38:Sideダレン フィンスター家から逃げる者
執務室にいればセリーヌの金切り声が思い出され、さりとてこんな時間から寝室にいては屋敷の者達に何を言われるか分からない。部屋を出ても屋敷の中には重苦しい空気が満ちており、外に出ようものなら好奇の視線に晒される。
結局、ダレンは執務室にいるしかないのだ。
一人で、外を恐れて部屋に閉じこもるしかない。
……まるで、プリシラに強いていたように。
「冗談じゃない、どうして俺が……。部屋に籠るべきはあの女だろう」
苛立ちを露わに吐き捨て、次いで窓の外から聞こえてくる物音に気付いて息を呑んだ。
窓に近付いて外を見れば屋敷の前に一台の馬車が停まっている。
一瞬ダレンが顔を顰めたのは、アトキンス家の馬車かと見間違えたからだ。
かつては会える日を指折り数えて待っていたというのに、今となってはセリーヌの訪問は苦痛でしかなく、来るな来るなと願うばかりだ。
そんなダレンの身勝手な願いが叶ってか、馬車はアトキンス家のものではなかった。
あれは……、
「プリシラか」
屋敷の玄関口から現れた人物を窓から見下ろし、ダレンがその名前を口にする。
銀色の長い髪、シンプルながらに質の良いワンピース。影から覗く者達を気に掛けることなく颯爽と歩いている。
好奇の視線に気付いていないのかと思いもしたが、すぐさまその考えは打ち消した。あれは気付いたうえで自分が気にかけるものではないと切り捨てているのだ。
思い返せば、先月、プリシラはジュノを送り出す際にも平然と屋敷の外に出ていた。
あの時も屋敷の外には野次馬達が潜んでおり、下卑た期待を込めて粘つくような視線を向けていた。思い出すだけで不快感が募るような視線。
だがそれらをプリシラは物ともしなかった。今も、身を隠すことも足早に進むこともしていない。
そんなプリシラが向かう先には、一台の馬車と……、そして一人の青年。
「オリバー・オットールか。たかが御者風情が、この俺に盾突いていっぱしにプリシラの騎士気取りか」
思い出されるのはジュノが発った日の事。
見送りから戻ってきたプリシラとダレンは言い争いになり、その際オリバーは身を挺するようにしてプリシラを庇っていた。それどころか暴力は止めるようにダレンを咎めてきたのだ。
「あの女も、御者も、なにもかもが腹立たしい……。ジュノもジュノだ。俺の息子のくせにプリシラを慕って、言われるままに田舎村になんて行きやがって……!」
当初の予定ではジュノはセリーヌに懐かせるはずだった。……いずれ母と呼ばせるために。
そのためには邪魔なプリシラと親しくされては困る。セリーヌではなくプリシラを母親と認めるなどもってのほか。
だというのにダレンとセリーヌの計画を他所に、プリシラとジュノは親子としての関係を築いてしまった。どれだけプリシラの行動を制限しても、ジュノの予定を厳しく管理しても、隙を見ては交流して絆を深めていたのだ。
「どうしてこう上手くいかないんだ……」
眼下ではプリシラとオリバーが何やら話している。
今のダレンにとっては彼女達の堂々とした態度は羨ましく、羨ましいと感じることが腹立たしい。
そんなダレンの執務室に一人の男が尋ねてきた。
フィンスター家に元々仕えている男で、年はダレンよりも十歳程年上。ダレンの父が当主を勤めていた時から傍らで学び、今はダレンの側近として働いてる男だ。
フィンスター家の懐事情も、アトキンス商会との繋がりも、ダレンとセリーヌの仲も、すべて把握している。
「プリシラ様が外出されるそうです」
「あぁ、ここから見えている」
「外出先はいつものご友人のところと仰っておりました」
「家がこんな状況なのに暢気な女だ。……それで、あの男との関係は探れたか?」
ダレンが問えば男が気まずそうな表情を浮かべた。
それでも答えないと終わらないと考えたのか、声を潜めるようにして「……なにも」と返してきた。
「話す時も二人きりになる時も殆ど屋外で、密にしている様子は窺えません。今はプリシラ様の侍女が居ないのでお部屋にお送りしていますが、疚しいことはなにも」
「部屋で二人きりにはなっているんだろう? その時に何かしていなかったのか」
「それが、なにも。部屋に送る際も他愛もない会話を二、三、交わして、すぐにオリバーは部屋を出ていくそうです。滞在時間は五分にも満たず、聞こえてきた会話や音からも、何かをしている様子は無い、と報告が入っています」
「そうか……。それなら、友人のところに行く途中はどうだ」
「それもご期待に応えられるような報告は上がってきていません。尾行させている者によると、プリシラ様は客車に、オリバーは御者台で移動中も会話はしていないそうです。屋敷に到着してからも、見送りと出迎えの際に少し話をするだけで、オリバーは御者台で待つことが多いと」
「……尽く面白味の無い女だ。あの男と不貞でも働いていれば鼻を明かしてやれるのに」
期待外れだと言いたげにダレンが舌打ちをする。
眼下を見れば既に馬車は出発しており、道の先に小さくなっているのが見えた。隠れて様子を窺っていた者達はそれには着いていかず、ただ見送るだけだ。付いていっても旨味は無いと判断したのだろう。
いっそ彼等がプリシラとオリバーの不貞を暴いてくれないだろうか。そんな期待すら抱いてしまう。
「……ダレン様、失礼します」
女性の声が聞こえ、それと同時に扉がノックされた。
許可を出せば一人のメイドが入ってくる。だが室内に進むことはせず、扉を背にするように立った。
身に纏うのはメイド服ではなくシックなワンピース。足元には茶色のトランク。
一見すると旅行の出発前に見えるが、眉尻を下げた気まずそうな表情はとうてい旅立ち前に浮かべるものではない。
「ダレン様、本日付で、……こ、故郷に戻らせて頂きます」
「あぁ、そうだったか」
「お世話になりました。その、突然のことでジュノ様には挨拶が出来ませんでしたので、ど、どうぞよろしくお伝えください……」
メイドの別れの言葉は随分とたどたどしい。
だがそれも仕方あるまい。
いまやフィンスター家は社交界中から白い目で見られ、屋敷の中は重苦しい空気が漂っている。外を張る野次馬達はメイドや給仕達にまで好奇の視線を向けるようになり、最近では視線どころか面白い情報は無いかと直接声をかけてくる者も少なくない。
フィンスター家はまさに針の筵だ。中にいても、外にいても、どこにいても針が突き刺さる。
そんなフィンスター家を退職して故郷に戻る。
誰もが『逃げ』と考えるだろう。それも、首尾良く逃げおおせたと思うはずだ。
だがそれを指摘する気にはなれず、ダレンは深く頭を下げるメイドに何も言わず無言で退出を促した。口を開けば恨み言が出そうだ。去っていくメイドに苛立ちをぶつけるほど落ちぶれたくはない。
「で、では失礼いたします……。ダレン様も、その、どうかお元気で……」
無言の圧に怯え、メイドが青ざめた表情でそそくさと執務室を出ていく。
ダレンはそれを黙って見届け、扉が閉まるのと同時に忌々しいと舌打ちをした。
伯爵家当主にはあるまじき態度だというのは分かっている。だが逃げていくメイドを快く見送れるほどの余裕はもう残っていない。
なにせ、辞めるのは彼女一人だけではないのだ。
彼女の前にも二人辞めていき、来月も既に一人去っていくことが決まっている。故郷で家業を継ぐためだの、娘夫婦に同居を持ちかけられてだのと皆それらしい理由を話し申し訳なさそうにしていた、内心では歓喜と安堵していただろう。
今はまだ決まっていなくとも算段を立てている者は他にもいるはずだ。むしろ全員がそうかもしれない。
見れば、側近の男がじっと扉を見つめている。
先程辞めていったメイドが出て行った扉。
まるで自分もそこを通りたいと、じぶんも逃げたいと、逃げた彼女を羨むように……。
だがこの男は知りすぎた。
賭け事にもアトキンス商会との癒着にも、セリーヌとの関係にも関与し、ゆえに美味しい思いも十二分にさせた。
ただでさえ伯爵家当主側近という高給の地位にあり、そのうえダレンとセリーヌから個人的に金をやっている。
現に男の身形は高価な物ばかりで揃えられており、下手すると下位の貴族の当主子息よりも金が掛かっているかもしれない。どれだけ贅沢をしているのかが窺える。
それでも逃げたいと思うのか。今のフィンスター家は逃げたいと思わせてしまうほどなのか。
そう考えれば悔しさが増して無意識に下唇を噛めば、皮が切れたのか鋭い痛みが走り、血の味が口の中に広がった。
一部文章が欠けていたので訂正しました(2/3 2:25)
コメント・ご指摘ありがとうございました!




