松下坂の戦い(後)
清正勢の突撃は成功した。
古土勢の前面に立っていた青山勢2千は、虎のように襲い掛かる清正勢3千の勢いに挫け、崩れた。
だが清正は、この時にこれまで感じていた違和感の正体に気付いた。
青山勢のすぐ後ろにいるはずの中備約3千は、それなりの距離を取って布陣していた。
その距離約100m程度だろうか。
だがたったそれだけで、中備は青山勢の崩壊による影響から免れていた。
清正勢が一刻の間、戦っていたのは青山勢だけだったのだ。
残り6千はまったくの無傷。
そして彼らに混乱はない。
つまり──
遠くに馬瀬勢の指物旗が見えた。
松林の出口で倍ほどの敵と槍を交えている。
退いていないのは見事だったが、敵本陣に混乱は見られない。
まったく見られなかった。
──つまり、奇襲は失敗していたのだ。
どうやってか古土元康はこちらの手を読んでいた。
待ち構えていた正面の3千が、一斉に槍を立てた。
だが、それに構わず清正は叫んだ。
「押せぇッ!進めぇ!勝機は今ぞ!!」
もはや突撃は止められない。
よしんば止められても、退がろうとするときに突かれて崩れてしまう。
ならば一か八か、このまま続けるしかない。
「進めぇ!!押せぇ!!」
主将の檄が効いたのか、清正勢の突撃を受けて古土勢は大きく押された。
いける。このまま突破できれば元康の本陣を……。
その時、清正勢左翼の足軽たちが崩れるのが見えた。
「何故だ!なぜ退がるのか!進めぇ!」
だが左翼の崩壊は止まらない。
一部の足軽たちは槍を捨てて逃げ出し始めている。
守明がなにか言っているのを無視して清正は叫んだ。
「下がるなぁ!!」
「殿!横槍です!」
守明が清正の耳元で怒鳴るように叫んだ。
守明の言葉に首を巡らす。
左翼は横隊の左側から敵の攻撃を受けている。
松林の影に隠れていた伏兵、千程度の敵勢が左翼を突き崩していた。
横隊は正面にいる敵と戦う陣形だ。
横からの攻撃には脆い。
さらに突撃のせいで兵の目は正面の敵勢にしか向いていなかった。
突如横から襲い掛かってきた敵の心理的衝撃は、莫大だ。
清正は手勢の突撃の勢いが急激に弱まっていくのがわかった。
「すべて、古土元康の手の平の上であったか」
清正は息を吐くような声でつぶやいた。
「殿!お逃げを!もはや勝機はありません!」
守明の言葉を無視して清正は傍の足軽に命じた。
「総返しだ!」
頷いた足軽がすぐに法螺貝を吹く。
総撤退の合図だ。
足軽大将や小頭たちが、逃げ出そうとする足軽たちを叱咤し、なんとか統制を保ちつつ退こうとしていた。
「殿は私めが!」
「主には荷が勝つわ」
守明の言葉を清正は鼻で笑うと
「馬廻り!続けェッ!」
それだけ叫んで、護衛戦力、約300を率いて味方を逃がす絶望的な後衛戦闘を開始した。
「勝った」
古土元康は崩れ、逃げ散り始めた清正勢を見ながらつぶやいた。
古土勢は清正勢に追撃をかけはじめている。
殿だろう小勢が必死に戦っているのが見えた。
「殿の読んだ通りでしたな」
「まぁね」
元康は重臣である岡上信元の言葉に頷いた。
「しかし、なぜここまでお判りに?」
「難しいことじゃないよ」
元康は頬を搔きながら答えた。
「佐登清正は優れた武将だ。勝機もないのに戦わない」
元康はたった今打ち負かした敵将を褒めた。
「なら、必ずなにか手を打つ。それがわかっているならなにをされても大丈夫なように備えるだけさ」
「だから手元に2千も残していたのですか」
うん、と子供の様な声で元康は頷いた。
なにかあった時に便利に使える戦力、予備隊は総兵力の1割程度が望ましいという経験則がある。
これに従うなら、古土勢の予備隊は千程度でよかった。
だが元康は意図的にそれを倍に増やしていたのだった。
そのうち500は物見として周辺警戒に使うことで、迂回してきた馬瀬勢を余裕をもって見つけていた。
「伏兵も御見事でした」
「青山には悪いことをしたけどね。なにか報いてやらないと」
さて、と伸びをすると
「どこまで攻めようかな」
その目はひどく遠くを見ているように信元には思えた。
その時、本陣に伝令が駆け込んできた。
「恐れながら!」
汗だくのまま、伝令は懐から書状を取り出した。
書状を受け取った信元は、眉間にしわを寄せると
「殿、小荷駄が」
元康に書状を差し出した。
元康はさっと内容に目を通す。
そこには小荷駄隊が小勢の武士に襲われていることが記されていた。
敵は逃げ足が速く良いようにやられているらしい。
既に何隊もの小荷駄衆がやられている。
小荷駄の護衛にまで武士を割けなかったこちらの弱点を敵は突いてきた。
「よし、撤退しよう」
元康は書状を折りたたむとなんでもないことのように言った。
「よろしいので?」
「飯が届かないと進めない。略奪もいいけど、今回は数が多いからね」
一万近い軍勢を略奪だけで維持することは非効率、と言っていた。
「小荷駄の護衛を増やすか討伐隊を組織すれば……」
信元の言葉に元康は首を振った。
「潜り込んだ敵が何隊いるかわからない。それにこれに対処できるだけ武士を割けば城攻めに手間取るよ」
信元は頷いた。
確かに、小勢と言えど武士の集団だ。この小勢を確実に殲滅できるだけの軍勢をいくつもつくらなければならないとなると……、武士だけで千は必要かもしれない。
そこまでの余裕は流石にない。
「今なら勝ったという印象だけで帰れますな」
「ああ。それに」
「なんでしょうか」
「ここまで負けたら佐登はこれまで通りにはいられないだろうね」
元康はそれだけ言うと近習に撤退の指示を出し始めた。
吉家にあとを任せて上牧城に戻ると、既にそこは騒然としていた。
色んな人があちこち駆けまわっていて、負傷した人がそこここに座り込んでいる。
正直これだけ大きな戦のあとの光景を見たのは初めてなせいで、殿様の軍勢が勝ったのか負けたのかもわからない。
どう進んでいいかわからないくらい混乱している城内で、とにかく清継の場所を聞こうと適当な人に声を掛けようとした時、後ろから肩を掴まれた。




