61:ジュノ・フィンスター
ダレン・フィンスターの自殺未遂。
それを話す男の語りは妙にうまく、プリシラも思わず聞き入ってしまった。
次いでプリシラはオリバーと顔を見合わせた。彼も神妙な顔をしており、この話に言葉もないと言いたげだ。それでもテーブルの上に置かれたプリシラの手に己の手を重ねてくるのは、きっとプリシラを案じてだろう。
彼の大きな手に包まれると心と体が温かくなり、脳裏にあった海の冷たさが消えていく。
「ダレンが……、いえ、ダレン・フィンスターが……。彼はその後どうなったの?」
「随分と酷い怪我を負ったようですが、命に別状はないそうです。ただ傷はだいぶ残るって話ですよ。心臓も悪くしてその原因も分からないって言うのに、そのうえ怪我なんて……」
「そう……。ただでさえ大変なのに辛いわね」
穏やかな声色でプリシラが告げれば、店主と男もまた深刻な表情で同意してくる。
といってもそこに哀れみの色はない。
そんな二人に別れの挨拶を告げ、プリシラはオリバーと共に店を出ようとした。二人が快く見送ってくれる。
そうして店を出ようとし……、だが扉が閉まる直前、ふいにプリシラは足を止めた。
扉を掴み、「あの!」と店内にいる二人に声を掛けた。彼等が驚き、それどころか扉を押さえていたオリバーまでもが「プリシラ様?」とこの行動に疑問を抱く。
「あの、ダレン・フィンスターの子供は……。彼の息子は……」
「ダレン様の息子? エリゼオ様ですか? エリゼオ様についてなら先程」
「いえ、エリゼオじゃないの。ダレンと前妻の子供、ジュノよ。ジュノ・フィンスター」
プリシラがジュノの名前を口にする。
それに対して、店主と男は不思議そうな表情を浮かべ……、
「ジュノという名前は聞いたことがないですね」
「ダレン様は前妻とも二人目の奥様とも子供は作っていませんし、子供はエリゼオ様だけですよ。どこかの家とお間違えでは」
そう不思議そうに、それでもはっきりと、
ジュノ・フィンスターの存在を否定した。
◆◆◆
店を出てしばらく歩き、プリシラは深く息を吐いた。
考えるのは店を出る直前に交わした会話。ジュノについて問うプリシラに対して、店主達は不思議そうな表情を浮かべ、そしてプリシラの問いの意味が分からないと言いたげに返した。
彼等の言葉が、そして今まで告げられてきた同等の言葉が、プリシラの頭の中に浮かんでは消える。
「ジュノ……。どうして皆ジュノの事を覚えていないのかしら…」
弱々しく呟けば、隣を歩くオリバーがそっと肩を撫でてくれた。
「お辛いとは思いますが、クローディア様が『いつか会える』と仰っています。どうかお気を落とさず」
「そうね。クローディアが言っているなら大丈夫だわ。……でも、どうしてもふとした瞬間にジュノのことを考えてしまうの」
隠し切れぬ不安と心配を吐き出すように溜息を吐き、その名前を小さく呟いた。
ジュノ・フィンスター。ダレンと前妻の子供、フィンスター家の跡継ぎだったはずの少年。
プリシラがジュノと出会った時、プリシラはまだ十六歳、ジュノも六歳と幼かった。
もとより母と子という年齢差ではなく、最初の六年間ではプリシラも己を護るのに必死で気に掛けてやれなかった。
その末に、プリシラはジュノの目の前で崖から突き落とされて殺されたのだ。
あの時の冷ややかなジュノの瞳、母の死を目の当たりにしても浮かべた嘲笑の笑み……。ダレンからプリシラ殺害の話は聞いていただろう。聞いたうえで、彼は見届けるために崖の上に立ったのだ。
だが今プリシラが再会を願っているのはあのジュノではない。
二度目の六年間で親子の関係を築き、自分を『お母様』と呼んで慕ってくれた、可愛い息子のジュノだ。
騒動と好奇の視線から逃すため地方へと向かわされた以降は手紙のやりとりのみだったが、ジュノは小まめに手紙をくれた。友達が出来た、楽しく暮らせている、渡り鳥を見た、こんな遊びをした……、日常であった大きなことから些細なことまで全てを書き綴ってくれた。
愛に溢れた手紙だ。それを読むたび、返事を書くたび、ジュノへの愛が募っていった。
柔らかな金の髪も、
美しい青い瞳も、
まるで天使のような愛らしい顔立ちも、
自分に向けてくれる笑顔も、
「お母様」と呼んでくれる声も、
なにもかも鮮明に思い出せる。
「私は覚えているわ。私の可愛いジュノ。オリバー、貴方も覚えているでしょう?」
「えぇ、もちろんです。覚えています」
「そうよね。なのにどうして……」
プリシラとオリバーは覚えているのに、他の者達の記憶からジュノは消えてしまった。
先程の洋菓子屋の店主やその友人、それ以前にもプリシラが聞いて回った者達、かつてジュノと親しくしていた貴族の子息にも聞いてみた。それどころか、フィンスター家の者にも、人伝ながらにジュノを覚えているかを確認した。
それでも誰も覚えていないのだ。
最初からジュノ・フィンスターという人物が居なかったように、それは誰の事かと尋ね返してくる。
……イヴまでも。
以前に会いに行った時、彼女は再会を涙ながらに喜んでくれた。他の者達がプリシラについての記憶があやふやになっているのに、イヴだけははっきりとプリシラを認識してくれていた。
だがやはりジュノの事だけは、まるで記憶に穴が空いているかのように覚えていなかったのだ。「ジュノ様……?」と首を傾げるイヴの姿は今も覚えている。
あの瞬間、もとより不安を抱いていたプリシラの心は押し潰されかのような痛みを覚えた。
「いつになったら会えるのかしら……。ジュノは無事なのかしら。どうしてあの子だけ……。私のせい? 私が時間を戻したから……」
「プリシラ様、落ち着いてください。落ち着かないのなら今日もクローディア様にお伺いしてみましょう。何か教えて頂けるかもしれません」
「そうね……。ありがとう、オリバー」
「俺が出来るのはプリシラ様を慰めることだけです。ですがお側に居ります。プリシラ様がジュノ様と会える日まで、もちろんそれ以降もずっと、俺は変わらず隣に居ます」
穏やかでいて強い意志が感じられるオリバーの言葉。
それに励まされ、プリシラは彼に頷いて返した。




