51:最終舞台にて
ダレンの誘いを断った後、プリシラは一人自室で過ごしていた。
天気のせいか、それとも『今日』だからか、何をしても気分は沈み、本を読んでも内容は殆ど頭に入ってこない。
それどころかせっかくイヴが淹れてくれた紅茶さえも味がぼんやりとして、飲んでもどこか別の場所に流れ落ちていくかのようだ。
気もそぞろ、心ここにあらず、そういった言葉はまさに今の状態を指すのだろう。
「あまり気分の良い風じゃなさそうだけど、少し外に出て風に当たろうかしら」
思い立ち、さっそくと庭に出てみた。
天候は相変わらずで、まだ昼過ぎだというのにどことなく暗い。鈍色の厚い雲が空を覆って日の光は届かず、湿気て生温い風が吹き、草木の葉擦れの音はまるでひとのざわめきのように聞こえる。
妙な天気だ。心地良さは無い。だが荒れ狂う波の飛沫が掛からないだけマシだと自分に言い聞かせ、プリシラは屋敷の庭をのんびりと歩いていた。
「……プリシラ様、少しよろしいでしょうか」
恐る恐ると言った様子で声を掛けてきたのはダレンの側近の男。
年はダレンよりも十歳ほど上。今年で四十半ば。だがここ最近は黒髪に白髪が目立ち、実年齢よりだい老けて見える。
プリシラは彼に対してもダレンの時と同じように「こんなに老けてたかしら」と疑問を抱きながら視線をやった。
「イヴがお呼びです」
「イヴが?」
「はい。屋敷の裏手に来てほしい、と伝言を預かっております」
男の話に、プリシラは「そう」とだけ答えた。
じっと男を見据えれば、彼はそれ以上の詳細は説明せず「では失礼します」と去って行ってしまった。その態度と背中に焦りが見えるのは気のせいだろうか。
「情けない男。……いえ『情けない男になった』が正しいのかしら」
男が去っていった先を眺め、プリシラは一人静かに首を傾げた。
以前まで、あの男は屋敷の中で居丈高な態度を取っていた。
己がダレンの右腕であることで驕り、メイドや他の給仕に対してまるで己が主人であるかのような立ち振る舞いを見せる時もあった。
となればもちろん、フィンスター家の者達から蔑ろにされているプリシラに敬意を示すわけがない。
プリシラを下に見るような冷たい目で対応し、口調や言動こそ最低限の礼儀を保ってはいるものの、そこに敬意が無いのは一目瞭然。
だがフィンスター家が落ちぶれた今、当然だが男の権威もそれに合わせて無くなっている。
彼の心情的には、ダレンとは早々に縁を切り、うまいこと他家に潜り込み安寧を得たいのだろう。最後までダレンに着いていくほど忠誠心のある男とは思えない。
もっとも、そんなことをプリシラが許すわけがない。
あの男はネズミだ。それも大ネズミ。フィンスター家というネズミの籠から出ることは叶わない。……籠が壊れるまで。否、壊れてもずっと。
もはや哀れみにすら似た感情で男が去っていくのを見届け、プリシラは一度肩を竦めると屋敷の裏手へと向かっていった。
フィンスター家の屋敷はいまもなお美しく整えられている。……表だけは、だが。
現に屋敷の裏手は酷いものだ。草こそ刈られてはいるが頻度も範囲も最低限で、一角は雑草が膝下まで伸びきっており、隅には木片や不要になった家具が詰まれている。
客が来なくなった屋敷の、誰も見ない場所。手入れをする者達の見栄も気力も無くなると、貴族の敷地でもこんな景色になってしまうのか。
辛うじて体裁を保っている張りぼて屋敷の裏側、そう考えるとなんとも滑稽ではないか。
そんなことを考えつつ、プリシラは屋敷の裏手を眺めていた。
「……プリシラ様?」
と、ふいに声を掛けられて振り返った。
そこに居たのはイヴ、……ではなく、オリバー。
意外な人物の姿に、プリシラは目を丸くさせて彼を見た。
「オリバー、貴方どうしてここに」
「イヴが呼んでいると聞いて。プリシラ様もイヴに呼ばれたんですか?」
不思議そうに話しつつオリバーが近付いてくる。
彼自身、なぜイヴがこんなところに自分を呼んだのかが分からないのだろう。更にそこにプリシラまで居るのだから、彼には疑問だらけのはずだ。
対してプリシラはこれがイヴの呼び出しではない事は察していた。
「私を……、いえ、私達を呼び出したのはイヴじゃないわ」
プリシラが断言すれば、オリバーが怪訝な表情を浮かべた。
「私も『イヴが呼んでいる』とここに来るように言われたの。でもイヴは私に用事があれば自分で会いにくるわ。それが出来なくても、少なくとも伝言を託す相手はきちんと選ぶ。……今となってはもう、オリバーしかいないけれど」
「それなら、いったい誰が」
誰が自分達をここに呼んだのか。そうオリバーが疑問を口にしようとするも、その言葉に草が揺れる音が被さった。
反射的にプリシラとオリバーが同時に音のした方へと振り返る。
そこに居る人物を見て、プリシラは嫌悪を露わに眉間に皺を寄せた。
ダレンとセリーヌ。
伴侶であるプリシラとスコットを蔑ろにし、騙し、奪い、結ばれようとした男女。
二人が並ぶ姿はかつてはさぞや美しかっただろう。向上心に溢れた精悍な貴族の子息と、卓越した手腕を持つ麗しい才女。絵になっていたはずだ。
だが今の二人にその面影はない。セリーヌは麗しかったはずの顔を酷く歪ませ、憎悪とさえ言える表情でプリシラ達を睨みつけている。対してダレンは感情を一切顔には出さず、瞳だけをしきりに動かしてプリシラとオリバーを交互に見ていた。
二人の姿に、貴族の当主や商家夫人の優雅さや威厳は無い。
「……プリシラ様、さがってください」
「オリバー」
「お二人の様子がおかしいように思えます。特にダレン様の表情は……、あのような表情は見たことがありません」
オリバーが小声で話しながらさっとプリシラの前に出てきた。
雇い主である夫婦の間に入り込むなど許される行為ではない。だが今はそれを気にしている余裕はないと判断したのだろう。
このオリバーの行動にセリーヌは眉根を寄せて不快を表している。平時であったなら叱りつけるか、嫌味の一つでも言ってきたか。
だがセリーヌの隣に立つダレンの表情はまったく変わらず、眉一つ動かさない。だというのに瞳だけは妙にぎらつき、せわしくなく動いており奇妙としか言いようがない。
「プリシラ、やっぱりお前は……、その男と……。それなのに俺を陥れて。何様のつもりなんだ」
「その男って、オリバーのこと? 何を考えているのか知らないけど、誰しもが自分達と同じだと思わないでちょうだい」
確かにオリバーとは想い合っている。明確な言葉こそ一度足りとも交わしていないが、彼の気持ちはプリシラに伝わっているし、プリシラの気持ちもまたオリバーに伝わっているはず。
なにより、想い合っているからこそ明確な言葉を今日まで交わさずにいるのだ。
それと、プリシラとの婚前どころか前妻との婚前から仲を築き、不貞の挙げ句に出生を騙して息子を育てさせ、家の乗っ取りまで企んでいる者達と一緒にしないでほしい。
そんな思いを込めてはっきりと断言すれば、セリーヌが露骨に顔を歪ませた。思う所がある、どころではない、思う所しかないはずだ。
今この瞬間にでも金切り声をあげて喚きだしてもおかしくない。だがそれをしないのは彼女にも体裁を取り繕う理性がまだ少し残っているのか、あるいは、何か企みがあるのか。
だが今プリシラが気になっているのはダレンだ。
分かりやすく憤怒の表情を浮かべるセリーヌと比べて、ダレンは先程のプリシラの発言を受けても表情一つ変えていない。まるで顔の筋肉のすべてが機能を失ってしまったかのようで、瞳だけがぎょろぎょろと活発に動いている。
妙だ。
何を考えているのか分からない。今のダレンは気味が悪いとさえ言える。
「私達はイヴに呼び出されたのよ。でもそれも何かの手違いだったようね。それじゃあ、私は部屋に戻るから」
さっさとこの場を去ろう。
そう考え、プリシラは踵を返して歩き出そうとした。出来るならばオリバーにも「行きましょう」と声を掛けたいところだが、変な勘繰りをされると面倒だ。
今のセリーヌとダレンの様子を見るに、僅かでもつけ入る隙は与えない方が良いだろう。
だからこそプリシラは一人でこの場を去ろうとした。……のだが、その瞬間、何かが視界の隅から飛び込んできた。




