50:海を見に
「海を見に行くぞ」
告げられた言葉を聞いた瞬間、プリシラは目の前がぐにゃりと歪むような錯覚を覚えた。
覚えのある言葉。耳に残っている忌々しい声。発したのは記憶と同じようにダレンだ。
消えた六年間の、消えた今日、確かに彼からこの言葉を聞いた。場所も同じくダレンの執務室。
(あの後、私はどう返したかしら……)
目の前に立つダレンを見据えたまま、プリシラは記憶を遡った。
今まで碌に向き合わなかったダレンからの突然の海への誘い。怯えと諦めで部屋に籠りっぱなしだったプリシラは当然だが困惑し……、
そしてダレンの隣に立つ一人の少年に声を掛けたのだ。
(あぁ、そうだわ。あの時はジュノが居て、一緒に行くのかと尋ねる私に随分と冷ややかに返してきたのよね)
『ジュノ……。貴方も一緒に行くの?』
『そうだけど、なにか問題でもありますか?』
プリシラの脳裏に、かつてのジュノとの会話が蘇る。
今のジュノならばけっして言わないであろう冷たい物言い。向けてくる視線も冷めきって、とうてい母親に対して向ける視線ではない。否、母親どころか、他人に対してだって許される視線ではなかった。
だがこれは『もう居ないジュノ・フィンスター』との記憶だ。懐かしさも悲しさも湧かず、さっさと記憶の奥底に戻した。
「どうして海に?」
「結婚記念日に夫婦で出掛ける、別に珍しい話じゃ無いだろ。さっさと準備をしろ」
かつてと殆ど変わらぬプリシラの問いに、かつてと同じダレンの返答。
次いで彼は「早く俺の前から立ち去れ」とでも言いたげに鋭い視線をプリシラに向けてきた。眼光と苛立ちを交えた空気でプリシラを操ろうとしているのだ。
これも時戻し前と同じである。だが時戻し前のダレンの視線には侮蔑や威圧感があったが、今はそれを超えた嫌悪、そしてプリシラに対しての僅かな怯えが混ざっている。
時戻し前と同じ、だけど細部には違いがある。
その小さな変化を感じつつ、プリシラは口を開いた。
「嫌よ」
と、はっきりと拒否の言葉を突きつける。
元より険しい顔付きだったダレンの眉間の皺がより深くなった。ピクリと眉を揺らす。
「嫌だと?」
「そうよ。結婚記念日に夫婦で出掛ける? 貴方は一度として私を妻として扱わなかったのに、今更どういう風の吹回しかしら」
「それは……」
言いかけ、ダレンが言葉を詰まらせた。不自然に視線を他所へと向けてしまう。
そんなダレンを、プリシラは真っすぐに見つめ続けた。
出会った時のダレンは三十二歳だった。そこから六年間が経過し、彼に殺されて一度戻り、再び六年間。
ジュノの六年間のような目まぐるしい成長は無いが、それでも僅かな変化はある。
だけど……、
(……時戻し前の今日のダレンはこんなに老いてたかしら?)
プリシラは心の中で疑問を抱き、僅かに首を傾げた。
目の前のダレンは間違いなくダレン・フィンスターだ。いくら顔を会わせる回数が異様に少ない夫とはいえ、さすがに見間違えるわけがない。
金色の髪、茶色の瞳。精悍な顔付きには渋さが加わっている。見目は、否、見目だけは、相変わらず良い男だ。
だがそこに薄っすらと……、否、気付いてしまえばはっきりと、憔悴の色が染みついている。
目の下には濃い隈。顔色も悪く、心なしか頬もやつれて見える。彫りの深さはとは違った目の窪みは彼の顔に影を落とし、そのせいか妙に老いて見える。初めてダレンを見た人なら実年齢よりだいぶ上に感じられるかもしれない。
ダレンに興味が無く碌に顔を会わせていなかったプリシラですら分かるぐらいなのだから、彼の側近や給仕、愛を誓ったセリーヌの目にははっきりとやつれが見えるだろう。
時戻し前の今日のダレンはもっと鋭気に満ちて、まさに雄健といった男だったのに……。
「……理由など、別にどうでもいいだろう」
「え?」
雄健とは言い難いダレンが吐き捨てた言葉に、プリシラははたと我に返った。
会話の最中であったことを思い出す。
「ただ外の空気を吸いに出ようと思って、妻に声をかけた。それのどこがおかしい」
「妻? 妻ですって? 白々しい」
鼻で笑い飛ばせば、ダレンの表情がより険しくなった。今この瞬間にでも怒鳴りつけてきてもおかしくない表情だ。
だが何も言わないのは、ダレン自身、今更プリシラを妻として扱うことも、外出に誘うことも、無理があると分かっているからだ。
「今になって私を放っておいたことへの罪悪感でも湧いたの? それとも不貞行為への謝罪でもするつもり?」
「プリシラ、調子に乗るなよ。お前は」
ダレンが声を荒らげようとする。
だがそれより先に、プリシラははっきりと告げた。
「あるいは、私を崖下に突き落として殺すのかしら」
プリシラのこの言葉を最後に、シンと周囲の空気が静まり返った。
ダレンの顔が一気に青ざめる。見開かれた目は真っすぐにプリシラへと向けられているが、動揺の表れか、茶色の瞳は小刻みに揺れている。
ヒュッと微かに聞こえてきた声はダレンが息を呑んだ音か。何かを言おうとしあぐねいているようで、彼の唇が数度、音も発せずに動いた。
「な、なにを……、馬鹿な、こと」
絞り出したダレンの声のなんと情けないことか。図星だと白状しているのと同じだ。
だが誰だって、今のダレンと同じ状況ならこうなるだろう。
当然だがダレンはプリシラ殺害の計画を誰にも言っていない。実際のところ、セリーヌにさえも詳細までは伝えておらず、「六年目の結婚記念日までにはあれをなんとかする」とだけ伝えておいたのだ。
唯一、かつての消えた六年間では息子であるジュノに伝えておいたが、今の六年間では伝えるどころか仄めかすこともしていない。
だというのにプリシラがずばり言い当てたのだから、ダレンには驚愕を通り越して恐怖でしかないはずだ。
「そんなことは」と否定の言葉を口にするも、その声は酷く震えている。
「あ、ありえるわけがないだろう……。ば、馬鹿々々しい、気でもおかしくしたか」
「あら、そうだったの。それなら良いわ。お互い馬鹿なことは考えない方が良いわね」
問い詰める気も無いとプリシラはあっさりと話を終えた。『お互い』と告げたのは牽制だが、果たして今のダレンに伝わっているかどうか。
だが伝わっていても伝わっていなくてもどちらでもいい。
そうプリシラは考え、「用が無いなら失礼するわ」とダレンの執務室から去っていった。
◆◆◆
「失礼いたします。ダレン様、馬車の用意が……っ!」
ノックの音がしてしばらく、ゆっくりと扉が開かれ、入ってきたのはダレンの側近の男。
連絡事項を口にしながら入室し、だが次の瞬間、男は声を詰まらせてビクリと体を震わせた。
部屋に進み入ることもせずさりとて退室もしない。
……いや、したくとも出来ないのだ。
室内にいるのは彼の主人であるダレン・フィンスター。
世間では人格者として通っているが、実際は傲慢な男だ。それを良しと判断した相手に対しては不機嫌を隠そうともせず、むしろ不機嫌を露わにして相手を従わせようとする。
ゆえにダレンの執務室を訪れる時は彼の機嫌を窺いつつ入室していたのだが、今日に限ってはもうその余裕すら無い。
今のダレンは機嫌がどうのではないのだ。
頭を抱え込み、それだけでは足りないとガリガリと音がしそうなほどに掻きむしる。痛々しい音の合間に聞こえるのはダレンの唸り声のような呟き。
「プリシラ……、あの女、どうして……、何を知ってるんだ……、どうして、くそっ……、誰が言った、何を……」
「ダ、ダレン様……」
「なにを……、なぜ、俺は誰にも言ってないのに……! あいつは、あんな冷たい目、化け物のような女だ……。そうだ、あいつは化け物だ、化け物! まともじゃない!」
誰がどう見ても今のダレンこそが『まともじゃない』と感じるだろう。
だが当人はそんな事に気付くわけがなく、「まともじゃない」「おかしい」としきりに口にしている。もはや男が入ってきたことにすら気付いていない。
その様子に男は恐れすら抱き、息を潜めながらゆっくりと後退ると共に部屋を出ていった。
微かに、気付かれないように極力音を控えて、カチャリと室内に小さな音が響いた。
「俺を陥れる化け物め……、あれがいる限り俺は救われない……、そうだ、すべては化け物のせいだ。俺は悪くない、化け物のせいだ、俺は」
ダレンがどれだけ呟いても返事はなく、否定の声もあがらない。
それどころか、ダレンには室内に満ちる異様な空気がまるで己の考えを肯定しているかのように思え、それに背を押されるようにゆっくりと立ち上がった。
虚ろな瞳は光もなく濁り、だがそれでいて、瞳の奥に粘つくようなぎらつきを宿していた。




