57:プリシラ・フィンスターからプリシラへ
フィンスター家に戻ってからは前回となんら変わりは無かった。
ダレンに呼び出されて彼に海へと誘われる。もちろん今回もプリシラははっきりと拒否をした。
不満そうなダレンの顔も変化はない。
そんな彼とのやりとりの末、
「あるいは、私を崖下に突き落として殺すのかしら」
そう告げて、動揺するダレンを他所にプリシラは部屋を出て行った。
消した七時間と同じようにその後は自室で過ごし、頃合いを見て庭へと出て行った。
声を掛けてきたのはダレンの側近の男だ。彼は今回もまた「イヴがお呼びです」と告げてくる。
イヴがもうフィンスター家の屋敷には居ないことを知りもせず。詰めの甘さを鼻で笑いたくなるのを押さえ、プリシラは静かに「そう」とだけ返した。
「屋敷の裏手に来てほしい、と伝言を預かっております」
「分かったわ」
プリシラが了承の返事をすれば、男が一礼して去っていく。
首尾よくプリシラを誘導できたとダレンに報告に行くのか、それともナイフを取りに行くのか。それとも同じようにオリバーを呼び出しに行くのだろうか。
「……オリバー。そうだわ、彼はどうするのかしら」
先程話しかけてきた男はイヴが故郷に戻ったことを知らない。
きっとプリシラと共にフィンスター家に帰って来て、屋敷のどこかに居ると考えているのだろう。ゆえにプリシラを呼び出すのにイヴの名を出したのだ。
だがオリバーはイヴが既に屋敷に居ないことを知っている。ゆえに男に「イヴが呼んでいる」と言われても応じるわけがない。
何らかの企みがあると察し、もしかしたらその場で虚偽を暴くかもしれない。
「そうなったら何か変わるのかしら」
首を傾げつつ疑問を口にする。だが当然だが答えはなく、今のプリシラには知りようもない。
何かしなくては。今からオリバーを探そうか……。だがそうは思えども、今から彼を探しても間に合わない気がする。
それに不思議な話だが、オリバーに関しては根拠のない『大丈夫』という気持ちが湧くのだ。
イヴに対してはあれだけ申し訳なさが湧き、今彼女はどうしているか、辻馬車に無事に乗れたか、雨に降られたら……、と考えれば考えるだけ不安と心配が募っていくというのに。
なにより、この後の展開でオリバーに危険が、それも命を落とす危険が迫っていると分かっているのに。
「不思議だわ……」
妙に落ち着いている胸元に手を添え、プリシラは疑問を抱いたまま屋敷の裏手へと向かった。
当然だが、屋敷の裏手の景色は消えた七時間前となんら変化はない。変わらず鬱蒼としている。
そんな屋敷の裏手にオリバーの姿を見つけ、プリシラは彼の名前を呼びながら近付いていった。
「オリバー、どうしてここに?」
「イヴが呼んでいると聞いて」
「イヴが……。でも」
イヴは故郷へと向かっていった。それを共に見送ったではないか。
そうプリシラが問おうとするも、葉擦れの音が聞こえて言葉を止めた。
現れたのは、顔に一切の感情を宿さず瞳だけを妙にぎらつかせるダレンと、憎悪とさえ言える悪感情に顔を歪ませるセリーヌ。
対極的な二人を見るのは二度目だ。一度目は気持ち悪さを抱いたが、今のプリシラの胸中は落ち着いている。
むしろこの先の事を、『|これから起こるはずだった事《消えた七時間》』と『これから起こる事』を考えると、二人には哀れみめいた感情さえあった。もちろん純粋な同情ではないが。
「プリシラ、やっぱりお前は……、その男と……。それなのに俺を陥れて。何様のつもりなんだ」
告げてくるダレンの言葉は消した七時間のものとそっくり同じだ。
それに対してプリシラもまた同じように返してやる。
「それじゃあ、私は部屋に戻るから」
あっさりとダレン達との会話を終わらせ、自室に戻ろうと踵を返す。
だがその瞬間、何かが……、否、一人の男が視界の隅から飛び込んできた。
ナイフを片手に。
オリバーへと手を伸ばし、彼を羽交い絞めにし胸元にナイフを突き立てるために……。
だが男の持つナイフはオリバーを刺すに至らず、彼の胸元に届く直前にピタリと止まった。
男の手首をオリバーが掴んだのだ。不意を突いたつもりが捕らえられ、男の顔が驚愕で歪む。見開かれた目がオリバーを凝視した。
「なっ……、なんで……」
「俺を殺すことで逃げる許可を貰ったんだろう。残念だったな」
「どうしてそれを……! やめろっ、放せ!」
男の声は悲鳴じみており、しきりにもがき、オリバーが手を放すとその勢いのままに倒れ込んだ。驚愕で腰でも抜かしたか、腰を地面につけたままズリと地面を蹴って後退ろうとする。
そんな男を一瞥し、次いでプリシラはダレン達へと視線をやった。セリーヌは動揺を露わにオリバーを見ており、ダレンの顔も僅かながらに歪んでいる。
「な、なによ……。どうして、そんな……! ダレン、どうするのよ! ねぇ、ダレン!」
ヒステリックな金切り声でセリーヌが喚くがダレンは返事をしない。
そんな二人を他所に、オリバーがプリシラへと向き直った。色濃い瞳がじっとプリシラを見つめてくる。
「オリバー、あなた……」
「すべて思い出しました。プリシラ様を守り切れずに死んだことも、プリシラ様と出会わずに過ごした、無くなった六年間のことも」
「……時戻しのことを?」
「『時戻し』と呼ぶんですね。それは知りませんでした」
普通であればあり得ないことを話しているのに、オリバーの口調も態度も落ち着いている。
そんな彼の態度に、プリシラは小さく笑みを零した。
「私の時は随分と慌てたのに、貴方は落ち着いているのね」
この状況がなんだか面白くなってプリシラがクスクスと笑いながら話せば、オリバーも苦笑して返してきた。
一瞬だが空気が和らぐ。だがすぐさま「なによあんたたち!」と金切り声が割って入ってきた。
セリーヌだ。彼女は麗しかった顔を跡形もないほどに歪ませ、プリシラ達を睨みつけている。
隣に立つダレンは彼女のように怒鳴りはしないものの嫌悪の色が濃く、プリシラがゆっくりと彼等の方へと向くと露骨に顔を顰めた。
「物盗りが来てくれなくて残念ね、ダレン」
「それは……。プリシラ、お前やはり」
「私がすべて壊したって言いたいんでしょう? だから貴方の望む通りに壊してあげたのよ。物盗りの計画も、貴方達の今後も、この男の自由も」
話しつつ、プリシラはチラと地面に腰を落としたままの男に視線をやった。
淡々と話すプリシラが恐ろしくなったのか、男は「ひっ」と小さな悲鳴を上げて身を竦ませている。もはや反論をする気もないのだろう。フィンスター家からの解放を望んで共犯者に成り下がったのに残念なことだ。
もちろん今のプリシラにはこの男を救う気もなく、再び視線をダレン達へと戻した。
「でもね、ダレン。プリシラ・フィンスターを壊したのは間違いなく貴方なのよ」
「は……? 何を言ってるんだ」
「私をプリシラ・フィンスターのままで居させたら、こんなに酷い事にはならなかったのに。馬鹿な男」
「なにをいってるんだ。お前がすべて悪いんだろう!」
ダレンの顔に一瞬にして怒りが宿り、荒々しく怒鳴りつけてきた。
消えた六年間のプリシラだったなら怯えたであろう怒鳴り声。二度目の六年間のプリシラにとっては聞き飽きたもので呆れを抱かせる声。
そして今のプリシラにはまるでそよ風のようだ。
「行きましょう、オリバー」
片手を差し出せば彼がそっと手を取ってくれる。
そうして歩き出そうとしたところ、「この化け物が!」とダレンの声が響いた。
振り返れば、彼はナイフを手にこちらへと駆け寄ってきている。男が手にしていたナイフとは違う、装飾が施されたナイフ。消した七時間でプリシラの胸を突いたナイフだ。
その刃がプリシラへと迫り……、
だが次の瞬間、ダレンがその場に頽れた。
「う、ぐっ……、うぅ」
胸元を掴み目を見開き、荒い呼吸を繰り返す。丸めた背が激しく揺れる。呼吸がままならないのか口の端に唾液が溜まり、地面に落ちた。
「ダレン!」とセリーヌが名を呼んで駆け寄るが、今のダレンにはそれに応える余裕はない。痛みに胸を掻きむしり、それでもと顔だけを上げてプリシラを見つめてきた。
見開かれた目。歪んだ口元が何かを言おうとするが、喉から出るのは歪な音だけだ。
「とことん悪手を選ぶのね、ダレン」
苦しむダレンを見下ろしながら静かに告げ、プリシラはオリバーと共に屋敷の裏手を去っていった。
◆◆◆
フィンスター家の屋敷は妙に静まり返っていた。
元より活気のない静かな屋敷ではあったが、今日は特にだ。表の庭に出ても誰も居ない。
ダレンから外に出るなと命じられていたのだろう。それがなくとも屋敷勤めの者達は外を恐れて出るのを嫌がり、どの窓もカーテンがぴったりと閉められている。
「プリシラ様、傘をお持ちしました」
オリバーが片手に持った傘を軽く掲げる。
飾り気のないシンプルな黒一色の傘だ。それを差してプリシラに寄せてくる。
プリシラはそれに感謝を告げて、自らもまた彼に身を寄せた。腕が、肩が、彼に触れる。
そうして二人並んで歩き、フィンスター家の門を抜けた直後、オリバーが足を止めた。
深く息を吐き、僅かに俯く。
「オリバー、どうしたの?」
「いえ、少し……、だいぶ緊張していたので、屋敷を抜けたら一気に力が抜けてしまって」
「随分と落ち着いていて、緊張しているようには見えなかったけど」
「見栄を張っていたんです。プリシラ様の隣に立つのに混乱しっぱなしでは様になりませんから。とにかく落ち着いて、冷静を保って、と自分に言い聞かせていました」
気恥ずかしそうに話し、オリバーが頭を掻いた。
その仕草にプリシラはきょとんと目を丸くさせ……、そしてふっと噴き出すと声をあげて笑ってしまった。
まさかあの場で、自分の隣で、そんな葛藤があったなんて。
「そうだったのね、無理をしなくても良かったのに」
「プリシラ様の隣に立って見劣りせずに居たかったんです。ようやく、愛するプリシラ様の隣に堂々と立てるようになったんですから」
「……オリバー」
彼からの『愛』という言葉に、プリシラは小さく息を呑んだ。
「……もう、伝えても良いんですよね?」
「えぇ、もう大丈夫よ」
「愛しています。プリシラ様を誰よりも、心の底から、愛しています。ずっとお伝えしたかった。愛しています」
プリシラの返事を聞くとすぐに、むしろ返事に被さるぐらいの勢いで、オリバーが愛の言葉を告げてくる。まるで今まで押し留めていたのを解き放つかのように。
その言葉にプリシラは目を細め、そっと手を伸ばすと彼の手に触れた。
何度この手に触れたいと思ったことか。客車に乗り込む時に支えるためではなく、ちゃんと、互いの意志で、指を絡めて繋ぎたかった。
「私も伝えたかった。愛してるわ、オリバー」
「ずっとおそばに居ります。プリシラ様がどこに行こうとも」
「それじゃあ、まずは傘を買いに行くのに着いてきてくれるかしら」
「傘?」
この返答は予想外だったのか、オリバーが目を丸くさせた。
そんな彼の反応にプリシラは笑みを零したまま、上を見るように促した。
黒一色の傘。飾り気は一切ない。
雨を凌ぐには十分だが、これでは味気ない。
「魔女が持つならもっと素敵な傘じゃないと。探しに行きましょう。二人で」
「えぇ、そうですね。参りましょう」
プリシラの言葉にオリバーが微笑んで返す。
そうして再び歩き出した。二人並んで。
かつての『伯爵夫人と御者』ではなく、『魔女と使い魔』として。そして『愛し合う恋人同士』として。
背にしたフィンスター家の敷地から、小さくカチャンと音がした。
籠の鍵が閉まる音だ。
だがプリシラは……、
時戻しの魔女プリシラは、振り返りもせず足を進めた。




