52:二度目の六年目の記念日の終わり
音もなく近付き突如として襲いかかった何かに、プリシラは対処も出来ずに大きく体を震わせた。
「きゃっ!」
「プリシラ様! ……っ! う……」
反射的に悲鳴をあげれば、オリバーが名前を呼んでくる。
だが彼の言葉はその後は続かず、苦悶の声に変わってしまった。
陰から現れた男に体を羽交い絞めにされたからだ。
……否、それだけではない、羽交い絞めにされたうえに、胸に深々とナイフを刺されたからだ。
「え……?」
眼前の光景が理解出来ず、プリシラの口から掠れた声が漏れた。
目の前では、ダレンの側近の男がオリバーを押さえつけている。イヴが呼んでいるとプリシラに告げてきた男だ。
数分前まではプリシラに畏怖を覚えつつも冷静を取り繕っていたというのに、今の男は青ざめ鬼気迫る表情を浮かべている。彼がゆっくりと後退れば、オリバーの体がぐらりと大きく揺れた。
「オリバー!」
悲鳴じみた声をあげてプリシラが彼の体を支えようとする。
だが元より体格差があり、そのうえ今のオリバーは体に力が入らないようでプリシラは彼の体を支え切れず、二人揃ってその場に倒れ込んだ。
体を強く地面に打ち付ける。それでもプリシラはすぐさま身を起こした。……プリシラだけは。
オリバーは仰向けに倒れたまま立ち上がることが出来ずにいる。その胸元には深々とナイフが刺さっており、押さえる彼の手は真っ赤に染まっている。
その光景にプリシラは全身の血の気が引くのを感じつつ、縋り付くように彼の体に触れた。
震える彼の手に己の手を重ねればヌルリと血が滑る。
「オリバー、嘘、嘘よ……。そんな……!」
「……プリシラ、さ、ま」
「私のせいだわ……。ごめんなさい、オリバー、貴方を巻き込んで……」
「どうか……、お逃げ、くださ……い……。プリシラさ、ま…………」
オリバーの声は掠れており、話しているというよりは苦しい呼吸の合間に音を発しているに近い。
それでも彼はプリシラに逃げるように促してきた。
胸に刺さったナイフを抜くことも出来ず、呼吸の合間にコポと血を吐きながら。震える手でプリシラの手に触れ、自分の体から離そうとする。そのたびに血がぬるりと滑り、その血が、プリシラにはやけに熱く感じられた。
「オリバー、しっかりして! オリバー!」
「プリシラ、さま……、逃げ…………」
「オリバー!」
「…………」
オリバーからの返事が無くなる。風を切るような不自然な彼の呼吸音すらも聞こえなくなる。
そうしてついに、プリシラを見つめていたオリバーの瞳が一瞬揺らぎ……、
スッと音をたてるように光を失った。
確かめずとも分かる、死の訪れ。
プリシラの手に触れていた彼の手から力が抜け、トサと地面に落ちる。
「……オリバー?」
プリシラの掠れた呼びかけに応える声はない。
目の前にオリバーがいるのに彼の唇は動かず、瞳ももうプリシラを見つめていない。
これほどそばに居るのに、今までよりも近くにいるのに、ここにあるのはオリバーの体だけなのだ。
「そんな……」
力無く呟くのとほぼ同時に、プリシラの隣に人影が掛かった。
ゆっくりと見上げれば、ダレンの側近の男が立っている。
オリバーを刺した男だ。だがその顔に後悔や罪悪感の色は無く、それどころかオリバーに視線すら寄越さない。追い詰められたような必死な顔でダレンを見つめてその名を呼んだ。
「ダレン様、これで……、これで私は」
「あぁ、もう用は無い。どこへなりとも好きに行け」
「このことはけして口外はいたしません。ダレン様も、セリーヌ様も」
「分かっている。さっさと行け」
こびへつらうような声色で話す男に対して、ダレンの口調も声色も随分と冷たい。もう用は無いと、むしろ視界に映っている事すら不快だと言いたげだ。
それを聞き、男が逃げるようにこの場から去っていった。
ダレンもセリーヌもそれを追いはせず、プリシラにもその余裕はない。ただ握り返してこないオリバーの手を掴んだまま、ぼんやりと去っていく男の背中を見つめていた。
次いでゆっくりとダレン達へと顔を向ける。セリーヌは顔を歪ませながら笑みを浮かべており、ダレンはいまだ無表情のままプリシラを見つめている。
「……それで、この後はどうするつもり?」
ダレンとセリーヌに問うプリシラの声色は酷く落ち着いている。プリシラ自身、己の口調が冷めているのを感じていた。
オリバーが刺されたのを目の当たりにした瞬間の、そして彼の瞳から光が失われるのを見た瞬間の、あの全身を包むような寒気に感情すべてが凍てついてしまった気がする。
「物盗りだ」
「物盗り?」
「あぁそうだ、物盗りが出た。運悪く、屋敷の裏手で逢引をしていたプリシラとオリバーが目撃して殺された」
「それですべてが片付くとでも思っているの?」
ダレンの考えが分からず、プリシラが更に問う。
これに対してのダレンはしばし黙ったのち……、ゆっくりと首を傾げた。
「片付くだろう? すべてはお前が壊したんだ。プリシラ。だからお前が居なくなればまた平穏が訪れる」
「……私が壊した? 馬鹿なことを言わないで。自分が仕出かしたことでしょう」
「いいや。お前だ。お前がすべて壊したんだ。フィンスター家も、セリーヌとの仲も、ジュノとの仲も、エリゼオとの仲も、私の地位も、すべて、すべて。お前が壊したんだ。お前が、だから」
ブツブツと呟きながらダレンがゆっくりと近付いてくる。
そうしてプリシラの前までくるとオリバーに視線を落とした。だがすぐさま視線をプリシラに戻すあたり、元よりダレンの狙いはプリシラだったのだろう。
オリバーを巻き込んだのは、セリーヌとの不貞を暴かれた事の腹いせと、なによりプリシラを不貞の女に貶めるためだったに違いない。
「ほら見ろ、この男はお前のせいで死んだんだ。やはりお前がすべて壊したんだ」
「……それは」
「だからお前を殺せばいいんだ。こんな簡単なこと、どうしてもっと早く気付かなかったんだ……」
淡々と話しながら、ダレンが上着の内側に手を入れた。
ゆっくりと取り出したのは……、ナイフだ。
オリバーの胸を突いたものより刃渡りは長くで、柄には装飾品が施されている。前者が対人や護身用を想定したナイフとするならば、こちらは芸術品に近い。だが芸術品と言えども刃は鋭利なようで、ダレンが掲げると鈍く光を反射させた。
プリシラは真っすぐに、恐れるでもなく、逃げることもせず、命乞いも口にせず、ただ真っすぐに掲げられるナイフを見つめた。……オリバーの手を握ったまま。
「戻れるのなら、六年前に戻りたいな。そうすればお前と結婚なんてしないのに」
冷ややかに告げて、ダレンが手にしていたナイフを勢いよく振り下ろした。
その瞬間にプリシラの全身を襲った衝撃は、たとえるならば崖に突き落とされたかのような衝撃だった。
痛み、熱、痺れ、それらがひとまとめになり胸を襲う。プリシラの体はその衝撃に耐えきれず、ぐらりと後ろに傾くとそのまま仰向けに倒れ込んだ。呼吸をしようと口を開くが、ヒュッ……とか細い音だけが喉から溢れる。
「あ……」
掠れた声を漏らし、プリシラは見開いた目で自分を見下ろす男を見つめた。
ダレン・フィンスター。妻を殺した男。彼もまた目を見開きプリシラを見下ろしている。
……その口角が次第に吊り上がる。
それは、プリシラが消えた六年の今日に見た、自分を突き落とした時のダレンの顔を彷彿とさせる笑みだった。




