39:茨でできたネズミの籠
「クローディアのところに行こうかしら」
ふとプリシラは思い立ち、さっそくと準備に取り掛かった。
外出用のワンピースに着替え、髪も綺麗に編み込む。イヤリングとネックレスを着けて姿見の前に立った。
いかにも貴族の夫人といった豪華さは無いが、それでも華やかさはある。相変わらずダレンは贅沢出来るほどの金は渡してこないが、アミール家から持ってきた資金と装飾品、それにイヴの見立てがあれば十分だ。
そうして最後にオリバーから貰ったブレスレットを腕に着ければ準備完了。
普段ならばイヴが準備をしてくれるのだが、彼女はまだ村から戻ってきていない。彼女がフィンスター家に戻ってくるのは数日先だ。
寂しいとも思うが、それだけジュノの側に居てくれているのだから感謝が勝る。
「でも、気丈に振る舞って支障は無かったと言い切ったら、それはそれでイヴが拗ねるかもしれないわね。寂しかったことはちゃんと伝えないと」
そんな事を考えつつ部屋を出ようとする。だがドアノブに手を掛けようとした瞬間、扉をノックされた。
咄嗟に手を引き、いったい誰かと扉を見つめる。
フィンスター家の屋敷に勤める者は多いが、プリシラの自室を訪ねてくる者は極僅かだ。
イヴ・ジュノ・オリバー・レッグ医師、この四人だけ。……部屋の主が居る時間にきちんとノックして、という条件を外せばもっと増えるだろうけれど。
そんな四人の内、今この屋敷に残っているのはオリバーだけ。だが先程のノックの音は彼のものではなかった。
「……誰かしら」
落ち着いた声色で問えば、扉の向こうの人物が名乗った。
フィンスター家に仕えているメイドの一人だ。ならばと入室の許可を出すとゆっくりと扉が開かれ、件のメイドが顔を覗かせた。
だが着ているのはメイド服ではなくシックなワンピース。手には大きめのトランクケース。
旅行者のような出立ちだが、表情には旅行の楽しさや晴れ晴れしさは一切無い。居心地悪そうな顔で視線を逸らしつつ部屋に入り、たどたどしくプリシラを呼んだ。
「プリシラ様……、あ、あの……」
「今日で故郷に帰るのよね」
「そ、そうですが、ご存じだったのですか……?」
「この屋敷の夫人だもの」
躊躇い交じりのメイドの問いに冷静に返せば、彼女ははっと息を呑んだ。
何かに気付いたような表情。次いで今度は表情を苦し気なものに変えて深々と頭を下げた。
「プリシラ様、今まで申し訳ありませんでした! 私……」
「謝らないで。だけど、気にしないで、ともさすがに言えないわ」
謝罪を拒否するプリシラの言葉に、頭を下げていたメイドの体が小さく震えた。
顔を上げるように促せば応じるものの、その表情は先程よりも苦し気だ。たとえるならば、救いを求めて差し伸べた手を叩き落とされたかのような表情。
これではまるでこちらが虐めているかのような気分にすらなってしまう。
見兼ねてプリシラは小さく息を吐いた。それにすら小さく肩を震わせるのだからよっぽどだ。
「分かっていると思うけれど、貴女を許すことは出来ないわ」
「はい……。承知しております」
「……でも、ダレンに対して歯向かえない気持ちも分かるから」
思い出されるのは魔女の時戻しによって消えた六年間。
ダレンの横暴さに怯え、反論も出来ず、自室に籠ってばかりだった。
もうあんな人生は送らないと決めた。現にあの自分と今の自分はまったく別だと言える。同じ『プリシラ・フィンスター』と言えども、人生も、志も、強さも、何もかもが違うのだ。
だけど、あの六年間を無かったことにはしない。
実際には時戻しによって無かったことにはなっているが、プリシラの記憶には確かにある。
あるからこそ、今のプリシラは強く在れるのだ。
それを考えれば、目の前の弱い女性を責める気にはなれない。
少なくとも彼女はプリシラに損害は与えず、ただ『何も出来なかった』だけなのだ。まるでかつての、消えてしまった六年間の自分のように。
だから……、
「許しはしないわ。でも恨みもしない。だからもしも貴女がまた同じ状況になったら、その時は今回のことを糧に後悔しないように行動して」
淡々と告げるプリシラの話は餞別の言葉とはとうてい思えない。聞く者によっては突き放したようにも取れるだろう。
だがメイドにはそれで十分だったようで再び深く頭を下げた。
「プリシラ様、どうかお元気で……!」
別れの言葉を告げ、メイドが部屋を去っていく。
カチャンと扉が閉まる音を聞いて、プリシラはゆっくりと息を吐いた。
◆◆◆
今のフィンスター家は外も内もまさに針の筵状態である。
外に出れば好奇の視線に晒され、陰口を囁かれ、内は常に静まり返り緊張感すら漂う。どこにいても息が詰まる。逃げ出したいと思うのは当然だ。
「でも、意外とみんな残ってるのよね。もっと続々と逃げていくと思ったわ」
そうプリシラが話したのは、クローディアの屋敷でのこと。
メイドの別れの言葉を聞いて見送った後、プリシラもまた外出のために部屋を出て行った。馬車の用意をしてくれていたオリバーと二言三言交わし、客車に乗り込み出発し、森の中のクローディアの屋敷を訪れる。
そうしていつも通り連絡無しの訪問を出迎えてくれたクローディアに屋内に案内され、彼女とお茶をし……、先程の言葉である。
「逃げていくって?」
「フィンスター家に仕えてる人達よ。こんな状況なんだもの、我先にと辞めていくかと思っていたの」
ここに来る前に挨拶をしてきたメイドの他に、既に二人が辞めている。その二人も律儀にプリシラに挨拶をしていった。
これで三人目。平時であれば短い期間で三人もと感じるものだが、今のフィンスター家の状況を考えれば逆。むしろいまだ三人しか辞めていないのかと思えてしまう。
「あんな男だけど意外と人望が残ってるのかしら」
ダレンは外面は良かった。社交界での彼はまさに人格者だ。屋敷内でも良い主人で通していた。
屋敷勤めの者達はいまだその外面に惹かれ、フィンスター家と共倒れをする覚悟の忠誠心を抱いているのだろうか。
最近のダレンの様子を見るに、化けの皮は完全に剥がれ落ちているはずだけど……。
そうプリシラは疑問を抱き、だがふと目の前に座るクローディアが笑っている事に気付いた。
物言いたげな笑み。ニヤと口角を上げる悪戯っぽい笑みは、まさにしたり顔だ。
「まさかクローディア、貴方が何かしていたの?」
「私がしたと言えばしたけど、辞めていったメイド達を逃がしたのはプリシラだよ」
「……どういうこと?」
クローディアの説明は相変わらず的を射ていない。
だがそれは今更だ。すっかりと慣れてしまったプリシラは考えたところで分からないとすぐさま判断し、「説明して」と彼女に告げた。
「いまのフィンスター家は茨で作られた鳥籠。いや、ネズミの籠と言った方が合ってるかな。誰が抜け出せるかはプリシラに掛かってる」
「私は何も決めていないけど……、でも、私次第って事なのね」
クローディアの言葉に、プリシラは先程話したメイドを思い浮かべた。それと同時に、既に去っていった二人の顔も脳裏に蘇る。
彼女達はプリシラは蔑ろにしていた。夫人だというのに身の回りの手伝いもせず、声を掛けることもしなかった。
……だが、彼女達は自ら率先して冷遇していたわけではない。嘲笑したり冷ややかに見据えたりと露骨な負の態度を取ることはなく、思い返せば申し訳なさそうな視線を向けてくることもあった。
イヴが以前に「プリシラ様の食事やお茶の準備をする時にそれとなく手伝ってくれる者もいる」と話していたが、その時に挙げていた名前は彼女達のものだった。
きっと自分達の行いが間違っていると気付いてはいるものの、ダレンの力やフィンスター家の権威に抗えず、周囲に迎合するしかなかったのだ。
その心の弱さは、まるで消えてしまった六年間のプリシラのようではないか。
「許しはしないけど、恨みもしない。……それがフィンスター家から逃げる条件なのね」
「さっきも言ったように、今のフィンスター家は茨でできた鳥籠ならぬネズミの籠。ネズミ用だから天井は開いているけど、高すぎてネズミには届かない。羽のある鳥は逃げていけるけどね」
「鳥とネズミ……」
クローディアの話は相変わらずだ。言葉遊びのようであまり深く考えると坩堝にはまって混乱しかねない。
だが言いたいことは分かる。ネズミの籠云々も、きっと以前にプリシラが自室の侵入者をネズミに喩えたことに倣って話しているのだ。
「逃げる条件は分かったけど、ネズミたちはどうして辞めていかないの?」
「次の職場が決まらない、故郷に戻れない、辞めて生活するほどのお金がない。あるいは、ダレンとセリーヌに協力し過ぎて逃げる事を許されない、とかね」
「そう……」
クローディアの言葉に、プリシラは魔女の力に感心したように吐息を漏らした。
話を理解するにつれて自分の表情が緩んでいるのが分かる。無意識に笑ってしまっているのだ。きっと穏やかとは言い難い笑みだろう。
「それは凄いわ。これからもっと面白くなるんだから、全員に逃げられたらつまらないものね」
目を細めて微笑みながらプリシラが告げれば、クローディアもまた妖艶に笑って返してくれた。




