。
あと、先ほどから気になることが一つ。
「ホルマン街道って……?」
「ここのことよ」
リリアが床を指差す。
「この道が、ホルマン街道。この辺りでは一番賑わっているわよ」
リリアが続ける。
「依頼場所へは明日の朝に出発ね」
「今日は休むのか?」
「当たり前でしょ」
リリアは呆れた顔をした。
「あなた怪我してるじゃない」
ソウマは足を見る。
モンスターに噛まれた場所。
布で巻かれているが、まだ鈍い痛みが残っていた。
歩けないほどではない。
だが、戦える状態かと言われれば微妙だ。
「さっきの戦闘、無茶しすぎ」
リリアは歩きながら言った。
「普通逃げるわよ」
「そうか?」
「そうよ」
リリアはため息をつく。
「死ぬかもしれない状況で前に出るなんてちょっとおかしいわよ」
少し間を置く。
それから。
ちらりとこちらを見る。
「……でも」
「そういうとこ、嫌いじゃない」
ソウマは思わず笑った。
「さっきも言ってたな」
「二回言ったらダメ?」
「別にいいけど」
リリアは少し頬を膨らませる。
「変な人」
その言い方は呆れているようで、どこか楽しそうでもあった。
二人は並んで歩く。
石畳に靴音が響く。
コツ、コツ、と一定のリズム。
しばらく歩くと、小さな屋台が見えてきた。
まだ明かりがついている。
炭火の赤い光が揺れていた。
香ばしい匂いが風に乗って流れてくる。
焼いた肉の匂いだ。
その時だった。
ぐうううう……
……盛大な音が鳴った。
誰かさんのお腹からだ。
リリアが止まる。
「今のは……?」
「聞かないでよ」
リリアは顔をしかめる。
数秒黙ったあと、屋台に向かって歩き出した。
「おじさん」
屋台の店主が顔を上げる。
五十代くらいの男だった。
口ひげを生やし、腕は炭火で黒く煤けている。
「いらっしゃい」
「串焼き二本お願い」
リリアは銅貨を置いた。
店主は慣れた手つきで肉をひっくり返す。
ジュッ、と脂が炭火に落ちた。
煙が上がる。
香ばしい匂いが一気に広がった。
「はいよ」
焼けた肉が渡される。
リリアは一本をソウマに差し出した。
「ほら」
ソウマは目を瞬かせた。
「……いいのか?」
「言ったでしょ、放っておけないって」
確かにそんなことを言っていた気がする。
「ただし」
「その分働いてもらうから」
リリアはあくまでも無関心であるように言う。
だが、ほんの少しだけ、目を逸らしていた。
ソウマはそれを見て、少し笑った。
「ありがとう」
素直に串焼きを受け取る。
一口かじる。
肉汁が口の中に広がった。
塩加減がちょうどいい。
それに、香ばしい炭火の風味。
「うまい」
「そうね」
リリアも串焼きをかじる。
二人は屋台の横に立ったまま食べる。
夜風が静かに吹いていた。
遠くの酒場から、まだ笑い声が聞こえる。
石畳を歩く人の足音。
荷車の軋む音。
猫がどこかで鳴いた。
この街は、生きている。
ふと、リリアが言った。
「ねえ」
「ん?」
「ソウマってさ」
少し考えて言葉を選んだくせに、
「なんか変」
「ひどいな」
「ちっ、違う違う!」
焦りながらもリリアは手を振って、誤解であることを示そうとしていた。
「悪い意味じゃないのよ、その…」
「……その?」
「うーん、言葉にしづらいなぁ……なんて言えば……そうね、勘がいい」
ソウマの動きが止まる。
リリアは続けた。
「モンスターの弱点よ。普通あんなに正確に分からない」
ソウマは少し考えた。
能力のことはまだ言えない。
だからやっぱり、
「勘だよ」
そう言ってごまかす。
リリアはじっと見てくる。
数秒。
それから笑った。
「ふーん。まあいいわ。秘密があるのはお互い様だし。あっ、私にもあるから」
さらっと言っているが、
「やっぱりか」
間が空く。
「ふぇっ?」
「あんなにギルドでも認知されて面倒な奴に絡まれて、良い意味でも悪い意味でも目立っていたのに、何もないなんて普通思わないだろ」
リリアは目を瞬かせる。
「そっ、そうね!別に隠していたとかじゃないんだから!」
そう言ってそっぽを向く。
ソウマはそれなら、と思い、
「じゃあ、教えてって言ったら教えてくれるのか?」
「いいえ、ダメよ」
割と強めに拒否される。
「えーなんで?隠してるわけじゃないんですよね、リリア様?」
「からかわないでよ!」
リリアは顔を真っ赤にしている。
一度咳払いをして、彼女はこう言った。
「今は言わない。ソウマも何か隠しているんだし。秘密を打ち明けるときは、あなたも打ち明けるときよ」
少し悪戯っぽく笑いながら、リリアは指を口のあたりで止める。
「だから、今は言わない」
そう言って笑う。
その笑顔は、戦っているときの鋭さとは全然違った。
普通の少女の顔だった。
思わず、守りたいと思ってしまう、あどけない顔だった。
その時。
風が強く吹いた。
ソウマは空を見上げる。
満月が高く昇っている。
夜空は澄んでいた。
星がいくつも瞬いている。
――その瞬間だった。
(……ん?)
違和感。
世界が、わずかに揺れた。
次の瞬間。
――世界が止まる。
風が止まった。
屋台の煙が、空中で凍りつく。
さっきまで揺れていたランタンの炎も、ぴたりと動きを止めている。
遠くから聞こえていた酒場の笑い声も消えた。
音が、ない。
完全な静寂。
まるで世界そのものが、呼吸を止めたようだった。
ソウマはゆっくり息を吐く。
「……またか」
これで何度目だろう。
死にかけたときに発動するこの現象。
「世界停止……」
世界が止まり、構造線が見える。
その瞬間だけ、ソウマは世界の「構造」に触れることができる。
目の前を見る。
リリアも止まっていた。
串焼きを持ったまま、動かない。
表情もそのまま。
瞳も瞬き一つしない。
完全な静止。
「……本当に止まってるんだよな」
小さく呟く。
何度見ても不思議だった。
世界が止まる。
だが、自分だけは止まっていない。
この能力は、一体何なのか。
(やっぱりここは、転移ものの特殊能力というのが道理か)
ソウマは空を見上げる。
その瞬間。
「……は?」
思わず声が出た。
見えた。
構造線が。
だが、いつもと違う。
桁違いだった。
空の奥。
街の上。
夜空そのものに、巨大な線が走っている。
いや。
線ではない。
そう思わせるほどの数だ。数えられるような数じゃない。
世界を走る、無数の線。
何万。
何億。
何兆。
想像もつかない数の線が、空間を縫うように走っていた。
それはまるで――
世界の骨格だった。
世界の構造図そのものだった。
建物の壁に見える構造線とは、比べ物にならない。
街全体。
いや。
もっと広い。
この世界そのものを支えているような巨大構造。
「……なんだこれ」
ソウマは呟いた。
数が多すぎる。
見ているだけで吐き気がする。
こんなものは初めて見る。
今まで見えていた構造線は、物体単位だった。
壁。
武器。
モンスター。
そういった個体の構造。
だがこれは違う。
スケールが違いすぎる。
街を包む巨大な線。
それが、ゆっくりと動いていた。
まるで生きているように。
ぞわり、と背筋に寒気が走る。
「……やばい気がする」
本能が警告していた。
見てはいけないものを見ている。
そんな感覚。
その時だった。
――声がした。
『――観測者』
ソウマの体が凍りつく。
今のは。
確かに。
声だった。
耳から聞こえたのではない。
頭の奥。
直接、意識に流れ込むような声。
ソウマは周囲を見る。
「……誰だ」
返事はない。
「誰だ、誰なんだ!答えてくれ!」
答えは返ってこない。
だが声は続く。
『……歪みを検知』
『……観測を開始』
ソウマの心臓が強く鳴る。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
嫌な予感しかしない。
『……世界構造確認』
『……干渉痕跡あり』
『……修正対象』
ソウマは息を呑んだ。
「修正……?」
何を言っている。
意味が分からない。
だが。
次の言葉で。
血の気が引いた。
『……対象確認』
ほんの一瞬。
静寂が落ちる。
それから。
『……神代ソウマ』
俺の名前が呼ばれた。
心臓が止まりそうになった。
「……は?」
頭が真っ白になる。
今。
確かに。
名前を呼ばれた。
『……異常存在』
『……観測外個体』
『……修正対象に指定』
ソウマの全身に鳥肌が立つ。呼吸が浅くなる。
「おい……待て」
何を言っている。
異常?
観測外?
修正?
意味はまったく理解できない。
だが一つだけ分かることがある。
――これは、ヤバい。
圧倒的に、理解できないレベルで、危険な何かだ。
ソウマは叫ぶ。
「待ってくれ!」
だが声は止まらない。
『……修正処理開始』
その瞬間。
空の構造線が震えた。
世界が、軋む。
ミシッ。
という音が聞こえた気がした。
空間そのものが歪む。
まるで巨大な歯車が動き出すような感覚。
ソウマは思わず固まる。
「冗談だろ……」
巨大構造線の一部が、ゆっくりと動いた。
その方向。
――ソウマへ。
背筋が凍る。
(あれ……)
(俺に向かってないか?)
冷たい汗が流れる。
もし。
もしあれが、「修正」だとしたら。
(俺……消されるのか?)
その瞬間だった。
世界が――
揺れた。
次の瞬間。
風が吹く。
煙が流れる。
酒場の笑い声が戻る。
ランタンの炎が揺れる。
――世界が動き出していた。
ソウマは呆然と立っていた。
さっきまでの巨大構造線は、もう見えない。
夜空には普通の星空が広がっている。
リリアが首を傾げた。
「ソウマ?どうしたの、急に固まって」
ソウマは答えない。
心臓の鼓動がまだ速い。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
さっきの声。
観測者。
修正。
異常存在。
頭の中で言葉がぐるぐる回る。
リリアが心配そうな顔をする。
「大丈夫?顔色悪いけど、足の痛みが…」
ソウマは遮るように首を振る。
「……いや、大丈夫だ」
嘘だった。
だが説明できない。
リリアは少し疑うような顔をした。
だが追及はしなかった。
「変なの」
そう言って歩き出す。
「ほら、宿探すわよ」
ソウマはその背中を見る。
さっきの声。
頭の奥にまだ残っている。
『……修正対象』
(……なんなんだ)
この能力。
この世界。
そして。
観測者。
まだ何も分からない。
(ーーあれ?)
そもそも何で止まったんだ?
死ぬような状況ではなかったし、頭がいっぱいで避けるとか考えてなかったけど、何もしなくても生きている。
つまり。
(俺の能力じゃない…!)
止めたのは、世界なのか、概念なのか、生きているのか、人なのか、どこにいて何をしてどういう名前なのか。
全くわからない。
(マジで分かんねぇことばかりだ)
この先がもっと不安になる。
考えても無駄だと思わざるを得なかった。
ソウマはゆっくり歩き出した。
月の下で、二人の影が、長く伸びる。
ソウマは気付かなかった。
夜空の遥か上。
人間には見えない場所で、世界の構造線が、
ほんのわずか、
動いたことを。
まるで。
何かが。
こちらを――
見ているかのように。
まるで。
この世界そのものがーー
神代ソウマを、見ているように。




