07:選ぶ道の先……
鉛のような不安がプリシラの胸に滲み始める。
新たな人生を掴み取るための第一歩だが、もしかしたらより陰惨な結末へと続く道を選ぼうとしているのかもしれない。その陰惨な結末にイヴを巻き込まないという保証はない。
六年後の死が早まり、更にそこにイヴまで……。
岩肌に歪な体勢で転がる己の死体。その隣には並ぶようにして息を引き取るイヴ。
プリシラの銀色の髪とイヴの茶色の髪が絡み合い、真っ赤に染まる……。
そんな光景を想像した瞬間、プリシラの背をぞっと怖気が走った。
抱いた闘志が一瞬にして恐怖に変わる。赤い絨毯の敷かれた見慣れた通路が、まるで悍ましい結末へと続いているような錯覚さえ覚える。
胸に満ちる恐怖と躊躇いに体を支配されズリと僅かに足を引けば、突然立ち止まったプリシラを案じてイヴが名前を呼んできた。
「プリシラ様?」
「……イヴ、私、貴女にそばに居て欲しいと思ってる。この屋敷の中で信頼できるのはイヴだけだわ。だから今からダレンに話をして、貴女への命令を覆そうと思ってるの」
プリシラが話せば、困惑していたイヴの表情が明るくなる。
主人が自分のためにそこまで……、と考えたのだろう。だがそんなイヴの表情を見てもなお、むしろイヴが喜んでくれたからこそ、プリシラの胸に躊躇いが増す。
「だけどここでイヴを私のそばに残したら、辛い生活を強いてしまうかもしれないわ。……今だって屋敷の中で孤立しかけているでしょう?」
プリシラの問いにイヴが小さく息を呑んだ。ふいに視線を逸らすが、それが何よりの肯定である。
事実、イヴはフィンスター家の使い達の中で孤立し始めていた。
だがそこに彼女の非は一切無い。
孤立し始めているのはひとえにイヴがダレンの指示に背いてプリシラに誠心誠意仕えているからだ。もしかしたらダレンが直々にイヴを孤立させるようにメイド達に命じているのかもしれない。
だがそれでもイヴは屈せず、その果てに、ダレンに目を付けられて遠方に追いやられようとしている。
そうはさせまいと今まさにダレンの執務室に向かっているのだが、はたしてそれは正解なのだろうか?
(前回の人生では遠方に行ったイヴとは連絡が取れなくなった。もしかしたら、ここに残るより幸せな人生を歩んでいたのかもしれない)
最悪な結末への道筋こそ分かれども、それを回避する術も分からず、回避のために取った術がどこに繋がるかも分からない。
目先の不幸を回避するためのこの行動は、その一歩先に潜む災いに足を踏み込む愚行ではないのか?
そんな不安に言い淀めば、話の続きを担うようにイヴがプリシラを呼んだ。彼女の手がプリシラの手をそっと優しく握ってくる。
「私もプリシラ様のお側に居たいと思っています」
「……イヴ、良いの? 私の決断に貴女を巻き込んでしまうかも」
「私を側に置くために勇み立ってくださる強いプリシラ様を信じています。それに、どれだけ屋敷の中で孤立しようと、私にはプリシラ様がいますから」
イヴの口調ははっきりとしている。
彼女の言葉に背を押され、プリシラは彼女の手を一度強く握り返すとゆっくりと息を吸いこんだ。胸の内に燻る不安ごと深く吐き出せば体が軽くなった気さえしてくる。
決意を新たに「部屋で待っていて」とイヴに告げれば、彼女は瞳を見つめてきた後にゆっくりと頷いて返してきた。
◆◆◆
ダレンの執務室に入ると、そこには不機嫌を露わにした部屋の主が居た。
卓上には書類と分厚い本が置かれており仕事の最中だったことが一目で分かる。その光景だけを見れば立派な貴族だ。
『他所の女のところに入り浸ってばかりじゃなかったのね』という嫌味が一瞬プリシラの頭に浮かんだが、流石にこれは言うまいと飲み込んだ。
ダレンには屈しないと決めた。恐れず抗うつもりだ。かといって一時の感情任せに争いの火種を投下する気は無い。
「少しお話よろしいでしょうか」
「今日は部屋から出るなと言っておいたはずだが」
碌に返事もせず威圧的に告げてくるダレンに、プリシラは冷静に「伺っています」とだけ返した。
確かに命じられた。だが従うとは言っていないし従う義理は無い。
「ですが私のイヴを勝手に遠方の親族の元へやるなどと聞かされれば、誰だって部屋から出るというもの。どういう事かお聞かせください」
はっきりとした口調で、それでいて責める色はまだ見せずにプリシラが淡々と告げれば、ダレンの眉間の皺がより深くなった。
生意気な、と彼の声にはしない言葉を聞いた気がする。睨みつけてくる目が彼の苛立ちをこれでもかと物語っており、わざとらしく深く吐き出された溜息がこちらに圧を与える。
こうやって不機嫌を露わにして相手を委縮させるのはダレンのよくやる手段だ。
そうすれば周囲が自分の意を汲んで引き下がってくれることをダレンは良く知っている。無言の訴え、まるで拗ねる子供のようだが、そこに子供の可愛さや無邪気さはない。
「どういう事かと問われても、イヴに話した通りだ。人手が足りないから誰か寄越してくれと言われて応じた」
「では他の者でもよろしいではありませんか」
「他の者には仕事がある」
「イヴには私の身の回りの手伝いという仕事があります。この家の夫人を支える立派な仕事です」
「夫人……?」
プリシラの言葉を聞き、ダレンが鼻で笑った。
夫に見向きもされずメイド達からも蔑ろにされているプリシラが伯爵夫人を名乗っている事を嘲笑ったのだ。
その態度も表情もプリシラの胸に不快感を湧かせるが、今はこの男の一挙一動に左右されている場合ではない。そうプリシラは己に言い聞かせ、ダレンの嘲笑には気付かない事にした。
「イヴは私の側仕えです。それを相談も無しに遠方に追いやろうとは理不尽ではありませんか。それにイヴはアミール家が雇った侍女で私が任されておりますので、勝手な命令を下されては困ります」
「勝手だと?」
「えぇ、理不尽で勝手な命令です。なのでこの度の命令は引き下げさせて頂きます。人手が足りないというのならどうぞ他の者をやってください」
他のメイドならば誰がどこに行こうが構わない。そんな『どうぞご自由に』という想いを込めて告げれば、察したのだろうダレンが表情を渋くさせた。
だが反論をしてこないあたりプリシラの言い分が正しい事は理解しているのだろう。それにここで押し通せば話はフィンター家だけでは済まず、プリシラの生家アミール家にまで及ぶ。
そこから更に件の親族にと話が回っていく可能性は高い。
仮に遠方の親戚とやらが「そこまで無理をして人を寄越さなくて良い」とでも言い出そうものなら、ダレンの立つ瀬は無くなるだろう。早合点で嫁の側仕えを生家の断りも無しに遠方にやった、というのは体裁が悪い。
ここは引くべきと考えたのか、ダレンは一度プリシラを睨みつけるだけで「そうか」と告げてきた。
了承の言葉でもあるが、もう話すなと相手の口を噤ませる言葉でもある。ダレンが良く使う手段だ。
その後は何も言わずに視線を書類に落としてしまう。これ以上なにも話す事は無いと言いたげな態度、纏う空気で退室を促しているのだ。以前のプリシラならばこの空気に気圧されて部屋から逃げ出していただろう。
だがまだ話は終わりではない。