34:フィンスター家の跡継ぎ
プリシラはずっと馬車を見つめていた。
道の先を曲がり見えなくなる最後の一瞬まで。そして見えなくなってもしばらく道の先を見つめ続け、「体が冷えますので」と気遣うオリバーの言葉にようやく我に返って屋敷へと戻っていった。
そんなプリシラを待ち構えていたのはダレンだ。彼は苛立ちを隠そうともせず不満の空気を全身に纏い、屋敷に戻ってきたプリシラを睨みつけてきた。
「行ったのか」と吐き捨てるような声は到底妻に向けるものではないが今更だ。
彼の周囲にはメイドや側近や給仕の者達が居るが、誰もが気まずそうな表情をしている。ダレンの怒りの空気に息苦しさを感じ、そしてプリシラとの対峙でこの空気がより重々しくなるのを察しているのだろう。
だがプリシラにはそんなダレンにも、ましてや彼を取り巻く者達にも配慮してやる気はない。
素っ気なく「えぇ、出発したわ」と返した。
「ジュノを田舎にやるなどと勝手に決めて」
「貴方が何もしないからでしょう? 可哀想に、ジュノは世間の好奇の目に晒されてどんな思いだったか……」
「だからといって、ジュノはこのフィンスター家の跡継ぎなんだぞ。それを医学だなんだと理由を付けて田舎にやるなど許されるわけがないだろ。母親気取りで勝手に決めてフィンスター家をどうするつもりだ!」
ダレンの声は次第に怒気を強め、ついには荒々しく怒鳴りつけてきた。
周囲の者達が不自然に顔を背けるのは、プリシラと目が合って助けを求められたらと考えたのか。今更彼等に助けを求めるわけがないのに。
なにせダレンの怒鳴り声はプリシラには全く響かず、ただ胸中を冷めさせるだけだ。
(相変わらず短気な男ね。どれだけ怒りをアピールしても私が怯まないって、どうして何年経っても分からないのかしら)
もとよりダレンは気長と言える性格ではない。
どちらかと言えば短気な方であり、それがプリシラ相手ならば尚更。己の半分の年齢でしかない少女に対して威圧的に接したり語気を強めたりと、喜怒哀楽の怒を隠さぬ男だった。
もっとも、露骨な態度をとるのはプリシラに対してのみ。それも二人きりの時だ。ダレンは外面を取り繕うのには長けており、社交界の者達相手はもちろん、屋敷の給仕や部下相手でも善良な伯爵家当主を演じていた。
だがそれが崩れてきている。
今や誰が相手だろうと苛立ちを露わにし、ちょっとしたことで声を荒らげる姿を何度も目撃している。むしろ彼の怒声が屋敷内に響かない日は無い程だ。
それほどまでに余裕が無いのだろう。
なぜか等とは考えるまでもない。
プリシラはほくそ笑みたくなるのを堪え、きつくダレンを睨みつけた。
ほんの一瞬、だが確かに、彼が臆したのが瞳の揺らぎで分かった。
「跡継ぎ? それなら貴方は大事な跡継ぎの旅立ちを見送りもしなかったってこと?」
「それは……。不必要に屋敷の外に出たら何を言われるか分からないだろう。お前も今はフィンスター家夫人として大人しくしていろ」
「あら、私の事をフィンスター家夫人として考えてくれていたのね。結婚して五年経つけれど初耳だわ」
「お前はこの期に及んで減らず口を……! 良いか、今回は黙って行かせたがジュノはフィンスター家の跡継ぎだ。勝手な真似は許さん。事が落ち着いたらすぐにでも家に戻して跡継ぎとしての教育を再開させるぞ。田舎村の医者になど任せてられるか!」
ダレンの怒声が、喪に服すように静まっていたフィンスター家の屋敷に響く。
だがその怒声も今のプリシラには気持ちを冷えさせるものでしかなく、無意識に小さく鼻で笑ってしまった。
「自分の旅立ちを見送りもしない父親から、傾いた家名を継いで何が嬉しいのかしら」
凍てつくように冷めた言葉がプリシラの口から零れる。
「貴様っ!」
激昂したダレンが怒鳴るだけでは足りず、素早く右手を掲げた。
「……っ!」
咄嗟にプリシラが目を瞑る。瞬間、何かが自分の身体を揺らした。
パンッ! と高い音がする。
だが待てども衝撃は来ず、細く目を開けて様子を窺い……、「オリバー?」と御者の名を呼んだ。
彼がプリシラの目の前に立っている。不自然に斜め下へと顔を向けて。
そんなオリバーの前に立つのは激昂を顔に宿したダレン。先程まで掲げられた右手は、まるで振り抜いたかのように下げられている。
それを見て、プリシラは理解すると同時に小さく息を呑んだ。
あの瞬間、ダレンはプリシラの頬を叩こうとした。掲げられた右手は迷いなくプリシラへと振り下ろされた。
だがそれをオリバーが割って入ったのだ。プリシラを後ろにさがらせ、庇うようにダレンの右手を頬に受けた……。
「ダレン様、暴力はおやめください」
オリバーの声は叩かれた直後とは思ぬほど落ち着いている。
対してダレンはいまだ怒り心頭と言わんばかりの表情をしており、オリバーを睨みつけた。
「御者風情が口を挟むな! 下がっていろ!」
「目の前で暴力を振るわれてみすみす見逃すわけにはいきません。プリシラ様の夫として、フィンスター家の当主として、立場有る者の振る舞いをしてください」
「……若造が利いた風な口を」
忌々しいと言いたげにダレンがオリバーを睨みつけ、だがそれ以上は何も言わず踵を返すと屋敷の奥へと戻ってしまった。
妙に足早なのは苛立ちの表れか。屋敷の者とはいえ人の目がある中で暴力を振るった事をまずいと考えたか。
側近や給仕達がそれを小走りで追いかける。
もちろんダレンも他の者達もプリシラを気遣う言葉はひとつも掛けてこない。謝罪なんてもってのほか。
唯一残ったオリバーだけが心配そうにプリシラを見つめてきた。
「プリシラ様、大丈夫ですか?」
「私は平気よ。でもオリバー、貴方が……」
「これぐらいどうという事はありません。お茶をお持ちしますので、先にお部屋にお戻りください」
「え、えぇ、分かったわ……。でも私のお茶より、頬を冷やすものを用意して」
「かしこまりました。では、お部屋へ」
オリバーに促され、プリシラは自室に戻るべく歩き出した。
胸の内が落ち着かない。心臓が早鐘を打ち、ドクドクと嫌な音が自分の中で木霊する。
滲むように胸が痛む。頬を叩かれるよりもきっと今の痛みの方が辛い。




