48:Sideダレン 沈黙の屋敷にて
元より静まり返り重苦しい空気を漂わせていたフィンスター家は、あの夜会から三ヵ月が経った今もまるで通夜のような空気に満ちていた。
笑い声は一切聞こえず、話し声さえも周囲を窺うようにひそりと囁き合う程度。
メイドや給仕は次にいつ誰が逃げ出すかを探り合い、なぜまだ出ていけないのかと自分の境遇を、そこがネズミは逃げれぬ籠と知らずに嘆く。
そんな苦痛でしかないフィンスター家とは逆に、社交界ではフィンスター家の名が出ぬ日は無い程になっていた。
誰もが好奇心を顔に宿して家名を口にし、あることないこと話して盛り上がる。先日の夜会に招待された者は引っ張りだこで、茶会やパーティーで得意げに当時の悲惨さを語る。
屋敷内と世間での温度差と言ったらない。
そしてその温度差に当てられ、当事者であるダレン・フィンスターは日に日に余裕を無くしていた。
纏う空気は他者を威嚇するように重く、終始苛立たしけな態度を隠しもしない。言動も荒くなり、年若いメイドや給仕は彼の前に出ないようにと屋敷の中を逃げて歩くほどだ。
「くそ、プリシラのやつ、わざと夜会であんなことを……。恥をかかせやがって」
自室の執務机に着き、ダレンが吐き捨てるようにぼやいた。
脳裏に蘇るのはあの忌々しい夜会での出来事。気分を晴らそうにも外に出ることも出来ず、屋敷でさえ誰もが腫れ物を扱うような目を向けてくる。おかげで自室しか居る場所がなく、常にあの日の事ばかり考えてしまう。
食欲も起きず最近は碌に食べていない。そのせいと心労が祟ってか顔色も悪く、頬が痩せこけて見える時さえあった。鏡を前にしてぎょっとした事も一度や二度ではない。
「これではまるで……」
まるで病に臥せっていた時のスコット・アトキンスのようではないか……。
そう考え、ダレンは己の考えを振り払うように首を振った。
だが一度考えると否応なしにスコットの顔が脳裏に浮かんでしまう。
「子供を作れないだと……。セリーヌめ、スコットの話を馬鹿正直に受け入れやがって」
思い出されるのはセリーヌから妊娠を報告された時の事。
腹に手を添えながら告げてくる彼女の話に血の気が引いたのを今でも覚えている。愛する女性が他の男との子供を……となれば誰だって絶望を覚えるというもの。
だがセリーヌは妖艶な笑みを浮かべたまま『落ち着いてダレン』と穏やかに告げてきたのだ。腹に添えていた手をそっとダレンの胸元へと移しながら。
『ダレン、この子は貴方との子よ』
『俺との……。だがセリーヌ、きみは』
『えぇ、スコットとも寝ているわ。だけど、あの男との子供は出来ないようにこっそりと薬を飲ませていたの』
『く、薬……、そんな』
『良いじゃない。いずれ貴方の子供になるんだもの。それに仮に貴方に似たところでどうとでも言い訳できるわ』
仮に生まれた子供の外見がダレンに似ていたとしても、髪色はセリーヌと同じなので母親譲りだと、瞳の色も祖父母の代に遡れば誤魔化せる。顔付きも同様、曾祖父まで話題に出せばどうとでも言い包められる。
そう話すセリーヌは確証すら抱いているかのようだった。
次いで彼女は決定打を伝えるように、赤い唇で弧を描いて『実はね』と話しだした。
『スコットは子供ができにくいの』
『子供が?』
『幼い頃の怪我が原因らしいの。そんな中で私が子供を授かった……。切望と諦めの中にあった商会の跡継ぎなんだもの、疑うわけがないわ』
セリーヌが断言した通り、スコットは生まれてきたエリゼオを疑うことなく息子として育てていた。
可愛がり、成長を喜び、そして一つでも多く息子に残そうと以前にも増して事業に励む。その姿はまさに良き父親である。
そんなスコットを、セリーヌは話すたびに嘲笑っていた。『自分の息子だと思い込んで馬鹿な男』と……。
「だが結果はこの様だ……。こうなっては馬鹿な男は……」
「ダレン様」
ふと声を掛けられ、ダレンははっと息を呑むと同時にそちらを向いた。
扉の前に立つ一人の男。ダレンの側近だ。
彼もまたフィンスター家の現状に心労を抱いているのだろう、目の下に隈が濃く出ている。この一年で五、六年分は老けた気がするが、自分はもっと酷い有様だろうと考えダレンは男から視線を外した。
「申し訳ありません。おひとりのはずが声が聞こえ、ノックをしても返事が無かったので入らせて頂きました。何か問題でも起こりましたか」
「問題なんて今更な話だ。それで、何か用でもあったのか」
「それが……。アトキンス家より迎えが来ております」
「アトキンス家?」
聞きたくない単語に自然とダレンの声が唸るように低くなる。
いまとなってはその名を耳にするだけで頭痛が起こるようになっていた。
「エリゼオ様が話をしたいので別荘に来てほしいと仰っているそうです」
「こんな状態で行けるわけがないだろう」
「エリゼオ様も今回の件についてまだ受け入れきれていないのでしょう。セリーヌ様に話を聞こうにも」
「あの女の名前を口にするな」
ダレンが咎めれば、側近の男がすぐさま口を閉じて頭を下げた。
彼に罪は無い。ただ言伝を預かっているだけだ。だがそれが分かったところで、自分の感情を押さえる余裕は今のダレンにはない。
頭痛はより酷くなり、まるでこめかみに鉄の針を刺されたかのように鋭い痛みが走る。無意識に指で押さえつけた。
思い出されるのは夜会の後に聞いたセリーヌの喚き声。
正直に言えば彼女を追いかけたくはなかった。だがあの場に残るわけにもいかず、なによりセリーヌを追わねば後に何を言われるか分からない。だから渋々追いかけたのだ。
もっとも、追いかけたところでセリーヌが落ち着いた対応をするとは思ってもいなかったが。
そして案の定、会場から逃げ出したセリーヌは声を荒らげてきた。
『なんであの女が知ってるのよ!』
『どうするの! もう商会にはいられないわ!』
『もう嫌! 最悪だわ! なんでよ、どうしてよ!!』
金切声で喚き、掴みかからんばかりの勢いで詰め寄ってくる。
傍らに立つエリゼオは憐れな程に顔を青ざめさせており、それでも母を落ち着かせようとしているが彼の声はセリーヌには届いていない。『お母様、あの話は』と問おうとするもセリーヌの気を荒立たせるだけだ。
『ダレン様、あ、あの話は……、僕の父は……』
『エリゼオ、ひとまずセリーヌを連れてアトキンス家に帰りなさい』
『で、ですが、僕も話が全然見えなくて……。ダレン様が、ぼ、僕の……』
『ここで騒いでいたらいずれひとが来る。落ち着いたらきちんと話をするから、早く行きなさい』
そう告げてエリゼオの問いかけを遮り、彼にセリーヌを連れて屋敷に戻らせたのだ。
あれから三ヵ月、一度としてセリーヌにもエリゼオにも会っていない。
彼等は早々にアトキンス家の別荘に移り住んでいるという。さすがに商会に居られなかったのだろう。
その別荘に来てほしいと何度も手紙や使いを寄越しているが、すべて門前払いをしている。
「話なんて出来るわけがないだろ。何をどう話せって言うんだ……!」
「ですがエリゼオ様には『落ち着いたら話をする』と仰ったのでは」
「あれはただエリゼオにセリーヌを連れて帰らせるために言っただけだ。面と向かって『お前は私とセリーヌの不貞の子だ』なんて言えるわけが無いだろう。それに、エリゼオに会おうとすればセリーヌが出てこないわけがない」
金切声に問い詰められると分かっていて、いったい誰が訪ねるというのか。
頭の中に蘇ろうとするセリーヌの声を掻き消すように片手を振り、ついでに「適当に理由をつけて帰らせろ」と命じた。
「理由ですか……」
「仕事が立て込んでいるだの、体調が優れないだの、それっぽい事を言っておけ。アトキンス家の使いなら無理に押し入ってくることも出来ないだろう」
「……かしこまりました」
側近の男が頭を下げ、部屋を出ていった。
去り際の物言いたげな表情。きっと非道だの薄情者だとでも思っているのだろう。
かつてのダレンであればその表情を無礼と感じただろう。主人に対してなんて表情だと苛立ちを抱いていたかもしれない。
だが今のダレンにはその気力すら無く、深く溜息を吐いて頭を抱え込んだ。
考えなくてはならない事が延々と回り続けるが解決策など浮かぶわけがなく、ひたすらあの夜会の光景と、注がれる冷ややかな視線、そしてセリーヌの喚き声が木霊する。
「あぁ、くそ……、忌々しい……。」
苛立ちを露わに呟きつつ、机の一角へと視線をやった。
一本の瓶。細工の施された瓶には美しい書体のラベルが張られている。
度数の高い酒だ。以前であれば執務机にあるわけがないその酒瓶は、最近では当然のように鎮座している。
そんな酒瓶の周りには錠剤が転がっている。連日眠れず、医者に手配させた睡眠導入剤だ。
「いっそ酒と薬で寝てしまうか……」
薬を度数の高い酒で流し込んで眠りにつく。褒められた事では無いが、そうした日だけは朝まで眠れる。
もはやそれは睡眠というよりは気絶に近いのかもしれないが、浅い眠りと魘されて起きてを繰り返すよりはマシだ。
そう考えてダレンは酒瓶を掴んだ。
今となっては羽ペンよりも酒瓶とグラスが手に馴染む。もちろんそれが富豪の優雅な生活ゆえではないのは言うまでもない。
自虐めいた笑みを浮かべ、机に散らばっている錠剤を適当に拾い上げると酒を煽るようにして流し込んだ。




